偶々、バイトを探してた。

 大学に慣れてきて、彼氏ができたからだ。
 私の下手糞なお弁当を美味しいと喜んでくれるような彼氏ができたからだ。
 初めてのクリスマスに彼氏にプレゼントを買って喜ばせたくて。

 なので破格のバイト代を見てすぐさまに飛びついた。

 算数と国語と英語。
 に教える楽なバイトだと思ってた。




「初めまして先生。僕、スパルタは好きじゃないから?したらすぐに辞めてもらうね」

 会ってみると、聡明………もといクソ生意気そうな落ち着いた少年だった。
 ハイブランドのメガネが似合う、ハイブランドの家具に囲まれた一人部屋にいる上級階級の家庭の一人息子さんだ。
 絵に描いたエリートサラリーマンといった風貌の父に、上品そうな教育ママさんに、
 生活感がない透き通った雰囲気の高級マンション。
 作られたようにできた家族に、私が入っていいのか内心ドキドキした。
 そんな気持ちも、クソ生意気な少年の登場とともに吹き飛んだけどね。



「どうせ、小学生の勉強なんてチョロいと思ったんでしょ? でも中学受験だからねあ? 基礎的な問題なんてできるんだから考えてね」

 偉そうな口調。
 最初は腹が立った。
 けど、少年は無表情。悪意もなく、ただ自分の気持ちをサラリと言った。
 上から目線でもない。

 彼は純粋な少年だった。
 少年は真面目な生意気さんだった。
 悪気はない、精神年齢が高いのか、子供らしくない悪態ばかりつく。
 表情は変わらずに。知り過ぎているからこその退屈さや窮屈さに縛られているようにも見える。

 夏休みは追い込みだからと、私も色んな本屋を巡り、テキストを見ては応用問題を沢山用意した。
 大学受験を思い出して苦笑いするぐらいにだ。
 彼は受験生用の塾にも通う予定だったらしいが、そこまで頑張らなくても希望校にはすべて合格圏内らしくて、のんびりできる家庭教師を選んだらしい。
 勉強をしたいのかしたくないのか、頑張りたいのか遊びたいのかわからない。



 外は蝉の声が五月蝿い昼下がり。
 入道雲があるなぁーと、少年が問題を解いてる間に眺めていた。
「……はあ」
 大きなため息。
 ハッとして少年を見ると、案の定こっちを見ていた。
 また何か言われるかなぁと苦笑いを向け誤魔化す。
 けれど、少年が言った言葉は違った。
「外に出たらクソ暑いのに、部屋の中はクーラーで涼しいですよね」
 ポツリと落とすように、言った。
 私は首を傾げながら少年を見る。
「――凄く勿体無い気がするんです」
 少年も入道雲を見た。
「夏の暑さも感じない部屋で、ずっと勉強するなんて、勿体無い気がするんです」
「勉強は嫌いじゃないって言ってたじゃない?」
「嫌とは言ってません。けれど」

 少年は鉛筆を回しながら、詰まらなそうに問題を眺めた。

「一年中勉強しかしないなら、僕には季節は要らないじゃないですか」
 ――それって寂しくないですか?
 少年は別に、世の中を斜めから見下ろすような冷徹さはない。
「確かに暑いからアイスは美味しいし寒いからココアは体に染み渡るわ。天才だね、きみ」
 けれど、年齢的には冷めてるなぁっと思ってた。
 でも、全然違った。知らないだけ。遊び方を。逃げ方を。
 季節の移ろいを。季節の変化を。季節を肌で感じて、溢れる感情を知る経験を。
「私が君の年頃はね、もっといっぱい遊んでたよ」
「でしょうね」
「君もいっぱい遊んで良いと思うよ。子供の頃しかできない体験、悪戯、気持ちはいっぱいいっぱい溢れてるんだから!」

