「俺と結婚してくれませんか」
彼の中には、0か100しかない。白か黒ではなく、0か100。
私のことは0か100しかない。真ん中はなくて、百好きか、一も好きじゃないか。
そう言ったら、意味が分からないのか首を傾げた。
だから私はこの人が世界で一番大嫌い。何度告白されても私はこの人が大嫌い。
私の感情をすべて浚ってしまったのは、貴方だ。
『氷と太陽の黄金比』
*
私には人に理解されないような趣味がある。
グラスに氷を限界まで入れて、そこに熱湯を注ぐ。
私はその一連の行動が堪らなく、気持ちが高揚してしまうのだ。
氷が熱湯に溶かされていく。
けれど、グラスにめいいっぱい入っている氷の方が有利で、氷の隙間に入ったお湯はやがてぬるま湯になる。ぬるま湯の中で氷が勝ち誇ったように、カランと溶ける音を鳴らす。
これが私の氷と水の黄金比。
でもぬるま湯が好きなわけじゃない。お湯が氷に凍てつかせるのが好きなわけじゃない。
その過程が好きなの。
誰にも理解されない私の細やかな一人の時間の楽しみ。
私が氷と過程しよう。
貴方を熱湯と過程しよう。
私は過程だけが楽しくて、私に凍らされた貴方には興味は最早ない。
貴方は今日も私に溶かされる。
その数、99回。
再度沸騰して、熱湯になってくる彼は蒸発した分、注がれるお湯が少なくなってるのか最近はすぐに凍てついてしまう。
「おい!名月(なつき)がまた雪の女王に凍らされたぞ!」
食堂中に、野次馬の声が響き渡る。
すると、囃し立てる声や歓声が聞こえてくる。
雪の女王とビッグネームをつけられ馬鹿にされている私は、凍ってしまった名月先輩を見上げた。
「受験、頑張ってください。私には関係ありませんが」
固まった名月先輩は、夏に部活を引退してから坊主だった頭に髪を増やしつつある不思議な髪型。学ランからはいつも真っ赤なパーカーが見えていて、腰パンしているのか身長は私より頭2つ分大きいのに極端に足が短い。
足が短いですねって言った時に「腰パンだ!」とわざわざ学ランをめくり、真っ赤なボクサーパンツを見せつけてきた露出狂なので、服装については二度と言及しない。
190センチ、野球部部長、甲子園二回戦敗退、今まで部活中心の生活で彼女はいたことがない。
熱血で暑苦しく、男友達に常に囲まれている。所謂、完全なる陽キャラだ。
「じゃ、じゃあ受験が終わったら、再度結婚を申し込みたい!」
「……嫌です」
対する私は完全なる陰キャラ。
ロシア人の祖父の血を引くせいで、銀色の髪と青い目を持つ。
そのせいで笑わないだのお人形みたいだの、遠巻きに見てくる人が増えてきた。
小学生の時はそこまで区別されなかったのだが、中学の時に一度だけモデルの仕事で雑誌に載ってから遠巻きにされ、勝手に冷たい、傲慢だの印象を植え付けられた。
その雑誌が原因で目の前の名月先輩に付きまとわられ迷惑もしている。
忘れもしない。入学して校門をくぐった瞬間に、壁みたいな名月先輩に進路を阻まれたのだから。
「やばい。君が好きだ」
ボロボロになった雑誌の切り抜きを持って名月先輩は突如として現れた。
「君に一目惚れなんだ」
「……罰ゲームですか?」
呼び止められたが、明らかに体育館の陰から此方を見ている数人の男子が見えている。
罰ゲームの対象にされて私が嫌な気持ちになるとは考えないのだろう。人間とは自分たちが楽しければ他人を蔑ろにするのに長けた生き物だ。
「ちが、ちが、あの! アドレス教えてください!」
「すみません。怖いです」
真っ赤な茹で蛸みたいな彼は、急に青ざめて謝ってきたが、私は静かに学校で過ごしたかったのに彼のせいで狂わされた。
「二度と私に近づかないでください」
深々とお辞儀してお願いしたら、納得してくれたのかその場で固まっていた。
それがファーストコンタクト。最初で最後だと思いたかった。
正確には、これは最初ではなかったけれど。
「名月先輩、可哀そう」
「人前であんなに冷たく言う必要ある?」
「普通、あんな格好いい人から告白されたら、嬉しいはずじゃん」
食堂から出て行く私に、悪意のこもった言葉が投げかけられていく。
表情が乏しい私は、彼らの言葉に傷つかない設定らしい。
なので好き勝手言われて、耐えるしかない。
「待って。俺が人前で告白したんだから、彼女は何も悪くないじゃん」
そしていつも彼がフォローしているのも知っている。
「どうしても二人っきりになったら恥ずかしくて言えなくて、人前で意気地もなく告白してんのは俺。あと好みの問題もあるし、次はもっとうまく告白するよ」
さっきまで冷えていた食堂の空気を、温かく照らす。
彼は私と違い、言葉が優しく人の気持ちを考えて話していた。
私が何か言うたびに静まり返る世界とは違う。
彼の言葉は、私以外の人を笑顔にする力があるんだ。
初めて会った日もそうだった。今も覚えている。
彼が忘れてしまっても私は覚えている。
だから彼が嫌いで仕方がないんだと思う。
