私は洗面台の鏡を見ながら「あーあ、腫れたらどうしてくれるのよ」と小さくため息を吐き、それでも応急処置と言う意味でハンドタオルを水で濡らすと打たれた頬にそっと当てた。ひんやりと冷たいハンドタオルは熱くなった私の中の何かを冷やしてくれているようだった。
そう、一瞬だけ熱くなった。あの浮気女の身勝手な言い分を、知坂の本音を聞いて言い知れない怒りが湧いたのは確か。あくまで無表情を装って『もう関係ありません』を語ってもそう簡単に冷えるものではないな。
化粧ポーチをバッグに入れるとトイレから出た。
トイレを出た所でちょうど知坂が居て浮気女が知坂に抱き着きながら
「あの無礼な女にいきなり殴られたのよ!知坂何とかして!」と泣いていた。
「何とかって……」
トイレから出てきた私と知坂の視線が合った。
「手を出してきたのはそっちが最初じゃない」と言ってやると、知坂の腕の中で浮気女の肩がびくりと動いた。
知坂がどっちの言葉を信じようと興味がない。
でも
私はハンドバッグからスマホを取り出し
「こうゆうことがあろうかと思って一応録音しておいたのよね。先に手を出してきたのはそっち」
ホントは録音なんてしてないし、知坂がどう思おうがもういいけどね。
答えを聞く前に席に戻ろうとすると
「彩未、待てよ。真子先席に戻っててくれないか?」と知坂が私の腕を取った。浮気女がふふんと口の中で笑った。『何があっても所詮、知坂は私の味方よ』とでも言いたいのだろうか。
トイレの前で知坂と改めて二人きりになると
「言ったでしょう?先に手を出したのはあっちだって……」と言い出したが、知坂からいきなり背後から抱きしめられた。最近、背が高くて筋肉質な天真に抱き締められることが多いから、その抱き方は酷く貧弱に見えた。
「何?」
「分かってる。真子はああゆう女だ。彩未が先に手を出すとか考えられない。
なぁ彩未、俺たちやり直さないか?俺、やっぱ彩未じゃないとダメなんだよ。どうせお前が連れてきたあの男だってレンタルしてきたんだろ」
なるほど、そうきたか。
「レンタル?違うわ。ホントに付き合ってるの。私にも彼にも失礼じゃない」
「悪かった。じゃぁ今すぐあの男と別れて俺とやり直そう」
勝手過ぎるこの男、今すぐこの手を払いのけたかったが、とりあえずは言い分を聞いてやることにした。
「あいつ、真子……家事が全然でさ。料理も掃除も洗濯も。彩未がいつも完璧にこなしてくれてたから、それが普通だと思ってたけど。全然違った。相性だって良かっただろ?俺ら」
お腹ら辺に回った知坂の手にぎゅっと力が籠るのが分かった。
気持ち悪い。
私に触るな。
「なぁ彩未……」
「ねぇ知坂、その前に一つ聞いていい?私を追い出したあの日のこと。あの日が何の日だったか知坂覚えてる?」
知坂の方を見ると
「えーっと……」
ここに来てもまだ思い出せないのね。アルバイト先の同僚ですら覚えててくれたのに。あの時私が一番欲しかったオトコは一番サイテーだ。
「サイテー。彼女の誕生日ぐらい忘れるなっつうの」
私は顔を振り返ると肘を持ち上げると、勢いを付けて肘で知坂の頬を打った。びっくりしたのと思ったより痛かったのか知坂が打たれた場所を押さえながらよろけた。その瞬間を狙ってくるりと振り返ると今度は知坂の腹に足蹴りを決めた。
知坂はこっちがびっくりする程あっけなくひっくり返った。鼻から鼻血を垂れ流している。私が打った肘が鼻にも当たったのか、それとも倒れるときに?どっちでもいいけど。
一週間、天真にトレーニングを受けていたけどここまで完璧に実践できるとは……ちょっとびっくりしていると、
「おーい、大丈夫かぁ?」と天真がのんびりと顔を出して、男子トイレの前で伸びている知坂を見て
「おー、結構派手にやったなぁ」と天真が苦笑いでこめかみを掻きながら「大丈夫か?」と知坂を起こした。
知坂は未だ私に殴られた上蹴り飛ばされたことが認められないのか目をまばたいて私の方を見ている。
ぷ
なんて間抜けな顔。
その顔が見たかった。



