ライブハウスの薄暗い楽屋には、独特の緊張感が漂っていた。
 今日、僕たち『Synaptic Drive』は初めて、その姿を現す。

「けんたろう、緊張してる?」

 相棒のユージが、ギターの弦を弾きながら声をかけた。彼の表情には、いつもの飄々としたノリの良さだけでなく、今日のライブにかける並々ならぬ気迫が宿っていた。

「うん……宇宙と交信できそうなくらい」
「そりゃ重症だな」

 冗談めかしてはいるが、膝の上で握りしめた僕、けんたろうの拳は小さく震えている。
 そんな僕の肩に、専属マネージャーの佐倉綾音(さくら あやね)さんがそっと手を置いた。

「けんたろうくん、大丈夫。けんたろうくんの音楽は、必ずみんなに届くから。私たちがついてるからね」

 綾音さんの優しい声は、姉のように温かい。弱小レーベルRogue Soundの駆け出しマネージャーだけど、僕たちの才能を誰よりも信じてくれている。

 ユージは、そんな僕たちの様子をにこやかに見つめていた。そして、大きく息を吐き出すと、力強く言い放った。

「けんたろう、お前は何も考えず、最高の音を鳴らすことだけ考えろ。あとは全部、俺が何とかする」

 兄貴分であるユージの言葉に、僕の心のざわめきが少しだけ静まる。

「行くぞ、けんたろう!」

 ユージが立ち上がり、僕の背中を軽く叩いた。その言葉には、ただのライブへの意気込みだけではない、特別な響きがあった。

「けいとちゃんを追いかけるんだろ?」

 ユージの問いに、僕は何も言わず、用意されたサングラスをかけた。まだ世に知られていない『Synaptic Drive』のアイコン。その黒いレンズの奥で、あの日の光景を思い出す。

「俺はあやを追うんだ」

 ユージはそう言って、にやりと笑った。
 そうだ。すべては、あの雨の日の喫茶店から始まったんだ。


【数ヶ月前・喫茶店】

 テーブルの上には、ほとんど手付かずのクリームソーダが四つ。窓の外は、静かに雨が降っていた。

「私たち、『Midnight Verdict』、メジャーデビューが決まったの」

 向かいに座る僕の恋人、けいとさんが静かにそう告げた。隣では、ユージの彼女であるあやさんが俯いている。二人は大学生で、ユーロビートのバンドをやっている、。

「すげえじゃん!おめでとう!」
 ユージが声を上げるが、二人の表情は暗いままだった。

「事務所の方針で……プライベートも、今まで通りにはいかなくなる。だから……」
 けいとさんは、真っ直ぐに僕の目を見て言った。
「もう、会えない。距離を、置きましょう」

 頭を殴られたような衝撃。隣でユージが息を呑むのが分かった。
「な、なんでだよ!メジャーデビューと俺たちが会うことって、関係ないだろ!」
「関係あるのよ」

 けいとさんの声は、氷のように冷たかった。
「私たちはプロになる。けんたろうちゃんたちは、まだ普通の高校生。住む世界が、変わるの」

 残酷な宣告だった。大好きで大好きでたまらない人が、手の届かない場所へ行ってしまう。そして、僕たちを置いていこうとしている。
 雨音だけが、気まずい沈黙を埋めていた。

 店を出て、ずぶ濡れのまま、僕たちは公園のベンチに座り込んだ。
「……終わった」
 僕は膝を抱えて、地面を見つめることしかできなかった。悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。

「……終わってねえよ」

 隣で同じように打ちひしがれていると思っていたユージが、顔を上げた。その目には、まだ諦めの色はない。

「終わらせねえ。あいつらが遠くに行くってんなら、俺たちも行けばいい。追いかけて、追いついて、同じステージに立って、見返してやればいいんだ」

 ユージの言葉に、僕は顔を上げた。
 そうだ。悲しんでるだけじゃ、何も変わらない。距離が離れるなら、その距離をゼロにすればいい。

「……ユージ」
「ん?」
「僕たちも、バンドやろう」
 僕は、不思議ちゃん的なノリで、でも本気で言った。
「僕たちの音楽で、けいとさんたちのいる場所まで行っちゃえばよくない?」