*
「……やられた」
放課後、先生に捕まって提出物を職員室まで持っていくのを手伝ったせいで一番に靴箱に行けなかった。
そのせいで、私の靴箱から学校指定のローファーが無くなっている。
親に見つからないようにお小遣いで買いなおすのに、いつも苦労しているというのに。
「氷見さん」
「名月先輩」
タイミング悪く、多分ラブレターらしき分厚い封筒を持ってきた名月先輩と鉢合わせしてしまった。
「うちの高校って靴箱に蓋がないのが風流じゃないよね」
「あのう」
もじもじと手紙をもって真っ赤になっている名月先輩に、私は靴箱を指さす。
「貴方の告白を断るたびに、卑怯で臆病で小心者が、ノートだったり靴だったり、小さな物を隠すんです」
「は!? まじで?」
「ごく最近ですけど靴は三足目ですね」
「俺だって欲しいのに――って有り得ねえ」
違う部分に憤慨している様子に、嘆息してしまう。
「私のことが好きだというくせに、貴方のせいで嫌がらせされているのは気づかないんですね」
「うっ」
私の言葉に、彼は壁に吹っ飛ばされわざとらしく苦し気に倒れ込む。
「貴方の告白を受け入れたら嫌がらせはなくなるのかなって思っても、どうしても断る私は、貴方がよほど嫌いなんですね」
スリッパで出て行こうとすると、肩を捕まえられて引き上げられた。
「あのう……」
「ちょっと待ってて。すぐだから。待ってて」
名月先輩は携帯を手に、電話やメッセージを送りだした。
そして私に手紙を渡すと、すぐに放送室の方へ走っていった。
「待ってください!」
先輩が何を考えているのか分かったが、元野球部エースの足には敵うはずもない。
『えー……一年の氷見さんの靴を間違えて履いて帰ったか、盗ったストーカー、今すぐ職員室へ来なさい』
「ぶっ」
低い声で、校長の声を真似ているのがすぐにわかって思わず吹き出してしまった。
「あ、今、氷見さん、笑わなかった!?」
「わ、笑っていません」
放送室から飛び出てきた名月先輩は、少し嬉しそうだった。
「これで、今まで君の靴を盗っていた人はもう盗まないよ。ストーカーだの言われたくないだろうしね」
「……お礼は別に言いませんよ?」
現状打破にもなっていない。結局今日は、スリッパで下校し途中で指定の靴屋に買いに行かなければいけないのだから。
「今、友達に頼んで一階から探してもらってる。俺は証拠隠滅にはゴミ箱だと思うんだよね。焼却炉とか」
「うちには焼却炉なんてありませんよ」
学校で物を焼いてはいけないって決まってからどの学校も封鎖されているはず。
「使っていない焼却炉なら、外の部室棟の裏にあるよ。一緒においで」
行きませんというよりも早く手を掴まれた。
先輩の赤いパーカーのフードが上下に揺れるのを見ながら、外にスリッパで出て部室まで走った。
注目されて、居心地が悪くて下を向く。下を向いても私の髪色は珍しく逃げることも隠れることも他人のように振る舞うこともできなかった。
「んー。ねえな。お宝はあんだけど、それらしいものはないな」
「お宝?」
焼却炉の周りには段ボールだったりパンクした自転車だったり、ゴミ置き場になっていて週刊漫画の束が捨てられたりしている。
「お宝は――清らかな氷見さんには見られたくないな。えい」
遠くに投げ捨てられた本を目で追っていたら、校門の柵の上に自殺する人が揃えるように靴がちょこんと乗っていた。
「先輩、あそこにあります」
「お、あれが氷見さんの?」
「はい。たぶん」
手を伸ばそうとしても、私の背の倍はありそうな門の上には届きそうにない。
「すみませんが、取っていただけませんか」
「もっち」
嬉しそうに声を弾ませて、部室から持ってきたラケットで靴をとってくれた。
それにしても不自然な場所だ。放送で聞えて驚いた犯人がここに置いて逃げ去ったのかな。
「皆―、ありがとー! 靴、発見したよー」
電話しながら校舎に手を振る名月先輩に、すぐに校舎から何人か手を振り返しているのが見えた。
彼の言葉で一体、何人の人が手伝って探してくれていたんだろう。
「ありがとうございました」
「ううん。俺が悪かった」
早速靴を履くと、スリッパを先輩に渡す。
「ん? ご褒美にくれるの?」
「靴箱に片づけてください。このまま帰ります」
下駄箱まで戻りたくなくて、深々と頭を下げながらお願いする。
「先輩が私に絡まなかったら、私はこんな風に物を隠されることはないんです。二度と近づかないでいただけませんか」
もう二度と。
もう二度と、だ。
もう二度と名月先輩には会いたいと思ってもいなかったんだから。
「次で俺が告白したら、記念すべき百回目って知ってる?」
重い沈黙の後、先輩は言葉を選んで話し出す。
顔を上げると、穏やかに微笑む先輩の顔があった。
「知ってます。数えてましたから」
「古いドラマに百一回告白してた人がいたから、俺も百頑張ってみようかなって思ってたんだけど」
「……名月先輩」
