なつやすみのおもいで『めだまやき』
床に散らばった、ご飯。
最初で最後、親父と祝いたかった誕生日。
オレ、その時8歳。
気づいた時は、親父の顎をフライパンで殴りつけていた。
次の場面では、着物を着た綺麗な女の人の胸の中、俺はうたた寝をしていた。
『……お義兄さん、アンタには無理よ。むーり』
『そんなことない!』
『そんな事あるんだから、現実は甘くないのよ。この子は私が育てる。お義兄さんは、会いにきちゃ駄目よ』
意識がハッキリした時、俺は母さんに良く似た香りの女性に抱っこされていた。親父は、両手をぶんぶん降りながら、何か喚いていたけど、もう怒るのも、泣くのも、疲れたから、この女性を抱きしめた。
『僕、おばさんの子になりたい』
『えっ』
『もう、僕の名前呼ばないで。僕ももうパパって呼ばないから』
だから、もう寝かせて。
疲れた俺は、うとうと寝ぼける。
散らばった料理、フライパンで殴りつける俺、それ以前の記憶は曖昧で、思い出せなかった。
ただ散らばった目玉焼きで泣く俺のために、おばさんが作ってくれたあの料理だけは、俺の絶望したあの日の唯一のごちそうだった。
***
「あんなに可愛かった俺も、今じゃあ一八〇センチ超えた、イケメンかぁ……」
ピチピチになった学ランに袖を通しながら、俺は姿見で何度も自分を見つめてうっとりする。
「きもーいきもいきもい。あんた、昔も可愛くなくてデカくていかつかったわよー」
すっぴんメガネ+ジャージ姿のおばさんが、ソファで優雅に紅茶を飲みながら俺を睨みつけた。
「それよりアンタ、卒業式はどーするの? 早めに言わなきゃ私も困るのよ」
「あー……。おばさん美人だから着物で来られたら目立つんだよなぁ……。あれ、高校って親同席だっけ?」
ボーっと靴を履きながら考えていると、外に人影が見えた。
「行かないで良いなら、連絡ちょうだい。あと面倒だと思うけど、お義兄さんにもそう言いなさいよ」
「……ああ、うん、ああ」
***
「おっはよー♪ マイラバー!マイラブサン! 嗚呼、我が息子よ!」
「おはよう。おじさん」
俺を壁から襲いかかるように抱きしめて来たおじさんを片手で押さえながら、玄関を閉める。
がっしりした筋肉質な俺と正反対の、華奢で誰もが息をのむような年齢不詳は美形が、俺に抱き着こうとしているのはホラーだ。
「もうすぐ卒業式だね。パパも出席していいのかな? ……ドキドキ」
「おばさん来るから、おじさんは来なくていいよ。それより家の周りウロウロしないでよ」
俺がどんどん歩いていくと、おじさんは後ろをちょこちょこと必死に追いかけてくる。
「ぱ、パパは養育費を払う変わりに月3回の面会権があるんですーぅ!!!」
『パパ』とか『マイラブサン』とか意味分かんないし、本当にうざい。
十年も毎朝こうして繰り返されると麻痺して、慣れてしまっちゃうけど。
でもどうしても感情が何もない。何をしてるのかなって気にもならない。
「今日は、夜ご飯食べて帰りたいなぁ……」
チラッチラッとこっちを伺いながらおじさんは言うけれど、俺はおじさんに一生作る事はないから。
「悪いけど、2人分しか用意してないから」
そう言って一目も見ずに、おじさんを振り払った。
***
「部長のお父さん、また校門の所で号泣してましたねぇ」
後輩が上手にデディベアに綿を詰めながら、目をキラキラさせて言う。
「可愛いお父さんですよねぇ。 なんかモデルみたいだし儚げな感じ。部長イジメたら可哀想だよ」
百八十センチ超えた俺は、いくらイケメンでも、おじさんを泣かすとイジメているように見えるらしい。
「わー! 部長のその髪飾り綺麗!誰にプレゼント?」
ビーズで何個も薔薇を作り、紫と青のビーズで作った蝶をくっつけていると、後輩達が寄ってきて騒いでいる。
「おばさんにあげるんだよ。部活の卒業制作に何か作らなきゃって言ったら髪飾りが欲しいって言うから」
そう言うと、まだ付けてないビーズの薔薇を持ちながら後輩達はうっとりと言う。
卒業式につけてきてもいいように和装にも洋装にも合う髪飾り。
でもおばさん綺麗だから、あんま注目されてほしくないんだよね。
自慢したくなるからポーカーフェイス保てなくなるし。
「あの極道の妻って感じの凛とした人ですよね」
「スッゴい綺麗だったぁ! 部長に全然似てないよねぇ」
「えー、私見たことなぁーい!」
おばさんは確かに母さんの妹だから綺麗だけど、家では眉無しすっぴんで油断しているときは年相応の表情だ。だから綺麗だとは思うけど、そこまで持ち上げられると笑いそうになってしまう。
「部長! 私たちデディベア作ってるんですけど、部長の学ランくれません?」
「何に使うの?」
「八つ裂きにして、皆のクマに着せるの♪ だって部長クマさんみたいだし」
「部長居なくても、クマさんを部長と思って私たち頑張るし」
きゃぴきゃぴ、わいわいはしゃぎながらも、嗚呼もう卒業が迫ってるんだなって改めて実感してしまう。
