帰りのホームルームが終わると、みんなそれぞれ仲良くなった友達と軽く言葉を交わしながら教室を出ていく。
 今日は人生で一番充実した日だった。
 今までいつも一人で食べていたお弁当も、今日は久保田君や席の周りの子たちと楽しく話しながら食べることができたし、家族としか使っていなかったメッセージアプリも、クラスメイトの何人かと交換することができた。

 「じゃあ部活終わったら電話するから!トプ画絶対変えんじゃねぇぞ」

 「うん、わかった。今日は色々とありがとう」

 「おうよ!」

 久保田君はそう言うと、重そうな部活の鞄を担いで手を振りながら教室を後にする。
 僕のアプリのプロフィール画像は、昼休みの間に一緒に撮った写真に勝手に変えられていた。
 最初は恥ずかしくてすぐにでも変えようと思っていたが、今は嬉しさのほうが上回って結局そのままにしている。
 
 久保田君と二人で撮った写真をずっと眺めていると、いつの間にか教室には僕以外誰ひとりとしていなくなっていた。
 さっきまでとは比べ物にならないぐらい静かになった教室を後にして外に出ると、今の僕の気持ちを表すかのように、雲ひとつない青空が空一面に広がっている。
 
 部活には入っていないので、いつも通り駐輪場の一番端に停めてある、高校の入学祝いで祖母に買ってもらった自転車に跨って校門を出る。
 校門を出てすぐ右に曲がり、目の前に聳え立つ坂を登り終えると、歩道が極端に狭い橋が姿を現す。
 その橋を半分ほど渡り終えると、右手に土手へと続く道の入り口があり、この土手を通るルートが父に教えてもらった学校までの一番の近道だった。
 
 今日もいつもと何ら変わりのない道なのに、いつもより風が気持ちよく、空の青さがとても綺麗に感じる。
 人は一歩踏み出して自分の殻を破ると、こんなにも目の前の世界が変わって前向きな気持ちになれるということを初めて知った。
 心地よい風を感じながら気持ちよく土手を進んでいくと、いつものように河川敷へと続く道が見えてくる。
 その道を通って河川敷に降りて奥に少し進むと、たくさんの木々に囲まれた隠れ家のような場所にたどり着く。
 
 ここは僕が入学して間もない頃にたまたま見つけた、一番心を安らげることができる秘密の場所だ。
 いつも辛いことがある度に、必ずここに来て一人で泣いていた。
 明るい気持ちでここに来れたのは今日が初めてかもしれない。
 今の季節特有の満開の桜が、僕の心をさらに明るい色に染めてくれる。
 
 この場所にひとつだけあるベンチに座り、綺麗な桜を眺めていると、無性に〝桜ソング〟が聴きたくなり、ポケットから携帯を取り出して曲のリストの中にある桜ソングを順に聴いていく。
 周りに人が全然いないので、ある程度声を出して歌っても気にならないのがこの場所の利点だ。
 目を瞑りながら自分の世界に入り込み、気持ちよく歌っていると、背後で何か物が落ちる音がした。
 
 嫌な予感がする……
 イヤホンを外し怖ず怖ずと振り向くと、落ちた水筒を拾おうとしている女の子と目が合った。
 驚きのあまり、とっさに目を逸らす。

 「すみません、誰かいるなんて思わず、あの……」

 動揺しすぎて自分でも何を言っているのかよくわからない。
 するとその女の子は、鞄の中から一冊のノートを取り出して何か書き始めた。
 その意図が全くわからず、頭の中で色々な感情が渦巻いていて、もうおかしくなってしまいそうだ。
 