声が震えたのは心が震えたからだ。
先輩に言わないと決めたことがある。
だから私は貴方を冷たく、――冷たく突き放さなければいけないことがある。
「私たち、すでに百回目なんですよ」
「え? 俺、数え間違えていた?」
「いいえ」
心の中で、熱湯を注いだ氷がカランと音を立てて溶けた気がした。
「私たちの初めましては、入学式の日の一目ぼれじゃないんです」
告げた真実に、名月先輩の目は大きく見開かれる。
それはつまり、知らなかったということ。
それはつまり、先輩にとってあの時の私は0であって、どうでもいい存在だってこと。
「だから私は名月先輩がどうしても嫌いなんです。だから貴方の言葉は、何百回聞いても私の心には響かないんですよ」
ごめんなさい、無理なんです。
もう一度念を押して謝ると、彼は固まっていた。
私はそのまま、校門を出て家へと向かう。
追いかけてこない名月先輩に、気づけば視界が滲んでいた。
私が中学一年の頃。
一度だけ、モデルの仕事で中高生に人気のファッション雑誌に載ったことがある。
結婚式に呼ばれたとき、中高生は制服を着ることが多いんだけど、制服ではなくフォーマルなドレスを流行らせようとした雑誌の企画。ハーフや外国人の方がドレスは着こなせると、数人のハーフやクォーターのモデルが呼ばれ、なぜか私も母の仕事関係の人から打診があり断れなかった。
でも雑誌に載った次の日から、クラスの女子からの嫌がらせやいじめが始まった。
靴箱、机の中がからっぽなのは当たり前、椅子がないこともあった。
なので教室に置き勉もせず、靴は常に持ち歩いていた。
私が傷ついた様子を見せないのが気に食わなかったのだろう。
ある日の放課後、帰り道に待ち伏せされてカバンを奪われ、川に落とされた。
川に浮かぶカバンと教科書、ノートを道路の上から見下ろしながらこのまま落ちてしまえば楽じゃないかなって生きることに絶望した。
『おい、なつき、なつきっ』
道路の上で立ちすくんでいた私の代わりに、野球のユニフォームの少年が土手を走って下り、水飛沫をあげながら川に飛び込んだ。そして次々浮かんでいるノートや教科書を拾ってくれた。
『俺たちは先にに帰るぞっ。監督に起こられても知らんからな』
同じユニフォームを着た数人はそそくさと走り去っていく。
なのに彼だけは足を泥だらけにしながら、全て拾ってくれたんだ。
『これで全部?』
『……多分、あの、ありがとうございます』
『ん。ごめん、はやく戻らなきゃだから』
胸の名前は『一条名月』と書かれていたのは、今でもはっきり覚えている。
彼は何もなかったかのようにさっさと走っていくと、私の方を一度も振り向かなかった。
私に対して何も思っていないことは明らかで、ただ彼が良い人で親切でしたこと。
わたしじゃなくてもきっと親切にしていた。
それでも私は嬉しくて、濡れて汚れたカバンを抱きしめて泣いてしまった。
あんなに優しくて見返りもなく人に親切にできる人もいるんだと、絶望の中、私を照らしてくれたのは名月先輩だった。
それなのに。
忘れもしない。入学して校門をくぐった瞬間に、壁みたいな名月先輩に進路を阻まれたのだから。
「やばい。君が好きだ」
ボロボロになった雑誌の切り抜きを持って名月先輩は突如として現れた。
「君に一目惚れなんだ」
――君に一目ぼれなんだ。
私を救ってくれた大切な時間、大切なあの一瞬。
名月先輩の中に何一つ残っていなかった。
私の大事な気持ちごと、彼の心の中にはない。
0か100かとしたら、私の大切な思い出は彼にとって0なんだ。
何度告白されても、何度真っ赤になって告白してきても。
貴方に忘れられた最初の思い出を消したくなくて、私は貴方を嫌うしかない。
私みたいに冷たくて氷みたいな女を好きになっても、名月先輩が可哀そう。
もし。
もしあなたがあの日を一として数えてくれていたら、誰が私を嫌っていても
勇気を出して貴方の告白を受け入れて、貴方が好きだと叫びたかった。
でも、どうしても大切だったあの日を0にされ、カウントされなかった私は貴方の気持ちが信じられない。
好きでこんな容姿に生まれたわけじゃない。笑わないわけじゃない。咄嗟に愛想笑いも気の利いた言葉も出てこない。
冷たい氷の女王様って呼ばれて馬鹿にされる存在。
ぐるぐるした感情の中、家に帰ると家族は仕事で誰もいないのを確認すると、キッチンでお湯を沸かした。
私には人に理解されないような趣味がある。
グラスに氷を限界まで入れて、そこに熱湯を注ぐ。
私はその一連の行動が堪らなく、気持ちが高揚してしまうのだ。
氷が熱湯に溶かされていく。
けれど、グラスにめいいっぱい入っている氷の方が有利で、氷の隙間に入ったお湯はやがてぬるま湯になる。ぬるま湯の中で氷が勝ち誇ったように、カランと溶ける音を鳴らす。
これが私の氷と水の黄金比。
でもぬるま湯が好きなわけじゃない。お湯が氷に凍てつかせるのが好きなわけじゃない。