でも俺はイケメンではなくクマなのか。
***
「おっじゃましまぁぁーす♪」
俺の学ランが八つ裂きにされるのは困るので、入らなくなった学ランを譲る事にした。
ついでに夕飯も食べていって貰おうと。
「あら、いらっしゃい。アンタって本当にモテるのねぇ……」
朝とは別人のように、優艶に着物を着こなしたおばさんが出迎える。
そろそろ割烹『菖蒲』の店が開く。
上品にお酒やご飯を食べる隠れ家的な割烹料理屋だ。
「おっっかえりー! マイラバー! わぁぁ綺麗な子たちだねぇ。部活の後輩の子たちだよねぇ。我が息子がいつもお世話に……」
面会日だから仕方なく家に居れているおじさんが、我が物顔で挨拶をしているのに無性に腹が立つ。
後輩たちは、キャーキャー言っているが全然格好良いとも思わないし、育児放棄してたような奴なのに。
「おばさん、今日何が食べたい?」
「そうねぇ…。
オムライスが良いわねぇ。ご飯の上でオムレツをトロッと割って作ってくれた奴」
「おいしそー」
「準備するから、お前たちも好きに座ってろ。それまで学ラン切ってわけてていいし。
おじさんは早めに帰れよ」
俺が学ランを脱いで、フリフリのレースのエプロンを着ると、後輩たちとおじさんが携帯で写メってきたが、俺は気にせずに冷蔵庫を開ける。
うちは二人暮らしなのに卵が何パックもストックされてて、しかもちゃんと賞味期限内に消費しちゃうからすごい。
「ねーねー、部長パパはモデルさんですか? 中性的で格好いいね」
「いやぁ、昔かじってたけど、今はカメラマンだよー」
「何歳?」
「三十五です。息子は十七の時の子で……」
「若ぁぁぁーい! いやーん。私タイプぅぅ!」
「やっぱお前たち五月蝿い。向こうでやれ」
トロトロオムライス、水菜のサラダ、そして生姜スープ。
彩りもバランスも盛り付けも完璧で惚れ惚れする。
「あんた本当に料理上手よねえ」
おばさんが感心してくれるけど、俺は最高の料理を知っている。
「おばさんのあの料理には多分一生勝てないけどね」
ケチャップの新しいのを開けながら、素っ気なく言ったつもりだけど、おばさんは嬉しそうに笑った。
「あれ? おじさんは食べないの?」
後輩たちは不思議そうにおじさんを見る。
おじさんも悲しそうに笑うが、被害者面は辞めて欲しい。
「美味しいのにねぇ。部長、私の嫁に来ません?」
「いやーん! 私のお嫁に来て欲しい!」
「私、養ってあげますよ」
「――お前たち、早く食べろよ」
クスクスとおばさんも笑いながら平らげていく。
「部長の誕生日に食べた、出汁巻き卵も絶品でしたね」
「ほぇ!? 誕生日?」
目をまん丸にしたおじさんは食いついてきた。
「そうです。夏休みに家庭科室でケーキと出汁巻き卵とおにぎりと、あと色々作ってくれたんですぅ」
「部長、誕生日誰にも祝ってもらった事ない、とか夏休み中の誕生日は嫌いとか女々しいんだもん」
「あらっ 私に言えばお祝いぐらいしたのに」
おばさんが皆の紅茶を作ってあげながら、のほほんと言う。
「すっげえ嬉しかったけど、誕生日は好きじゃないんだ。俺が生まれたから、母さんが亡くなった日でもあるし……」
それに料理が苦手なおばさんがあの料理を作ってくれる。俺はそれを食べられるだけで、誕生日は満たされるから。
なのに食べていた手を皆止めて、俺の方を見る。
「ぎゃー暗い暗い暗いっ」
「そんな一生、誕生日が祝えないとかまじ嫌だぁ」
「ねぇ、部長パパ! 部長ママは部長を産んだから亡くなったとか酷い言い方ですよねぇ」
俺がそう言うと、おじさんは困ったように髪をかきあげながら俯く。
「えっと……。そう教えたの僕、だから……」
ヘヘッと笑った。
「えぇ!? 最低!」
「駄目だよー。部長は繊細なんだから。わかるでしょ?」
「だから、部長はパパさんに冷たくなるんですよーぉ」
「うん…。そうだよね」
じわっと溢れた涙が、次から次へと流れて、おじさんは泣き出した。
後輩たちが慌てて慰める。
……俺が誕生日嫌いなのは、おじさんのせいだけど。
だけど、俺は……。
「別に泣かなくていいのに」
俺がそう言うと、全員がこちらを見た。
「あ、だって俺、その、もう『家族ごっこ』したいわけじゃないし」
おばさんの紅茶を飲む手と、おじさんの目をこする手が止まる。
「養育費払い終わったら、多分もう会わないし。泣いたり、傷ついたりするような『絆』なんて、俺とおじさんには無いんだよ」
おじさんがいくら泣いたって、抱きしめてこようとしたって、俺の日常には何も変化は無いんだ。
俺を育児放棄していたらしい期間も全く覚えてないし。
「会いたいなら会うし、会話はするけど、俺は特別な感情は別にな……、あれ?」
さっきまであんなに騒いでた後輩たちが静まり返っている。
おじさんも真っ青になって俯いていて、おばさんだけが諦めた様に笑っている。
「アンタ達、そっくりねぇ……相手の気持ちも読まずに自己完結しちゃうあたり」