 大人になれば覚める夢。
 子供時代にいっぱいいっぱい感じればいいのに。

「勉強なんて、嫌というほどしなくちゃいけないわけじゃないしね」
「家庭教師の言う言葉ではないと思いますよ」
「まぁ一理ありますけど」

 少年はテキストを閉じた。

「僕、先生と夏祭りに行きたいです」
「はぁ!?」
 わたしと行って楽しいの? 年相応のお友達といくべきでは。
 あ、受験生だから?
「学校では小学生は保護者が居なければ外出は6時までなんですが、先生が保護者代わりなら大丈夫ですよね」
「……まぁねぇ」
「両親に聞いてみます。あ、先生の浴衣が見たいです。夏らしくて」
 少年は携帯で親にメールを打ち始めた。
「浴衣て、オヤジかい」
 少年の人間らしい一面を見れた気がして苦笑する。
 まぁ家に帰れば、少年にも着れる浴衣はある。
 息抜きと日々のご褒美になれば嬉しいかも。


 ***

「両親には呆れました」
 せっかくの楽しい日なのに、気まずくてうちわで仰ぐ。
 ハァとため息をつきながら、食べかけの林檎飴を見つめる。
「まあ、気にしない気にしない!」

 私もチョコバナナを食べながら、笑った。
 少年に貸した白地に朝顔の浴衣は年相応に見えて、可愛い。
 少年は不満そうに唇を尖らせた。
 少年の両親は、メールを見たあとにすぐに返事を送ってきた。

『家庭教師の時間外なら延長代はいくらになるか尋ねなさい。お母さんが
用意しておくわ』
『今日分の勉強は終わったのかい?まだ勉強時間中だろ』

 現実主義のご両親に私は苦笑しかできないけれど、少年は不満そうだった。

「つまり僕と先生は時給2200円で繋がってるんですね」
「そんな生々しい」
 私は苦笑した。
「薄っぺらいけど、揺るがない関係じゃないですか」
 そう、10歳の少年は私に笑った。
「僕は雇い主だから、お金さえあれば先生をずっと独り占めできるわけだ」
 また林檎飴を少年はかじり始めた。足元にはいっぱい飴が落ちている。
「苦笑しかしない笑顔は、先生の彼氏さんのものだけどね」
「彼氏って」
「学校の帰りに何度かデートを見た事があります。偶々ですからね」
 釘を指すように少年が言う。
「今は僕は、子供としてしか見られてないから苦笑しかさせてあげれませんけど」
 ……え。私、小学生に口説かれてたりして。
 それこそ苦笑できませんよ。
「僕、別に親が目指すエリートになるのは嫌ではありません。将来的にも学歴は大事だろうし、したい事が見つかっても能力さえあれば頑張れるだろうし」
「ただ、少しでも両親は僕の気持ちを考えてくれただろうか。
 僕の未来の安定を、両親の気持ちで決めて動かしているだけだとわかってないのだろうか」
 そう、感じたんです。
 それが、寂しかったんです。
 1人が怖かったんです。
「先生は、僕の決まった生活を、唯一かき乱してくれる存在でした」
 一緒に、部屋に居る寂しさを感じてくれた、人。
「エリートな僕ならお買い得でしょ? 先生が28歳の時、僕20歳だし。婚活で焦る時期に、エリートな僕が先生を迎えに行くんだよ?凄いでしょ」
 ……私は子供の戯れ言なのに、ため息をついてしまった。
 少年を見下ろしながら、深く。
「あのね、私の彼氏は確かに君みたいなエリートにはならないけどね」
 チョコバナナの棒を真ん中から折りながら。
「私をそんな、打算的に愛してないわよ?」
 そう、怒りを静かに抑えながら言った。
「先生、僕間違ってますか?」
 少しだけ、無表情な少年の瞳が揺らいだ。縋るように。年相応に。
「僕は確かなものしか信じません。先生と僕は、利益が一致したから出会えた関係なんですよ」

 少年には難しい、のかもしれない。
 怒ってしまった自分が恥ずかしい。
 頭で計算して出る答えしか少年は見た事がないから。

 寂しいとか、悲しいとか、見えない感情には蓋をしめて。

 ただ計算して過ぎていく生活の中に、偶然とはいえ異質な私が入ってきて、それに助けを求めているだけにすぎない。
 私と少年の関係を時給で形にしたご両親と、私と彼氏の関係を愛情で表すのは同じで全く違う。