その過程が好きなの。
誰にも理解されない私の細やかな一人の時間の楽しみ。
沸騰したお湯を、氷の入ったグラスに注ぎながら湯気が目に沁みて涙がこぼれた。
沸騰したお湯は温くなる。でも名月先輩はどうだろうか。
太陽みたいにこのグラスを照らせば、中に入っている私みたいなちっぽけな氷は、簡単に溶けてしまうんじゃないかな。
溶かしてよ。
音を鳴らして溶かしてほしい。
百回目で気づいてほしかった。
0なら気づかれないまま、思い出だけ大切にさせてよ。
わからないよ。ぐちゃぐちゃの私の気持ちは私自身でも整理できなくて、馬鹿みたいに安堵も何度もお湯を沸騰させては、黄金比の氷の中へ注いだ。
それでも今日だけは気持ちが穏やかになることはなかった。
*
潔癖なのかもしれない。
虐められてきたせいで、私の方が好きか嫌いかはっきり分けてしまって距離を置いてしまっているのかもしれない。
スリッパを先輩に靴箱に仕舞ってほしいと頼んだのは失敗だった。
遅刻ギリギリに、重い足取りで歩きながらそう思った。
もしかしたら、靴の件で切れた人がスリッパも隠してしまったかもしれない。
考えれば考えるほど、足は重くなるし腫れぼったい目がひりひりと痛んだ。
予鈴がなるまであと数分。
くぐる校門の向こう、一年の下駄箱に名月先輩が仁王立ちで立っていた。
「おーい、氷見さーん、遅刻だよ―急げ―」
「……名月先輩」
相変わらず赤いフードが学ランから見えている。
伸ばし始めのちくちくしている黒髪が、左右に元気に揺れて、大きく振る左手にはラミネート加工されたボロボロの紙切れが握られていた。
「今日から俺、氷見さんの靴箱の騎士になるよ。盗られないよう見張ってる」
「迷惑です。余計に睨まれちゃう」
「そんで、俺もちゃんと言わないといけないことがあったなって」
先輩は手に持っていたボロボロの雑誌の切れ端を見せてくれた。
それは、私が最初で最後にモデルとして雑誌に載ったときの写真。
「コンビニで適当に雑誌を開いて読んでたらさ、驚いた。……あの時、川にカバンを落としてた美少女だって」
「……え?」
「お人形みたいで綺麗だなあ、やばいなって思ったら、数日後、雑誌の中で再会しちゃうんだもん。女の子の雑誌を買うの、恥ずかしいとさえ思わなかった。二冊買って一冊は保存してあるんだ」
先輩の言葉に顔を上げて、驚いてしまった。
見上げた先輩は、真っ赤な顔をしている。
「すげえ緊張して全然顔も見れなかった。しかも部活中で汗臭いし、急いで帰らないと怒られるしで、ほとんど記憶がねえの。だから1としてカウントしないでごめんね」
「……嘘」
「嘘じゃないよ。川を橋の上から見下ろしている氷見さんが、なんかすげえ綺麗なのに寂しそうで、笑ってほしいなって思ってた。そうしたら雑誌に笑顔で写ってるから笑った顔が見たいなってずっと、ずっと思ってたんだ」
俺、超一途でしょ?
くしゃくしゃに笑う先輩に、私は頷いた。
「私もあの日の先輩が誰よりも――太陽よりも眩しくて大切で、0とされるのが悔しくてごめんなさい。ずっとごめんなさい」
氷が溶けて涙が零れ落ちた。
太陽が照らしてくれたから。
「えっとつまり?」
「今回で100回目ですね。私からいいですか?」
今まで氷の態度を反省したくて私から伝えようとしたら、同時に『好きです』と叫んで、同時に笑ってしまっていた。
ああ、私はこの人が、太陽のような人が本当に好きだったんだ。
授業の予鈴を聞きながら、私と先輩は微笑んだ。
「もっと氷見さんのこと、俺に教えてよ。放課後、迎えに行くよ」
耳まで真っ赤にしながら笑う先輩に私も微笑んだ。
「うわ、やっべ。氷見さんの笑顔、……鼻血出そう」
そういって幸せそうに笑う名月先輩に、私のグラスの中の頑なな氷が全て溶けていった。
*
*
放課後、祖父の営むカフェにて。
私はカウンターに座る先輩に、並々に氷がはいったグラスを差し出す。
「先輩、私の変な趣味笑いません?」
「え、どんな趣味?」
熱湯を注いで、グラスの中の氷を見せた。
案の定、先輩は爆笑してカウンターをバンバン叩くんだけど、真っ赤な顔で目を閉じる。
「ああ、でも確かに。氷が勝ちほこってカランって音を立てたね」
なんて。私の趣味を馬鹿にしないで、一緒に楽しんでくれた。
なので氷の女王なんて馬鹿にされ続けた私は、先輩の太陽みたいな気持ちに溶けていく。
二人でグラスを眺めながら、カウンターの下で手を繋ぐ。
グラスの中の氷が溶けても、私は名月先輩の横で頬を熱くさせ幸せなぬるま湯の中漂っていた。
「そういえば、名月先輩はどうして途中から告白が『結婚してください』ってエスカレートしてきたんですか」
「ええ、それ今聞く?」
クスクス笑いながら、先輩は私の方を見た。
「最初に無理難題をお願いして『結婚が無理なら恋人からお願い』って付き合うハードルを下げようとしたんだ」
「……なるほど」
単純な作戦に、私は再び笑ったのだった。