クスクスと笑うと、お皿を洗い始めた。
俺が首を傾げると、後輩たちも顔を見合わせて苦笑いする。
必死で後輩たちが話題をすり替えて、楽しい雰囲気に修正してくれる。
皆と食べるご飯は美味しいし、楽しいな。
***
唯一のあの人との最初で最後の記憶。
けたたましく鳴く蝉の声と頬を伝う汗。
ママのフリフリのエプロンを着た『僕』は、パパの帰りを待っていた。
『お前、俺にもママにも似てないよな』そんなことを言われたので、せめて格好だけでも真似してみた。
パパは外が暗くなってよい子は寝ないといけない時間に、やっと帰ってきた。
『もう少し、……少しでもママに似てくれてたらなぁ……』
僕のぶかぶかのエプロン姿を見たパパはそう言った。
僕、ずっと待ってたよ。
参観日、パパが来なくても我慢したよ。
ご飯作ってくれなくても、自分でコンビニに行くから大丈夫だよ。
パパが居なくても、歯磨きも忘れずお風呂も入るよ。
『で、何でまだ起きてんの?』
そう言ったパパはテーブルの上のご飯を見た。
僕が作った、目玉焼きとタコサンウインナー。
コンビニでケーキも買ってきた。
白ご飯も買って、おにぎり作ったんだ。
『……今日、僕の誕生日だから作ったの』
一緒に食べて?そう言おうとしたら、パパが先に笑い出した。
『お前、誕生日ならもっとマシなもん食べろよ! こんな焦げた目玉焼きとか』
そう言いながら、冷蔵庫からビールを取り出して飲む。
『ああ、そっか。お前の誕生日って事は、ママがお前を産んで死んだ日かぁ』
そう言って、部屋に戻ろうとした。
『パパ、ご飯…』
『食べてきたからいらないよ』
――イラナイ……。
ガシャーン ガラガラ パリン
――イ、ラナイ。
イラナ、イ。
イラナイイラナイイラナイイラナイイラナイ。
ガシャーン ガシャーン
『おいっ うるさい…!?』
フライパンを握りしめて、テーブルの上のご飯を床になぎ倒しながら、『パパ』だと思ってた人を見る。
『お前、何してんだよ!?』
『いいの。イラナイならいいの』
床に転がったおにぎりを足で潰す。
靴下にお米がついて気持ち悪い。
『僕もイラナイ。僕はイラナイ』
涙が止まらないのは、壊されたから。
僕は生まれてきたらいけなかったイラナイものだから。
『夏なんてなくなればいいのに。こんな暑い夏に、僕を生んだせいで死んじゃったママはかわいそうだよね』
ママの温もりも知らないけど、居るはずのパパも居なかった。
『僕ね、家族が欲しかった。誕生日、ろうそくをふぅーってしてみたかった。お布団で、僕が寝るまで横に居て欲しかった』
『……ごめん!』
泣き止まない僕に、辛そうな顔をしたパパが謝る。
ポロポロ、パパも泣いている。
けどね、フライパンでパパの顎を殴った。
もちろん、フルスイングで。
僕の気持ちはやっと晴れ晴れした。
『おじさんもイラナイ。僕にはイラナイの。誕生日がくる夏なんてなくなればいいのに』だから、触らないで。
よろめいたおじさんを残して僕は、夜の街に飛び出した。
向かったのは、おばさんの家だった。
『なっ!? どうしたんだいっ こんな夜遅くに!』
おばさんは僕を見て、真っ青になって抱きしめてくれた。
『擦り傷だらけ! 何かあったの?』
『おばさん、僕は誰の子?』
そう聞くと、おばさんは僕を覗き込んだ。
『ママにもパパにも似てないんだって。じゃあ僕は誰の子? 本当のパパは僕の目玉焼き、食べてくれる?』
『……あんたは私と姉の父、つまりお爺さんにそっくりなんだよ。将来、イケメンになるから安心しな』
抱きしめてくれる。おばさんの腕の中は温かい。
そうか、僕は『イケメン』になるのか。
『目玉焼き、作っておくれよ。私が残さず食べるからさ』
おばさんが温かいお風呂に入れてくれた。
足の傷も絆創膏を貼ってくれた。
一緒に目玉焼きを作ろうとして手が震えた。
悲しい気持ちになりながら作った目玉焼きは、縁が焦げて茶色くなってる。
『こんなの! おいしくないよ!』
フライパンごと床に投げつけると、おばさんが両手で目玉焼きをすくってくれた。
『なに言ってるんだい。あんたが作ってくれるなら、なんだって美味しいに決まってるだろ。ほら、見てみな』
僕が落とした目玉焼きはぐちゃぐちゃになっていたけれど、おばさんはもう一度フライパンに入れて、箸でぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
半熟だった卵焼きは、スクランブルエッグみたいに粉々になる。
『今日はあんたの特別な日なんだろ』
おばさんは昆布を取り出して、出汁を作る。
そしてタコさんウインナーとスクランブルエッグになった卵焼きを、居れて昆布の出汁と白出汁で作った液の中にいれた。
世界で探してもきっとおばさんだけだ。
僕の目玉焼きとウインナーを入れた茶碗蒸しなんて、きっと料理が苦手なおばさんだからこそ作れる。
とっても美味しい、誕生日に食べる特別メニュー。
