翌朝、登校中の電車の中。いつもならSNSで友達の投稿をチェックする梓だったが、昨夜の出来事が頭から離れず、ぼんやりとスマホを眺めていた。それでも、ふと開いた音楽ニュースサイトの見出しが、梓の目を釘付けにした。
「新人バンド『Synaptic Drive』、デビューライブで大反響!」 「謎のシルエットキーボーディスト『けんたろう』に注目集まる」

「へー、Synaptic Driveってバンド、すごいんだ。Midnight Verdictみたいなユーロビートなんだね」

 そう呟きながら記事を読み進める梓。ユージというボーカルの堂々としたパフォーマンス、そして観客を熱狂させた「BABY I WANT U」という曲の紹介に、「面白そう」と純粋に思った。しかし、次の瞬間、梓の思考は停止する。

「え? けんたろう??」

 キーボーディストの名前が「けんたろう」と記されているのを見て、梓の頭の中は一気に混乱の渦に巻き込まれた。 昨日公園で見た、けいとさんと一緒にいたあの男の子。彼もけんたろうだ。まさか、あの普通な高校生が、今話題になっているバンドのメンバーで、しかも「スーパープロデューサー」とまで言われているなんて。信じられない、とんでもない偶然だとしか思えなかった。

 梓の頭の中では、様々な考えが目まぐるしく巡り始めた。
(あのけんたろうくんが、まさかこんなすごい人だったの!?) (もしかして、けいとさんは、このけんたろうくんの才能を知ってたから付き合ってるの……?いや、そんなはずない!) (でも、けんたろうくんが「スーパープロデューサー」ってことは、もしかして、けいとさんの曲とかにも関わってるのかな……?) (だとしたら、私が知っちゃった秘密って、恋愛だけじゃなくて、もっととんでもないことなんじゃ……?)
 秘密を抱えることの重圧が、梓の肩にずしりと乗しかかる。

 ――そのシルエットの裏側に、想像以上の覚悟と戦略が隠されていることを、まだ誰も知らない。

 ♪ ♪ ♪

 Midnight VerdictとSynaptic Driveの比較
 ネット上では、既にSynaptic Driveの話題が盛んになっていた。特に、ユーロビートというジャンルでデビューしたこともあり、人気絶頂のMidnight Verdictとの比較論も盛んに交わされていた。

【ネット民の反応】
「Synaptic Driveの『BABY I WANT U』聴いたけど、めちゃくちゃいいじゃん! Midnight Verdictとはまた違った硬派なユーロビートって感じで、これはハマる!」
「確かに! Midnight Verdictは可愛さもあるけど、Synaptic Driveはゴリゴリのユーロビートって感じだね。どっちも好きだわ」
「比較されるのは仕方ないけど、それぞれの良さがあるよね。ユーロビートシーンが盛り上がって嬉しい!」
「まあ、まだまだぽっと出のバンド。すぐにいなくなるでしょ。」
「Midnight Verdictがいるから、ユーロビートじゃ売れないよ」
「格が違いすぎる。Synaptic Driveはまだ始まったばかりだし」
「でも、シナドラの曲の熱さなら、あっという間に追いつくかもよ?」

 ♪ ♪ ♪

 あれは、Synaptic Driveが本格的に活動を始める少し前のことだった。僕、けんたろうとユージ、そしてマネージャーになってくれた綾音さんは、小さな雑居ビルの一室にあるRogue Soundというレーベルで社長と話し合っていた。社長は、年季の入った革張りの椅子に深く身を沈め、困ったような顔で僕たちを見ていた。

「いやあ、けんたろうくんの音楽は本当に素晴らしい。こんな才能が埋もれているなんて、もったいないの一言だ。ぜひ世に届けたい。届けたいんだが……」

 社長はそこで言葉を詰まらせた。その視線の先には、壁に貼られた簡素なバンドのポスターと、古びた機材がいくつか。Rogue Soundは、設立されたばかりの、本当に小さなレーベルだった。社長と綾音さんの二人だけで切り盛りしているのだから、その苦労は想像に難くない。