終
彼の中には、0か100しかない。白か黒ではなく、0か100。
私のことは0か100しかない。真ん中はなくて、百好きか、一も好きじゃないか。
そう言ったら、意味が分からないのか首を傾げた。
だから私はこの人が世界で一番大嫌い。何度告白されても私はこの人が大嫌い。
私の感情をすべて浚ってしまったのは、貴方だ。
『氷と太陽の黄金比』
*
私には人に理解されないような趣味がある。
グラスに氷を限界まで入れて、そこに熱湯を注ぐ。
私はその一連の行動が堪らなく、気持ちが高揚してしまうのだ。
氷が熱湯に溶かされていく。
けれど、グラスにめいいっぱい入っている氷の方が有利で、氷の隙間に入ったお湯はやがてぬるま湯になる。ぬるま湯の中で氷が勝ち誇ったように、カランと溶ける音を鳴らす。
これが私の氷と水の黄金比。
でもぬるま湯が好きなわけじゃない。お湯が氷に凍てつかせるのが好きなわけじゃない。
その過程が好きなの。
誰にも理解されない私の細やかな一人の時間の楽しみ。
私が氷と過程しよう。
貴方を熱湯と過程しよう。
私は過程だけが楽しくて、私に凍らされた貴方には興味は最早ない。
貴方は今日も私に溶かされる。
その数、99回。
再度沸騰して、熱湯になってくる彼は蒸発した分、注がれるお湯が少なくなってるのか最近はすぐに凍てついてしまう。
「おい!名月(なつき)がまた雪の女王に凍らされたぞ!」
食堂中に、野次馬の声が響き渡る。
すると、囃し立てる声や歓声が聞こえてくる。
雪の女王とビッグネームをつけられ馬鹿にされている私は、凍ってしまった名月先輩を見上げた。
「受験、頑張ってください。私には関係ありませんが」
固まった名月先輩は、夏に部活を引退してから坊主だった頭に髪を増やしつつある不思議な髪型。学ランからはいつも真っ赤なパーカーが見えていて、腰パンしているのか身長は私より頭2つ分大きいのに極端に足が短い。
足が短いですねって言った時に「腰パンだ!」とわざわざ学ランをめくり、真っ赤なボクサーパンツを見せつけてきた露出狂なので、服装については二度と言及しない。
190センチ、野球部部長、甲子園二回戦敗退、今まで部活中心の生活で彼女はいたことがない。
熱血で暑苦しく、男友達に常に囲まれている。所謂、完全なる陽キャラだ。
「じゃ、じゃあ受験が終わったら、再度結婚を申し込みたい!」
「……嫌です」
対する私は完全なる陰キャラ。
ロシア人の祖父の血を引くせいで、銀色の髪と青い目を持つ。
そのせいで笑わないだのお人形みたいだの、遠巻きに見てくる人が増えてきた。
小学生の時はそこまで区別されなかったのだが、中学の時に一度だけモデルの仕事で雑誌に載ってから遠巻きにされ、勝手に冷たい、傲慢だの印象を植え付けられた。
その雑誌が原因で目の前の名月先輩に付きまとわられ迷惑もしている。
忘れもしない。入学して校門をくぐった瞬間に、壁みたいな名月先輩に進路を阻まれたのだから。
「やばい。君が好きだ」
ボロボロになった雑誌の切り抜きを持って名月先輩は突如として現れた。
「君に一目惚れなんだ」
「……罰ゲームですか?」
呼び止められたが、明らかに体育館の陰から此方を見ている数人の男子が見えている。
罰ゲームの対象にされて私が嫌な気持ちになるとは考えないのだろう。人間とは自分たちが楽しければ他人を蔑ろにするのに長けた生き物だ。
「ちが、ちが、あの! アドレス教えてください!」
「すみません。怖いです」
真っ赤な茹で蛸みたいな彼は、急に青ざめて謝ってきたが、私は静かに学校で過ごしたかったのに彼のせいで狂わされた。
「二度と私に近づかないでください」
深々とお辞儀してお願いしたら、納得してくれたのかその場で固まっていた。
それがファーストコンタクト。最初で最後だと思いたかった。
正確には、これは最初ではなかったけれど。
「名月先輩、可哀そう」
「人前であんなに冷たく言う必要ある?」
「普通、あんな格好いい人から告白されたら、嬉しいはずじゃん」
食堂から出て行く私に、悪意のこもった言葉が投げかけられていく。
表情が乏しい私は、彼らの言葉に傷つかない設定らしい。
なので好き勝手言われて、耐えるしかない。
「待って。俺が人前で告白したんだから、彼女は何も悪くないじゃん」
そしていつも彼がフォローしているのも知っている。
「どうしても二人っきりになったら恥ずかしくて言えなくて、人前で意気地もなく告白してんのは俺。あと好みの問題もあるし、次はもっとうまく告白するよ」
さっきまで冷えていた食堂の空気を、温かく照らす。
彼は私と違い、言葉が優しく人の気持ちを考えて話していた。
私が何か言うたびに静まり返る世界とは違う。
彼の言葉は、私以外の人を笑顔にする力があるんだ。
初めて会った日もそうだった。今も覚えている。
彼が忘れてしまっても私は覚えている。
だから彼が嫌いで仕方がないんだと思う。
*