 どうしていいのかわからずもぞもぞしていると、さっきまでノートに何か書いていた女の子がいつの間にか目の前にいて、そのノートを僕に見せてきた。

 【全然大丈夫ですよ。私のほうこそ気持ちよく歌ってるところを邪魔しちゃってごめんなさい。】

 気品に溢れたとても綺麗な字だ。
 ただ、一つの疑問が脳裏をよぎる。

 「どうして直接言わず、ノートに書いてるんですか?」

 彼女は考える間もなく、まるで当たり前の質問をされたかのようにノートにペンを走らせた。

 【すみません、ちょっと事情があって話すことができないんです。】

 聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。

 「変なこと聞いてごめんなさい。僕そういうところの空気が全然読めなくて」

 【全然気にしないでください。いつも不思議がられて聞かれることなので、あなただけじゃないですよ。】

 彼女は気を遣って僕が安心できるような言葉をかけてくれただけだと思うが、そのおかげで少しだけ胸のつかえが取れた。

 【そういえばお名前お聞きしてもいいですか?】

 「黒木啓太といいます。板見高校の二年です」

 【私は蒼井(あおい)ふみといいます。彩美女学園の二年です。同学年ですね。よろしくお願いします。】

 制服を見て彩美女学園だということはすぐにわかった。
 ただ、とても大人びていたので同学年だとは思いもしなかった。

 「こちらこそよろしくお願いします」

 そこから少しの間沈黙が流れる。

 何か話さないとと思うけれど、こういうときに限って話題の種が思い浮かばない。

 【ここにはよく来るんですか?】

 そんな僕を見兼ねてか、蒼井さんが助け舟を出してくれた。

 「はい、嫌なことがあったときによく来ます。蒼井さんもここによく来るんですか?」

 【初めてです。何だか今日はいつもと違う道で帰りたいと思ってこの土手を通ってきたんですが、河川敷のほうから歌声が聴こえてきて、気になって降りてきちゃいました。】

 彼女の会話文を目で追い、二文目の半ば辺りから急激に恥ずかしさが込み上げてきて、咄嗟にノートから目を逸らす。

 「変な歌声を聴かせてしまって、本当にすみません」

 【いえいえ。実は最近ちょっと嫌なことがあって。でも、今日黒木君が幸せそうに歌っている姿を見て、何だか心が洗われたような気がしたんです。ありがとうございます。】

 「感謝されるなんて全く思っていなかったので、何て言葉を返したらいいのか……」

 蒼井さんはくすくすと笑い出す。

 【黒木君って本当に面白いですね。すみません、私もうそろそろ帰らないといけなくて。よかったら私も辛いときにこの場所を使わせてもらってもいいですか?】

 「僕だけの場所じゃないんで、全然いっぱい使ってください!」

 彼女にまた会えるかもしれないという期待が高まったからか、声量のコントロールが効かなかった。

 【ありがとうございます。じゃあまた】

 そう書き終えると彼女はノートを鞄にしまい、いつの間にか僕の自転車の横に停めてあったクリーム色の自転車に跨って、手を振りながら駆け出していく。
 遠ざかっていく蒼井さんの後ろ姿が見えなくなるのと同時に、これまでピンと張りつめていた緊張の糸が一気に解けて、ものすごい脱力感に見舞われる。
 
 女の子とこんなに長く話したのは初めてで、緊張で何を話したかはあまり覚えていないが、こんなにも胸が高鳴って幸せな気持ちになれるということを初めて知った。
 今日あった色んな出来事を思い返しながら空を見上げると、いつの間にか空は綺麗な夕焼けに包まれている。
 
 僕はこの場所から見える夕焼けが大好きだ。
 嫌なことなんてすぐに忘れさせてくれるし、何より穏やかで優しい気持ちにさせてくれる。
 いつもと何ら変わりない綺麗な夕焼けなのに、今日は蒼井さんのことばかり頭に浮かんできて夕焼けを堪能できない。
 よくわからないもやもやした気持ちでいると、ポケットの中で携帯が振動した。
 
 ポケットから携帯を取り出して画面を見ると、〝久保田敏也〟と表記されている。
 正直蒼井さんのことで頭がいっぱいで、久保田君との電話の約束をすっかり忘れていた。

 「今部活終わった!啓太今何してるの?」

 家族以外から下の名前で呼ばれる記念すべき瞬間が、こんなあっけらかんと訪れるとは予想だにしなかった。

 「今は河川敷で夕焼けを見てます」

 「もしかして彼女とか?」

 声色からして、嫌味を存分に含んでいることが伝わってくる。

 「違います。一人です」

 「まあ啓太に彼女がいるわけないか」

 それは間違いなくその通りなのだが、あまりに躊躇なくはっきりと言われると若干へこむ。

 「あと敬語じゃなくていいからな。俺ら友達なんだし」

 「うん……わかった」

 「よし。そういえば啓太って好きな人とかいないの?」

 敬語で話さないだけで精一杯な上に急な話題の転換に頭が追いつかず、急いで思考を巡らすと、何故だか蒼井さんのことが頭に浮かんできた。
 この気持ちが何なのか、いくら考えても自分の空っぽの頭では答えを導き出してはくれない。
 久保田君なら何かヒントを与えてくれるのではないだろうか。

 「今日河川敷で彩美女学園の同級生の女の子にたまたま会ってちょっと話したんだけど、その子のことが頭から離れなくて。今のこの気持ちが何なのかよくわからないんだ」

 こんなにも自分のことを赤裸々に話したのは初めてで、何だか胸の奥がむず痒い。

 「啓太、完全に一目惚れしたな」

 「一目惚れ?」

 「そうやって相手のことが気になって、頭から離れなくなるのが恋なんだよ。もしかして初恋か?」

 初恋という言葉に聞き馴染みがなさすぎて、意図せず固まってしまう。

 「くぅ~~!」

 すると、突然の奇声が耳を劈いた。
 声色からして、彼は初恋という言葉に高揚感しか抱いていないようだ。

 「青春は美しいな。それでもちろん連絡先は聞いたのか?」

 「……初めて会った人にいきなり聞けないよ」

 先程の奇声とくさいセリフの衝撃で、会話のテンポが少しずれてしまう。

 「もしこの先会えなかったらどうする気だよ」

 「でもこれから私もこの場所を使いたいって言ってたというか、書いてたというか……」

 「それならチャンスありそうだな!んっ、書いてたってどういうこと?」

 「実はその女の子、話すことができないんだ」

 彼の中にも驚きがあったのだろう、少しの間静寂が流れた。

 「だから僕は話して、その女の子はノートに話したいことを書いてコミュニケーションを取ってたんだ」

 「なるほど。何で話せなくなったんだろうな」

 確かに理由が気になるが、本人が言いたくない事情があるかもしれないので、直接聞いてはいけないということはさすがの僕でも把握している。

 「それでその子かわいいのか?」

 再度唐突な質問が、桜の花びらに乗って飛んでくる。

 「えっと……髪がきれいにスラっと伸びてて茶色味で。それと小顔で目がクリっとしててとても可愛らしい女の子だよ」

 「会ってみたいな~。とりあえず明日もその場所に行けよ。もしかしたら明日も来るかもしれないから」

 「うん、わかった」

 それから明日学校で作戦を練る約束をして電話を切った。
 久保田君に相談して本当によかった。
 こんなにも真剣に相談に乗ってくれる友達がいるって、幸せなことだ。

 「あっ!そういえば」

 今日は愛犬のクラムの散歩担当だったことをすっかり忘れていた。
 数十分前とは打って変わって寂しそうに佇んでいる僕の自転車に跨って、夕焼けに明日も蒼井さんがここに来てくれるようそっとお願いをし、ゆっくりとペダルを漕ぎ始める。