「10年後の利益関係とか、時給2200円とか、そんなの夏祭りに来てる『私』と『君』には関係ないの。利益関係だけなら、私は君と祭りなんて来ないよ」

 利益にならない事、しないでしょ?
 簡単なのに。
 ぐちゃぐちゃ、ごちゃごちゃ、理由は要らないのよ。

「私はシンプルに言ってもらった方がいい。君もこれから中学生になって好きな人ができたら、今みたいな発言は絶対に振られるわよ」
 私は苦笑し、優しく少年の髪を撫でた。
 柔らかくて、サラサラで、いつまでも触っていたい、気持ちよさ。
 生まれたてのひよこみたい。
 少年も困惑しながらも、照れくさそうにこちらを見た。

「『あなたが好き』それだけの事よ」

 ごちゃごちゃ理由で飾って隠さないで。
 そのままの姿で、ちゃんと言って。

「私は単純だから、そっちの方が嬉しいわ」

 そう言うと、少年は泣いた。
 胸の着物をギュッと握り締めて、心臓を抑えるように。

「僕はもっと、話を聞いて欲しい。いっぱいいっぱい、気持ちを聞いて欲しい」

 泣きながら、目をギュッとつぶり。

「寂しいとか、悲しいとか、胸の中に溜まっていって、このもどかしい、虚しくなる気持ちに名前が欲しいんです…」
 一人で、子どもらしくなく涼しげに勉強していた少年。
 心は、少年の頭についていけなかった。

「好きな、先生。でも僕はこんな可愛げないし。所詮、お金もらってるから優しくしてもらってるだけだし」
 食べていたリンゴ飴がポトリと落ちて、少年は涙を拭う。
 吐き出して、泣き疲れるぐらい、泣けばいい。
 私は両手いっぱいで抱きしめて少年を慰めた。小学生だけれど、少年はしっかり生きてる。迷ってる。悲しんでる。嘆いてる。

 それを1人で耐えるのは、いくら少年が聡明でも無理だろう。
 愛しい、と思った。
 人間らしく、頑張って生きている少年が。
 そして、私の言葉1つで揺るぎそうなバランスの上。
 私はどう少年と向き合っていこうか。
 色々と考えが過ぎったのに次の日、少年は少年らしくいつも通りでした。


「昨日はありがとうございました。楽しかったですよ。先生は疲れたんですかね? 15分遅刻です。バイト代から引きますよ」

 宿題で出していたプリントは満点。涼しげに佇んでいる。


 チリン、チリンと風鈴が鳴り、窓からは涼しげな風が入ってきた。
 今日は冷房はいらない。扇風機がちょうどいい。

「スイマセンでしね。さ、ミニテストしますよ」
 綺麗な字を書くなぁ………と見ていたら、少年の手が止まった。
 そして私を見た。
「別に私、ボーとしてたわけじゃないからね?」
「…どうでしょうかね」

 少年は少しだけ、微笑んだ。

「学歴はステータスとして無いよりある方がいい。自分の自信になるならね」
「そうね」
「先生に心配されるのは嫌ですからね」

 フッと大人びた笑みを浮かべる。
「10年後、楽しみにしていて下さいね」

 僕、良い男になってますよ。
 そう笑った。無邪気に。
 頭の良い人って分からない。
 どんな思考したら、一晩でそんな結論に至るのだろうか。
 でも、まぁ…本当に良い男になるんだろうなぁっと、満点のテストを眺めながら思った。
 彼氏が大好きだから、時給2200円以上の気持ちは渡せないけれど、でもきっとどれだけ君が素敵になっても彼氏を好きな気持ちは揺るがない。
「楽しみだよ。君がどんな素敵な恋をするのか」
「あ、きれいごと言ってくるんだ」
 そして、子供らしく笑った。 
「でもバイト代払っている間は、先生は僕の先生だもんね」

 ……嗚呼。
 時給2200円。
 意外と高くつきそうだ。