「……やられた」
放課後、先生に捕まって提出物を職員室まで持っていくのを手伝ったせいで一番に靴箱に行けなかった。
そのせいで、私の靴箱から学校指定のローファーが無くなっている。
親に見つからないようにお小遣いで買いなおすのに、いつも苦労しているというのに。
「氷見さん」
「名月先輩」
タイミング悪く、多分ラブレターらしき分厚い封筒を持ってきた名月先輩と鉢合わせしてしまった。
「うちの高校って靴箱に蓋がないのが風流じゃないよね」
「あのう」
もじもじと手紙をもって真っ赤になっている名月先輩に、私は靴箱を指さす。
「貴方の告白を断るたびに、卑怯で臆病で小心者が、ノートだったり靴だったり、小さな物を隠すんです」
「は!? まじで?」
「ごく最近ですけど靴は三足目ですね」
「俺だって欲しいのに――って有り得ねえ」
違う部分に憤慨している様子に、嘆息してしまう。
「私のことが好きだというくせに、貴方のせいで嫌がらせされているのは気づかないんですね」
「うっ」
私の言葉に、彼は壁に吹っ飛ばされわざとらしく苦し気に倒れ込む。
「貴方の告白を受け入れたら嫌がらせはなくなるのかなって思っても、どうしても断る私は、貴方がよほど嫌いなんですね」
スリッパで出て行こうとすると、肩を捕まえられて引き上げられた。
「あのう……」
「ちょっと待ってて。すぐだから。待ってて」
名月先輩は携帯を手に、電話やメッセージを送りだした。
そして私に手紙を渡すと、すぐに放送室の方へ走っていった。
「待ってください!」
先輩が何を考えているのか分かったが、元野球部エースの足には敵うはずもない。
『えー……一年の氷見さんの靴を間違えて履いて帰ったか、盗ったストーカー、今すぐ職員室へ来なさい』
「ぶっ」
低い声で、校長の声を真似ているのがすぐにわかって思わず吹き出してしまった。
「あ、今、氷見さん、笑わなかった!?」
「わ、笑っていません」
放送室から飛び出てきた名月先輩は、少し嬉しそうだった。
「これで、今まで君の靴を盗っていた人はもう盗まないよ。ストーカーだの言われたくないだろうしね」
「……お礼は別に言いませんよ?」
現状打破にもなっていない。結局今日は、スリッパで下校し途中で指定の靴屋に買いに行かなければいけないのだから。
「今、友達に頼んで一階から探してもらってる。俺は証拠隠滅にはゴミ箱だと思うんだよね。焼却炉とか」
「うちには焼却炉なんてありませんよ」
学校で物を焼いてはいけないって決まってからどの学校も封鎖されているはず。
「使っていない焼却炉なら、外の部室棟の裏にあるよ。一緒においで」
行きませんというよりも早く手を掴まれた。
先輩の赤いパーカーのフードが上下に揺れるのを見ながら、外にスリッパで出て部室まで走った。
注目されて、居心地が悪くて下を向く。下を向いても私の髪色は珍しく逃げることも隠れることも他人のように振る舞うこともできなかった。
「んー。ねえな。お宝はあんだけど、それらしいものはないな」
「お宝?」
焼却炉の周りには段ボールだったりパンクした自転車だったり、ゴミ置き場になっていて週刊漫画の束が捨てられたりしている。
「お宝は――清らかな氷見さんには見られたくないな。えい」
遠くに投げ捨てられた本を目で追っていたら、校門の柵の上に自殺する人が揃えるように靴がちょこんと乗っていた。
「先輩、あそこにあります」
「お、あれが氷見さんの?」
「はい。たぶん」
手を伸ばそうとしても、私の背の倍はありそうな門の上には届きそうにない。
「すみませんが、取っていただけませんか」
「もっち」
嬉しそうに声を弾ませて、部室から持ってきたラケットで靴をとってくれた。
それにしても不自然な場所だ。放送で聞えて驚いた犯人がここに置いて逃げ去ったのかな。
「皆―、ありがとー! 靴、発見したよー」
電話しながら校舎に手を振る名月先輩に、すぐに校舎から何人か手を振り返しているのが見えた。
彼の言葉で一体、何人の人が手伝って探してくれていたんだろう。
「ありがとうございました」
「ううん。俺が悪かった」
早速靴を履くと、スリッパを先輩に渡す。
「ん? ご褒美にくれるの?」
「靴箱に片づけてください。このまま帰ります」
下駄箱まで戻りたくなくて、深々と頭を下げながらお願いする。
「先輩が私に絡まなかったら、私はこんな風に物を隠されることはないんです。二度と近づかないでいただけませんか」
もう二度と。
もう二度と、だ。
もう二度と名月先輩には会いたいと思ってもいなかったんだから。
「次で俺が告白したら、記念すべき百回目って知ってる?」
重い沈黙の後、先輩は言葉を選んで話し出す。
顔を上げると、穏やかに微笑む先輩の顔があった。
「知ってます。数えてましたから」
「古いドラマに百一回告白してた人がいたから、俺も百頑張ってみようかなって思ってたんだけど」
「……名月先輩」
