町はずれに、小さなパン屋がある。

昼間はほとんど客の姿を見かけない。

けれど夜になると、看板にほのかな灯りがともり、
どこからともなく甘い香りが漂ってくる。

主人は白髪混じりの、やさしい目をした老人だ。

昼間はほとんど休んでいて、夜だけ店を開ける。
理由を尋ねると……、
「昼は陽射しが強くて、パンが恥ずかしがるんだよ」と笑う。


夜のパン屋には、不思議な常連がやってくる。

仕事帰りの看護師は「今日もがんばれたから」と、
ほんのり甘いブリオッシュを。

近所の少年は、夜更かしを叱られながらも、
どうしても食べたいチョコパンを。

そして、ときどき――街灯の下で足を止めた旅人が、ふらりと立ち寄る。

老人はどんな客にも、パンを紙袋に入れながら必ずこう言う。
「いい夢を見られますように」


ある晩、若い女性が店を訪れた。

涙の跡を残したまま、俯きながら「パンをください」とだけ言った。

老人は何も聞かず、小さな丸パンを二つ袋に入れた。
ひとつは買った分、もうひとつは「おまけ」だと渡した。

女性は驚いて顔を上げた。
「どうして、もうひとつ……?」

老人は肩をすくめて答える。
「パンはね、ひとりで食べるより、誰かと分けたほうがずっとおいしいんだ」

その言葉に、女性はかすかに笑った。
袋を抱きしめるようにして、月明かりの夜道へと歩き出した。



翌日、彼女は幼い弟を連れて再びやってきた。
ふたりは昨日の丸パンを分け合いながら、泣かずに眠れたと話した。
老人は目を細め、やさしく頷いた。


それ以来、そのパン屋の灯りは町の人にとって小さな目印になった。

夜道を歩く人は、香ばしい匂いに包まれると、ほんの少しだけ肩の力が抜けていく。

――ここに来れば、やさしい夢を持ち帰れる。

そして今日もまた、月の下でパンが焼き上がる。
それは、心をあたためる小さな魔法のように。