『こんなおいしいもの、初めて食べたよ』
『あたしも初めて作ったよ』
僕が眠るまで横に居てくれた。
僕は、温かい涙を流して眠れた。
――おばさんのおかげで。
『お義兄さんを許しておやり。まだ二十五歳の子どもなんだから。あの人、悪気はないのよ。アンタが傷ついたの今頃気づいて慌ててるよ』
『――うん。僕、もう大丈夫だよ。期待しないよ。願ったりしない。欲しいって思わない。我が儘も言わない。だから……』
すると、パパがおばさんの家に入ってきた。
慌てておばさんは奪われないように守るように僕を抱っこする。
僕は眠る。
眠る眠る。
ずっと眠る。
気づいた時は、養育権をおばさんが手に入れていた。
育児放棄、僕の標準以下の体重、そして僕の意志、色々裁判で認められたから。
***
「あんな酷い事をしときながら、喋ってもらえるだけ有り難いのよ、お義兄さん」
しみじみとおばさんが話しかけているが、俺は気にしない。
「後輩たちも送ったし、おじさんももう帰りなよ」
学ランの切れ端を集めながら、まだソファに泣いて寝そべっているおじさんに言った。
おばさんは風呂上がりで、眉無し眼鏡に戻っている。
「パパは、養育費の為だけ…? 払い終わったら、もうバイバイなの?」
しゃっくりを上げながら泣くおじさんの背中は小さくて、頼りなくて、寂しげだった。
「ごめん。お金の為みたいに言って」
横に座ると、おじさんは顔を上げた。
「でも、俺はもうおじさんに期待しない。裏切られたくないし悪意の無いおじさんの言葉に傷つくぐらいなら……」
曖昧で朧気な記憶を辿って瞳を閉じる。
「――何も感情を抱かないって決めたんだ」
俺は何故か穏やかに笑えた。
それがおじさんを酷く傷つける言葉でも。
「ごめんね。おじさん。せめて俺が少しでも母さんに似てたら愛してくれたかもしれないね。僕はおじいちゃんに似てイケメンでごめんね」
おじさんは只、只、自分が傷つけてしまった俺への罪悪感に、俺を愛そうとしているだけ。
互いに本当は、必要ないんだよ。
「もう、パパって呼ぶ事はないの? 一生、絶対?」
「うん。一生、絶対。俺の家族はおばさんだけだから」
「おじさんと母さんには感謝してる。きっと俺はおばさんの家族になるために、生まれてきたんだと思う」
未亡人で、子どもの産めないおばさんの家族になることができて、俺は本当の『家族』の温かさを知ったから。
゛うわぁぁぁぁぁぁん”
おじさんは子どものように泣き出した。
それでも、胸が痛まない俺を許して欲しい。
それが自分を守るためだから。
母さんが生きてたら、とか、もしあの日おじさんが喜んで食べてくれたなら、俺が起きて待ってたのに気付いてたら、おじさんか母さんに似てたなら、『もし』や『~たら』と考えたら、キリがない。たらればは無限で都合のいい夢だ。
だから、俺は誕生日が嫌いだ。
後悔しかないから。
夏も蝉の鳴き声も嫌いだ。
思い出すから。
おじさんも嫌い。
傷つけてしまうから。
時間は戻らないし、あの日は記憶から消えない。
「おじさん、まだ若いんだし結婚してあげなよ。彼女居るでしょ?」
何度か街で見かけた事があるんだよ。
「俺もいつか結婚して、子どもと誕生日を祝うのが夢なんだ。料理も作るし、して欲しかった事は全てやりたい。おじさんも、俺を忘れて新しい家族でやり直して欲しい」
長い時間を無駄にしたから、今度は大切にして。
俺も、未来を大切にする。
「じゃあ」
おじさんは必死で涙を拭いながら、俺を見て言った。
「息子としてもう扱わないから、ご飯も食べたいとか言わないから、――名前で呼んでも良いかい?」
震えながら聞くおじさんに、俺はできるだけ優しく頷いた。
本当は名前すらもう呼ばれたくないよ。心から拒絶してしまっている『僕』がいる。
でもいくら傷ついたからっておじさんを傷つけて虐めたいわけじゃないんだ。かかわりtくないってだけ。
だから時間がかかるけど、受け入れなきゃね。
その日の夜は夢を見た。
あの日、めちゃくちゃに落としたご飯を、おじさんとおばさんが片付けてくれている夢。
誰も喋らないけど、おばさんが優しく頭を撫でてくれた。
その後、おばさんと誕生日パーティーをした。
俺が作った目玉焼きを口いっぱいに頬張ってくれた。
僕も目玉焼きの入った茶碗蒸しが美味しくて美味しくて泣いていた。
「おはよう。お腹すいてるかい?」
おばさんが珍しく早く起きている。
キッチンはひっくり返したように鍋やまな板や調理器具が流し台に。
もともと、おばさんが家事や料理が苦手だから、女の子しかしない手芸部に入ったんだ。手芸部は文化祭でご飯を販売するから料理の勉強もできるしね。
「すいてる」
優しいおばさんは苦手なのに茶碗蒸しを作ってくれた。
俺の気持ちに一番に気づいてくれるおばさんが、本当に大切な存在だ。
スプーンを入れて、スクランブルエッグとたこさんウインナーをすくって、美味しくて夢と同様に泣きながら食べたのだった。