声が震えたのは心が震えたからだ。
先輩に言わないと決めたことがある。
だから私は貴方を冷たく、――冷たく突き放さなければいけないことがある。
「私たち、すでに百回目なんですよ」
「え? 俺、数え間違えていた?」
「いいえ」
心の中で、熱湯を注いだ氷がカランと音を立てて溶けた気がした。
「私たちの初めましては、入学式の日の一目ぼれじゃないんです」
告げた真実に、名月先輩の目は大きく見開かれる。
それはつまり、知らなかったということ。
それはつまり、先輩にとってあの時の私は0であって、どうでもいい存在だってこと。
「だから私は名月先輩がどうしても嫌いなんです。だから貴方の言葉は、何百回聞いても私の心には響かないんですよ」
ごめんなさい、無理なんです。
もう一度念を押して謝ると、彼は固まっていた。
私はそのまま、校門を出て家へと向かう。
追いかけてこない名月先輩に、気づけば視界が滲んでいた。
私が中学一年の頃。
一度だけ、モデルの仕事で中高生に人気のファッション雑誌に載ったことがある。
結婚式に呼ばれたとき、中高生は制服を着ることが多いんだけど、制服ではなくフォーマルなドレスを流行らせようとした雑誌の企画。ハーフや外国人の方がドレスは着こなせると、数人のハーフやクォーターのモデルが呼ばれ、なぜか私も母の仕事関係の人から打診があり断れなかった。
でも雑誌に載った次の日から、クラスの女子からの嫌がらせやいじめが始まった。
靴箱、机の中がからっぽなのは当たり前、椅子がないこともあった。
なので教室に置き勉もせず、靴は常に持ち歩いていた。
私が傷ついた様子を見せないのが気に食わなかったのだろう。
ある日の放課後、帰り道に待ち伏せされてカバンを奪われ、川に落とされた。
川に浮かぶカバンと教科書、ノートを道路の上から見下ろしながらこのまま落ちてしまえば楽じゃないかなって生きることに絶望した。
『おい、なつき、なつきっ』
道路の上で立ちすくんでいた私の代わりに、野球のユニフォームの少年が土手を走って下り、水飛沫をあげながら川に飛び込んだ。そして次々浮かんでいるノートや教科書を拾ってくれた。
『俺たちは先にに帰るぞっ。監督に起こられても知らんからな』
同じユニフォームを着た数人はそそくさと走り去っていく。
なのに彼だけは足を泥だらけにしながら、全て拾ってくれたんだ。
『これで全部?』
『……多分、あの、ありがとうございます』
『ん。ごめん、はやく戻らなきゃだから』
胸の名前は『一条名月』と書かれていたのは、今でもはっきり覚えている。
彼は何もなかったかのようにさっさと走っていくと、私の方を一度も振り向かなかった。
私に対して何も思っていないことは明らかで、ただ彼が良い人で親切でしたこと。
わたしじゃなくてもきっと親切にしていた。
それでも私は嬉しくて、濡れて汚れたカバンを抱きしめて泣いてしまった。
あんなに優しくて見返りもなく人に親切にできる人もいるんだと、絶望の中、私を照らしてくれたのは名月先輩だった。
それなのに。
忘れもしない。入学して校門をくぐった瞬間に、壁みたいな名月先輩に進路を阻まれたのだから。
「やばい。君が好きだ」
ボロボロになった雑誌の切り抜きを持って名月先輩は突如として現れた。
「君に一目惚れなんだ」
――君に一目ぼれなんだ。
私を救ってくれた大切な時間、大切なあの一瞬。
名月先輩の中に何一つ残っていなかった。
私の大事な気持ちごと、彼の心の中にはない。
0か100かとしたら、私の大切な思い出は彼にとって0なんだ。
何度告白されても、何度真っ赤になって告白してきても。
貴方に忘れられた最初の思い出を消したくなくて、私は貴方を嫌うしかない。
私みたいに冷たくて氷みたいな女を好きになっても、名月先輩が可哀そう。
もし。
もしあなたがあの日を一として数えてくれていたら、誰が私を嫌っていても
勇気を出して貴方の告白を受け入れて、貴方が好きだと叫びたかった。
でも、どうしても大切だったあの日を0にされ、カウントされなかった私は貴方の気持ちが信じられない。
好きでこんな容姿に生まれたわけじゃない。笑わないわけじゃない。咄嗟に愛想笑いも気の利いた言葉も出てこない。
冷たい氷の女王様って呼ばれて馬鹿にされる存在。
ぐるぐるした感情の中、家に帰ると家族は仕事で誰もいないのを確認すると、キッチンでお湯を沸かした。
私には人に理解されないような趣味がある。
グラスに氷を限界まで入れて、そこに熱湯を注ぐ。
私はその一連の行動が堪らなく、気持ちが高揚してしまうのだ。
氷が熱湯に溶かされていく。
けれど、グラスにめいいっぱい入っている氷の方が有利で、氷の隙間に入ったお湯はやがてぬるま湯になる。ぬるま湯の中で氷が勝ち誇ったように、カランと溶ける音を鳴らす。
これが私の氷と水の黄金比。
でもぬるま湯が好きなわけじゃない。お湯が氷に凍てつかせるのが好きなわけじゃない。