 僕の突拍子もない提案に、ユージは一瞬きょとんとした後、ニヤリと歯を見せて笑った。
「お前、本気か?……ハッ、面白ぇ!やってやろうぜ!」

 年齢も性格も違う、凸凹兄弟コンビの逆襲が、この瞬間、始まった。


【現在・ライブハウス】

「行こうぜ!」

 ユージの言葉で、僕は現在に引き戻される。
 そうだ。僕たちは、追いかけるためにここにいる。

 ステージへと続く薄暗い通路を歩き出す。ドアを開けると、そこには予想通り、まばらな観客の姿があった。好奇の視線、冷やかしの視線。ネットの前評判も最悪だ。

【ネット民の反応】
「Synaptic Drive?聞いたことないな。どうせMidnight Verdictの二番煎じだろ」
「シルエットしか出てないって怪しすぎw すぐ消えるに1票」

 本当に僕たちはやっていけるのだろうか?

 ユージがギターを抱えてステージに現れると、会場が少しざわつく。僕はステージ奥の仕切りの向こう、シルエットの中だ。

 ユージがマイクを握り、挑発的に叫んだ。
「おい、そこの退屈そうな顔してん奴ら! 今日からお前らの人生を変えるサウンドを叩きつけてやるぜ! 俺たち、Synaptic Driveのデビュー曲だ! 聴いてブッ飛べ!『BABY I WANT U』!!」

 その瞬間、僕の指先から、嵐のようなユーロビートの洪水が溢れ出した。

「BABY I WANT U」
 待ち合わせじゃなくても 君を見つけたい
 言葉じゃなくても この声が届くなら
 いじわるな距離感 じっとしてるだけじゃ
 何も変えられないから 今、歌うよ

 胸の奥で 何度も鳴る名前
 誰よりも 君が 欲しいんだ

 BABY, I WANT YOU!
 走り出すこの感情
 名前を呼ぶだけで
 景色が変わるよ
 BABY, I WANT YOU!
 君の背中 逃がさない
 振り返るその瞬間まで
 オレは 君に追いつく

 無視された声も 見透かされた嘘も
 全部意味を持つ 君に近づくためなら
 情けないオレも 本気のオレも
 誰より君を見つめてる それだけは言える

 追いつけない その瞳の速さ
 でもまだ 諦める理由は無い

 BABY, I WANT YOU!
 この歌が届くなら
 隠した涙さえ
 抱きしめられるよ
 BABY, I WANT YOU!
 世界中が敵でも
 この声 止めない
 君が聴くまで

 夜明けよりも早く
 感情が君を探す
 心むき出しで
 走る 歌う 叫ぶだけ

 BABY, I WANT YOU!
 迷わず君を選ぶ
 ふり向いた一秒で
 運命が生まれる
 BABY, I WANT YOU!
 君が笑ったその時
 Synaptic Driveのすべてが
 あの日に繋がる
 ――そして、始まる。

 ユージのハスキーで力強いボーカルが、僕たちの想いを乗せて会場を切り裂く。
 予想を裏切るパフォーマンスに、冷やかし半分だった観客たちが息を呑む。スマホをいじっていた手が止まり、誰もがステージに釘付けになった。

 曲が終わった瞬間、会場の空気は一変していた。
「なんだこの曲!」「マジでかっこいい!」「後ろのシルエット、ただ者じゃないな!」
 フロアは、熱狂の渦に巻き込まれていた。

 その熱気に、ユージがさらにヒートアップして叫ぶ。
「どうだ、見たかコノヤロー! これが俺たち、Synaptic Driveのサウンドだ!」

 観客たちの視線が、僕のいるシルエットに集まるのを感じ、ユージはニヤリと笑った。

「お前ら、俺らのキーボーディストを見たいんだろ? だが、まだお前らの時代が追い付いてねぇんだよ!」
 ユージは指をさし、会場全体を煽る。
「お前ら次第だ! 俺たちをこの場から、ユーロビートの頂点まで押し上げてみやがれ!! そしたら、その時こそ――」

 会場のボルテージが最高潮に達する中、ユージは言い放った。

「――後ろにいるスーパープロデューサー、『けんたろう』のベールを剥いでやるからな!」

「うおおおぉぉ!!」という絶叫が、ライブハウスを揺らした。

(けいとさん、聞こえてる――?)

 僕はサングラスの奥で、ただ鍵盤を見つめる。

(けいとさんに追いつくためならなんでもする。待っててね!)

 まだ誰も知らない二人の挑戦が、今、確かに始まった。