Fin
床に散らばった、ご飯。
最初で最後、親父と祝いたかった誕生日。
オレ、その時8歳。
気づいた時は、親父の顎をフライパンで殴りつけていた。
次の場面では、着物を着た綺麗な女の人の胸の中、俺はうたた寝をしていた。
『……お義兄さん、アンタには無理よ。むーり』
『そんなことない!』
『そんな事あるんだから、現実は甘くないのよ。この子は私が育てる。お義兄さんは、会いにきちゃ駄目よ』
意識がハッキリした時、俺は母さんに良く似た香りの女性に抱っこされていた。親父は、両手をぶんぶん降りながら、何か喚いていたけど、もう怒るのも、泣くのも、疲れたから、この女性を抱きしめた。
『僕、おばさんの子になりたい』
『えっ』
『もう、僕の名前呼ばないで。僕ももうパパって呼ばないから』
だから、もう寝かせて。
疲れた俺は、うとうと寝ぼける。
散らばった料理、フライパンで殴りつける俺、それ以前の記憶は曖昧で、思い出せなかった。
ただ散らばった目玉焼きで泣く俺のために、おばさんが作ってくれたあの料理だけは、俺の絶望したあの日の唯一のごちそうだった。
***
「あんなに可愛かった俺も、今じゃあ一八〇センチ超えた、イケメンかぁ……」
ピチピチになった学ランに袖を通しながら、俺は姿見で何度も自分を見つめてうっとりする。
「きもーいきもいきもい。あんた、昔も可愛くなくてデカくていかつかったわよー」
すっぴんメガネ+ジャージ姿のおばさんが、ソファで優雅に紅茶を飲みながら俺を睨みつけた。
「それよりアンタ、卒業式はどーするの? 早めに言わなきゃ私も困るのよ」
「あー……。おばさん美人だから着物で来られたら目立つんだよなぁ……。あれ、高校って親同席だっけ?」
ボーっと靴を履きながら考えていると、外に人影が見えた。
「行かないで良いなら、連絡ちょうだい。あと面倒だと思うけど、お義兄さんにもそう言いなさいよ」
「……ああ、うん、ああ」
***
「おっはよー♪ マイラバー!マイラブサン! 嗚呼、我が息子よ!」
「おはよう。おじさん」
俺を壁から襲いかかるように抱きしめて来たおじさんを片手で押さえながら、玄関を閉める。
がっしりした筋肉質な俺と正反対の、華奢で誰もが息をのむような年齢不詳は美形が、俺に抱き着こうとしているのはホラーだ。
「もうすぐ卒業式だね。パパも出席していいのかな? ……ドキドキ」
「おばさん来るから、おじさんは来なくていいよ。それより家の周りウロウロしないでよ」
俺がどんどん歩いていくと、おじさんは後ろをちょこちょこと必死に追いかけてくる。
「ぱ、パパは養育費を払う変わりに月3回の面会権があるんですーぅ!!!」
『パパ』とか『マイラブサン』とか意味分かんないし、本当にうざい。
十年も毎朝こうして繰り返されると麻痺して、慣れてしまっちゃうけど。
でもどうしても感情が何もない。何をしてるのかなって気にもならない。
「今日は、夜ご飯食べて帰りたいなぁ……」
チラッチラッとこっちを伺いながらおじさんは言うけれど、俺はおじさんに一生作る事はないから。
「悪いけど、2人分しか用意してないから」
そう言って一目も見ずに、おじさんを振り払った。
***
「部長のお父さん、また校門の所で号泣してましたねぇ」
後輩が上手にデディベアに綿を詰めながら、目をキラキラさせて言う。
「可愛いお父さんですよねぇ。 なんかモデルみたいだし儚げな感じ。部長イジメたら可哀想だよ」
百八十センチ超えた俺は、いくらイケメンでも、おじさんを泣かすとイジメているように見えるらしい。
「わー! 部長のその髪飾り綺麗!誰にプレゼント?」
ビーズで何個も薔薇を作り、紫と青のビーズで作った蝶をくっつけていると、後輩達が寄ってきて騒いでいる。
「おばさんにあげるんだよ。部活の卒業制作に何か作らなきゃって言ったら髪飾りが欲しいって言うから」
そう言うと、まだ付けてないビーズの薔薇を持ちながら後輩達はうっとりと言う。
卒業式につけてきてもいいように和装にも洋装にも合う髪飾り。
でもおばさん綺麗だから、あんま注目されてほしくないんだよね。
自慢したくなるからポーカーフェイス保てなくなるし。
「あの極道の妻って感じの凛とした人ですよね」
「スッゴい綺麗だったぁ! 部長に全然似てないよねぇ」
「えー、私見たことなぁーい!」
おばさんは確かに母さんの妹だから綺麗だけど、家では眉無しすっぴんで油断しているときは年相応の表情だ。だから綺麗だとは思うけど、そこまで持ち上げられると笑いそうになってしまう。
「部長! 私たちデディベア作ってるんですけど、部長の学ランくれません?」
「何に使うの?」
「八つ裂きにして、皆のクマに着せるの♪ だって部長クマさんみたいだし」
「部長居なくても、クマさんを部長と思って私たち頑張るし」
きゃぴきゃぴ、わいわいはしゃぎながらも、嗚呼もう卒業が迫ってるんだなって改めて実感してしまう。