その過程が好きなの。
誰にも理解されない私の細やかな一人の時間の楽しみ。
沸騰したお湯を、氷の入ったグラスに注ぎながら湯気が目に沁みて涙がこぼれた。
沸騰したお湯は温くなる。でも名月先輩はどうだろうか。
太陽みたいにこのグラスを照らせば、中に入っている私みたいなちっぽけな氷は、簡単に溶けてしまうんじゃないかな。
溶かしてよ。
音を鳴らして溶かしてほしい。
百回目で気づいてほしかった。
0なら気づかれないまま、思い出だけ大切にさせてよ。
わからないよ。ぐちゃぐちゃの私の気持ちは私自身でも整理できなくて、馬鹿みたいに安堵も何度もお湯を沸騰させては、黄金比の氷の中へ注いだ。
それでも今日だけは気持ちが穏やかになることはなかった。
*
潔癖なのかもしれない。
虐められてきたせいで、私の方が好きか嫌いかはっきり分けてしまって距離を置いてしまっているのかもしれない。
スリッパを先輩に靴箱に仕舞ってほしいと頼んだのは失敗だった。
遅刻ギリギリに、重い足取りで歩きながらそう思った。
もしかしたら、靴の件で切れた人がスリッパも隠してしまったかもしれない。
考えれば考えるほど、足は重くなるし腫れぼったい目がひりひりと痛んだ。
予鈴がなるまであと数分。
くぐる校門の向こう、一年の下駄箱に名月先輩が仁王立ちで立っていた。
「おーい、氷見さーん、遅刻だよ―急げ―」
「……名月先輩」
相変わらず赤いフードが学ランから見えている。
伸ばし始めのちくちくしている黒髪が、左右に元気に揺れて、大きく振る左手にはラミネート加工されたボロボロの紙切れが握られていた。
「今日から俺、氷見さんの靴箱の騎士になるよ。盗られないよう見張ってる」
「迷惑です。余計に睨まれちゃう」
「そんで、俺もちゃんと言わないといけないことがあったなって」
先輩は手に持っていたボロボロの雑誌の切れ端を見せてくれた。
それは、私が最初で最後にモデルとして雑誌に載ったときの写真。
「コンビニで適当に雑誌を開いて読んでたらさ、驚いた。……あの時、川にカバンを落としてた美少女だって」
「……え?」
「お人形みたいで綺麗だなあ、やばいなって思ったら、数日後、雑誌の中で再会しちゃうんだもん。女の子の雑誌を買うの、恥ずかしいとさえ思わなかった。二冊買って一冊は保存してあるんだ」
先輩の言葉に顔を上げて、驚いてしまった。
見上げた先輩は、真っ赤な顔をしている。
「すげえ緊張して全然顔も見れなかった。しかも部活中で汗臭いし、急いで帰らないと怒られるしで、ほとんど記憶がねえの。だから1としてカウントしないでごめんね」
「……嘘」
「嘘じゃないよ。川を橋の上から見下ろしている氷見さんが、なんかすげえ綺麗なのに寂しそうで、笑ってほしいなって思ってた。そうしたら雑誌に笑顔で写ってるから笑った顔が見たいなってずっと、ずっと思ってたんだ」
俺、超一途でしょ?
くしゃくしゃに笑う先輩に、私は頷いた。
「私もあの日の先輩が誰よりも――太陽よりも眩しくて大切で、0とされるのが悔しくてごめんなさい。ずっとごめんなさい」
氷が溶けて涙が零れ落ちた。
太陽が照らしてくれたから。
「えっとつまり?」
「今回で100回目ですね。私からいいですか?」
今まで氷の態度を反省したくて私から伝えようとしたら、同時に『好きです』と叫んで、同時に笑ってしまっていた。
ああ、私はこの人が、太陽のような人が本当に好きだったんだ。
授業の予鈴を聞きながら、私と先輩は微笑んだ。
「もっと氷見さんのこと、俺に教えてよ。放課後、迎えに行くよ」
耳まで真っ赤にしながら笑う先輩に私も微笑んだ。
「うわ、やっべ。氷見さんの笑顔、……鼻血出そう」
そういって幸せそうに笑う名月先輩に、私のグラスの中の頑なな氷が全て溶けていった。
*
*
放課後、祖父の営むカフェにて。
私はカウンターに座る先輩に、並々に氷がはいったグラスを差し出す。
「先輩、私の変な趣味笑いません?」
「え、どんな趣味?」
熱湯を注いで、グラスの中の氷を見せた。
案の定、先輩は爆笑してカウンターをバンバン叩くんだけど、真っ赤な顔で目を閉じる。
「ああ、でも確かに。氷が勝ちほこってカランって音を立てたね」
なんて。私の趣味を馬鹿にしないで、一緒に楽しんでくれた。
なので氷の女王なんて馬鹿にされ続けた私は、先輩の太陽みたいな気持ちに溶けていく。
二人でグラスを眺めながら、カウンターの下で手を繋ぐ。
グラスの中の氷が溶けても、私は名月先輩の横で頬を熱くさせ幸せなぬるま湯の中漂っていた。
「そういえば、名月先輩はどうして途中から告白が『結婚してください』ってエスカレートしてきたんですか」
「ええ、それ今聞く?」
クスクス笑いながら、先輩は私の方を見た。
「最初に無理難題をお願いして『結婚が無理なら恋人からお願い』って付き合うハードルを下げようとしたんだ」
「……なるほど」
単純な作戦に、私は再び笑ったのだった。
終