「正直、うちには、君たちの音楽を大々的に売り出すだけのお金がない。潤沢なプロモーション費も、宣伝できるコネクションも、大手レーベルのような後ろ盾も……何もないに等しい」

 社長の言葉は、現実の厳しさを物語っていた。僕の音楽が認められたことは嬉しいけれど、同時にどうすれば良いのか、不安がよぎる。
 さらに、大きな問題が横たわっていた。

「それに、けんたろうくんは高校生で、家庭環境・・・のせいで顔を出せない。どうやって、君を、そしてSynaptic Driveを世の中に売り出せばいいんだ……?」

 社長の困惑はもっともだった。この時代、アーティストは顔を出してこそ、ファンに認知され、人気を獲得するのが常識だ。そんな中で、正体を隠したままのデビューは、まさに異例中の異例。成功例は、ほとんどないと言っても過言ではなかった。
 すると、それまで黙って話を聞いていたユージが、にやりと口角を上げた。

「売り出さなければ良いっすよ!」

 社長は、「は?」と目を丸くしてユージを見た。何を言っているんだ、こいつは、という顔だ。綾音さんも、一瞬きょとんとした表情を浮かべた。

「いや、ユージくん、それは……」

 社長が言いかけるのを遮るように、ユージは続ける。

「今の時代、情報過多じゃないですか。全部見せすぎても、すぐに飽きられちゃう。だから、見せないんですよ。見せすぎないことが、逆に興味を引くんです」

 ユージの言葉に、社長は腕を組み、考え込むような表情になった。その時、それまでじっと僕たちを見ていた綾音さんが、ハッと閃いたように声を上げた。

「社長! 私に考えがあります!」

 二人の視線が綾音さんに集まる。彼女は、まだ駆け出しのマネージャーとは思えないほど、真剣な眼差しで話し始めた。

「けんたろうくんは、謎のままにしましょう。顔は出さずに、ライブでもシルエットで出すんです。そして、『スーパープロデューサー』という肩書きをつけ、そのミステリアスさを売りにするんです!」

 綾音さんの提案は、僕たちだけでなく、社長にとっても衝撃的だった。斬新すぎるアイデアに、社長は一瞬ためらった。

「シルエットで……? それで、本当に人が集まるのか……?」

「大丈夫です! けんたろうくんの才能があれば、きっとできます! あの曲は、一度聴いたら忘れられません。そして、その才能を隠すことで、逆に人々の好奇心を刺激するんです。誰なんだ、あの天才は?って、話題になるはずです!」

 綾音さんの瞳は、僕の音楽への絶対的な信頼で輝いていた。社長は、そんな綾音さんの情熱に押されるように、ゆっくりと頷いた。

「綾音くん……分かった。君の言う通りにしてみよう。君の直感を信じる」

 社長は、立ち上がると、深く息を吐き出した。その表情には、迷いよりも、覚悟の色が濃く表れていた。

「これは、私の業界人としての、最後の大仕事になるぞ。全てを賭ける。だから、綾音君、早速動いてくれ! 君たちと、Synaptic Driveの音楽を、必ず世に届けてみせる!」

 社長の力強い言葉に、綾音さんの目からは涙が溢れた。そして、ユージは僕の肩を抱き、力強く微笑んだ。
(僕たちの音楽が、本当に世に出るんだ……)
 この時、僕はまだ、僕たちの音楽が、そして僕自身の存在が、これほど大きな波紋を呼ぶことになるなんて、想像もしていなかった。あの夜のライブハウスでの熱狂が、この決断から始まったことを、僕はこの時、初めて実感したのだった。

(見てて、けいとさん。今はまだ、シルエットの中からだけど)
(必ず・・・その場所に追いついてみせるからね!)