でも俺はイケメンではなくクマなのか。
***
「おっじゃましまぁぁーす♪」
俺の学ランが八つ裂きにされるのは困るので、入らなくなった学ランを譲る事にした。
ついでに夕飯も食べていって貰おうと。
「あら、いらっしゃい。アンタって本当にモテるのねぇ……」
朝とは別人のように、優艶に着物を着こなしたおばさんが出迎える。
そろそろ割烹『菖蒲』の店が開く。
上品にお酒やご飯を食べる隠れ家的な割烹料理屋だ。
「おっっかえりー! マイラバー! わぁぁ綺麗な子たちだねぇ。部活の後輩の子たちだよねぇ。我が息子がいつもお世話に……」
面会日だから仕方なく家に居れているおじさんが、我が物顔で挨拶をしているのに無性に腹が立つ。
後輩たちは、キャーキャー言っているが全然格好良いとも思わないし、育児放棄してたような奴なのに。
「おばさん、今日何が食べたい?」
「そうねぇ…。
オムライスが良いわねぇ。ご飯の上でオムレツをトロッと割って作ってくれた奴」
「おいしそー」
「準備するから、お前たちも好きに座ってろ。それまで学ラン切ってわけてていいし。
おじさんは早めに帰れよ」
俺が学ランを脱いで、フリフリのレースのエプロンを着ると、後輩たちとおじさんが携帯で写メってきたが、俺は気にせずに冷蔵庫を開ける。
うちは二人暮らしなのに卵が何パックもストックされてて、しかもちゃんと賞味期限内に消費しちゃうからすごい。
「ねーねー、部長パパはモデルさんですか? 中性的で格好いいね」
「いやぁ、昔かじってたけど、今はカメラマンだよー」
「何歳?」
「三十五です。息子は十七の時の子で……」
「若ぁぁぁーい! いやーん。私タイプぅぅ!」
「やっぱお前たち五月蝿い。向こうでやれ」
トロトロオムライス、水菜のサラダ、そして生姜スープ。
彩りもバランスも盛り付けも完璧で惚れ惚れする。
「あんた本当に料理上手よねえ」
おばさんが感心してくれるけど、俺は最高の料理を知っている。
「おばさんのあの料理には多分一生勝てないけどね」
ケチャップの新しいのを開けながら、素っ気なく言ったつもりだけど、おばさんは嬉しそうに笑った。
「あれ? おじさんは食べないの?」
後輩たちは不思議そうにおじさんを見る。
おじさんも悲しそうに笑うが、被害者面は辞めて欲しい。
「美味しいのにねぇ。部長、私の嫁に来ません?」
「いやーん! 私のお嫁に来て欲しい!」
「私、養ってあげますよ」
「――お前たち、早く食べろよ」
クスクスとおばさんも笑いながら平らげていく。
「部長の誕生日に食べた、出汁巻き卵も絶品でしたね」
「ほぇ!? 誕生日?」
目をまん丸にしたおじさんは食いついてきた。
「そうです。夏休みに家庭科室でケーキと出汁巻き卵とおにぎりと、あと色々作ってくれたんですぅ」
「部長、誕生日誰にも祝ってもらった事ない、とか夏休み中の誕生日は嫌いとか女々しいんだもん」
「あらっ 私に言えばお祝いぐらいしたのに」
おばさんが皆の紅茶を作ってあげながら、のほほんと言う。
「すっげえ嬉しかったけど、誕生日は好きじゃないんだ。俺が生まれたから、母さんが亡くなった日でもあるし……」
それに料理が苦手なおばさんがあの料理を作ってくれる。俺はそれを食べられるだけで、誕生日は満たされるから。
なのに食べていた手を皆止めて、俺の方を見る。
「ぎゃー暗い暗い暗いっ」
「そんな一生、誕生日が祝えないとかまじ嫌だぁ」
「ねぇ、部長パパ! 部長ママは部長を産んだから亡くなったとか酷い言い方ですよねぇ」
俺がそう言うと、おじさんは困ったように髪をかきあげながら俯く。
「えっと……。そう教えたの僕、だから……」
ヘヘッと笑った。
「えぇ!? 最低!」
「駄目だよー。部長は繊細なんだから。わかるでしょ?」
「だから、部長はパパさんに冷たくなるんですよーぉ」
「うん…。そうだよね」
じわっと溢れた涙が、次から次へと流れて、おじさんは泣き出した。
後輩たちが慌てて慰める。
……俺が誕生日嫌いなのは、おじさんのせいだけど。
だけど、俺は……。
「別に泣かなくていいのに」
俺がそう言うと、全員がこちらを見た。
「あ、だって俺、その、もう『家族ごっこ』したいわけじゃないし」
おばさんの紅茶を飲む手と、おじさんの目をこする手が止まる。
「養育費払い終わったら、多分もう会わないし。泣いたり、傷ついたりするような『絆』なんて、俺とおじさんには無いんだよ」
おじさんがいくら泣いたって、抱きしめてこようとしたって、俺の日常には何も変化は無いんだ。
俺を育児放棄していたらしい期間も全く覚えてないし。
「会いたいなら会うし、会話はするけど、俺は特別な感情は別にな……、あれ?」
さっきまであんなに騒いでた後輩たちが静まり返っている。
おじさんも真っ青になって俯いていて、おばさんだけが諦めた様に笑っている。
「アンタ達、そっくりねぇ……相手の気持ちも読まずに自己完結しちゃうあたり」
クスクスと笑うと、お皿を洗い始めた。
俺が首を傾げると、後輩たちも顔を見合わせて苦笑いする。
必死で後輩たちが話題をすり替えて、楽しい雰囲気に修正してくれる。
皆と食べるご飯は美味しいし、楽しいな。
***
唯一のあの人との最初で最後の記憶。
けたたましく鳴く蝉の声と頬を伝う汗。
ママのフリフリのエプロンを着た『僕』は、パパの帰りを待っていた。
『お前、俺にもママにも似てないよな』そんなことを言われたので、せめて格好だけでも真似してみた。
パパは外が暗くなってよい子は寝ないといけない時間に、やっと帰ってきた。
『もう少し、……少しでもママに似てくれてたらなぁ……』
僕のぶかぶかのエプロン姿を見たパパはそう言った。
僕、ずっと待ってたよ。
参観日、パパが来なくても我慢したよ。
ご飯作ってくれなくても、自分でコンビニに行くから大丈夫だよ。
パパが居なくても、歯磨きも忘れずお風呂も入るよ。
『で、何でまだ起きてんの?』
そう言ったパパはテーブルの上のご飯を見た。
僕が作った、目玉焼きとタコサンウインナー。
コンビニでケーキも買ってきた。
白ご飯も買って、おにぎり作ったんだ。
『……今日、僕の誕生日だから作ったの』
一緒に食べて?そう言おうとしたら、パパが先に笑い出した。
『お前、誕生日ならもっとマシなもん食べろよ! こんな焦げた目玉焼きとか』
そう言いながら、冷蔵庫からビールを取り出して飲む。
『ああ、そっか。お前の誕生日って事は、ママがお前を産んで死んだ日かぁ』
そう言って、部屋に戻ろうとした。
『パパ、ご飯…』
『食べてきたからいらないよ』
――イラナイ……。
ガシャーン ガラガラ パリン
――イ、ラナイ。
イラナ、イ。
イラナイイラナイイラナイイラナイイラナイ。
ガシャーン ガシャーン
『おいっ うるさい…!?』
フライパンを握りしめて、テーブルの上のご飯を床になぎ倒しながら、『パパ』だと思ってた人を見る。
『お前、何してんだよ!?』
『いいの。イラナイならいいの』
床に転がったおにぎりを足で潰す。
靴下にお米がついて気持ち悪い。
『僕もイラナイ。僕はイラナイ』
涙が止まらないのは、壊されたから。
僕は生まれてきたらいけなかったイラナイものだから。
『夏なんてなくなればいいのに。こんな暑い夏に、僕を生んだせいで死んじゃったママはかわいそうだよね』
ママの温もりも知らないけど、居るはずのパパも居なかった。
『僕ね、家族が欲しかった。誕生日、ろうそくをふぅーってしてみたかった。お布団で、僕が寝るまで横に居て欲しかった』
『……ごめん!』
泣き止まない僕に、辛そうな顔をしたパパが謝る。
ポロポロ、パパも泣いている。
けどね、フライパンでパパの顎を殴った。
もちろん、フルスイングで。
僕の気持ちはやっと晴れ晴れした。
『おじさんもイラナイ。僕にはイラナイの。誕生日がくる夏なんてなくなればいいのに』だから、触らないで。
よろめいたおじさんを残して僕は、夜の街に飛び出した。
向かったのは、おばさんの家だった。
『なっ!? どうしたんだいっ こんな夜遅くに!』
おばさんは僕を見て、真っ青になって抱きしめてくれた。
『擦り傷だらけ! 何かあったの?』
『おばさん、僕は誰の子?』
そう聞くと、おばさんは僕を覗き込んだ。
『ママにもパパにも似てないんだって。じゃあ僕は誰の子? 本当のパパは僕の目玉焼き、食べてくれる?』
『……あんたは私と姉の父、つまりお爺さんにそっくりなんだよ。将来、イケメンになるから安心しな』
抱きしめてくれる。おばさんの腕の中は温かい。
そうか、僕は『イケメン』になるのか。
『目玉焼き、作っておくれよ。私が残さず食べるからさ』
おばさんが温かいお風呂に入れてくれた。
足の傷も絆創膏を貼ってくれた。
一緒に目玉焼きを作ろうとして手が震えた。
悲しい気持ちになりながら作った目玉焼きは、縁が焦げて茶色くなってる。
『こんなの! おいしくないよ!』
フライパンごと床に投げつけると、おばさんが両手で目玉焼きをすくってくれた。
『なに言ってるんだい。あんたが作ってくれるなら、なんだって美味しいに決まってるだろ。ほら、見てみな』
僕が落とした目玉焼きはぐちゃぐちゃになっていたけれど、おばさんはもう一度フライパンに入れて、箸でぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
半熟だった卵焼きは、スクランブルエッグみたいに粉々になる。
『今日はあんたの特別な日なんだろ』
おばさんは昆布を取り出して、出汁を作る。
そしてタコさんウインナーとスクランブルエッグになった卵焼きを、居れて昆布の出汁と白出汁で作った液の中にいれた。
世界で探してもきっとおばさんだけだ。
僕の目玉焼きとウインナーを入れた茶碗蒸しなんて、きっと料理が苦手なおばさんだからこそ作れる。
とっても美味しい、誕生日に食べる特別メニュー。
『こんなおいしいもの、初めて食べたよ』
『あたしも初めて作ったよ』
僕が眠るまで横に居てくれた。
僕は、温かい涙を流して眠れた。
――おばさんのおかげで。
『お義兄さんを許しておやり。まだ二十五歳の子どもなんだから。あの人、悪気はないのよ。アンタが傷ついたの今頃気づいて慌ててるよ』
『――うん。僕、もう大丈夫だよ。期待しないよ。願ったりしない。欲しいって思わない。我が儘も言わない。だから……』
すると、パパがおばさんの家に入ってきた。
慌てておばさんは奪われないように守るように僕を抱っこする。
僕は眠る。
眠る眠る。
ずっと眠る。
気づいた時は、養育権をおばさんが手に入れていた。
育児放棄、僕の標準以下の体重、そして僕の意志、色々裁判で認められたから。
***
「あんな酷い事をしときながら、喋ってもらえるだけ有り難いのよ、お義兄さん」
しみじみとおばさんが話しかけているが、俺は気にしない。
「後輩たちも送ったし、おじさんももう帰りなよ」
学ランの切れ端を集めながら、まだソファに泣いて寝そべっているおじさんに言った。
おばさんは風呂上がりで、眉無し眼鏡に戻っている。
「パパは、養育費の為だけ…? 払い終わったら、もうバイバイなの?」
しゃっくりを上げながら泣くおじさんの背中は小さくて、頼りなくて、寂しげだった。
「ごめん。お金の為みたいに言って」
横に座ると、おじさんは顔を上げた。
「でも、俺はもうおじさんに期待しない。裏切られたくないし悪意の無いおじさんの言葉に傷つくぐらいなら……」
曖昧で朧気な記憶を辿って瞳を閉じる。
「――何も感情を抱かないって決めたんだ」
俺は何故か穏やかに笑えた。
それがおじさんを酷く傷つける言葉でも。
「ごめんね。おじさん。せめて俺が少しでも母さんに似てたら愛してくれたかもしれないね。僕はおじいちゃんに似てイケメンでごめんね」
おじさんは只、只、自分が傷つけてしまった俺への罪悪感に、俺を愛そうとしているだけ。
互いに本当は、必要ないんだよ。
「もう、パパって呼ぶ事はないの? 一生、絶対?」
「うん。一生、絶対。俺の家族はおばさんだけだから」
「おじさんと母さんには感謝してる。きっと俺はおばさんの家族になるために、生まれてきたんだと思う」
未亡人で、子どもの産めないおばさんの家族になることができて、俺は本当の『家族』の温かさを知ったから。
゛うわぁぁぁぁぁぁん”
おじさんは子どものように泣き出した。
それでも、胸が痛まない俺を許して欲しい。
それが自分を守るためだから。
母さんが生きてたら、とか、もしあの日おじさんが喜んで食べてくれたなら、俺が起きて待ってたのに気付いてたら、おじさんか母さんに似てたなら、『もし』や『~たら』と考えたら、キリがない。たらればは無限で都合のいい夢だ。
だから、俺は誕生日が嫌いだ。
後悔しかないから。
夏も蝉の鳴き声も嫌いだ。
思い出すから。
おじさんも嫌い。
傷つけてしまうから。
時間は戻らないし、あの日は記憶から消えない。
「おじさん、まだ若いんだし結婚してあげなよ。彼女居るでしょ?」
何度か街で見かけた事があるんだよ。
「俺もいつか結婚して、子どもと誕生日を祝うのが夢なんだ。料理も作るし、して欲しかった事は全てやりたい。おじさんも、俺を忘れて新しい家族でやり直して欲しい」
長い時間を無駄にしたから、今度は大切にして。
俺も、未来を大切にする。
「じゃあ」
おじさんは必死で涙を拭いながら、俺を見て言った。
「息子としてもう扱わないから、ご飯も食べたいとか言わないから、――名前で呼んでも良いかい?」
震えながら聞くおじさんに、俺はできるだけ優しく頷いた。
本当は名前すらもう呼ばれたくないよ。心から拒絶してしまっている『僕』がいる。
でもいくら傷ついたからっておじさんを傷つけて虐めたいわけじゃないんだ。かかわりtくないってだけ。
だから時間がかかるけど、受け入れなきゃね。
その日の夜は夢を見た。
あの日、めちゃくちゃに落としたご飯を、おじさんとおばさんが片付けてくれている夢。
誰も喋らないけど、おばさんが優しく頭を撫でてくれた。
その後、おばさんと誕生日パーティーをした。
俺が作った目玉焼きを口いっぱいに頬張ってくれた。
僕も目玉焼きの入った茶碗蒸しが美味しくて美味しくて泣いていた。
「おはよう。お腹すいてるかい?」
おばさんが珍しく早く起きている。
キッチンはひっくり返したように鍋やまな板や調理器具が流し台に。
もともと、おばさんが家事や料理が苦手だから、女の子しかしない手芸部に入ったんだ。手芸部は文化祭でご飯を販売するから料理の勉強もできるしね。
「すいてる」
優しいおばさんは苦手なのに茶碗蒸しを作ってくれた。
俺の気持ちに一番に気づいてくれるおばさんが、本当に大切な存在だ。
スプーンを入れて、スクランブルエッグとたこさんウインナーをすくって、美味しくて夢と同様に泣きながら食べたのだった。
Fin



