「……っ、バカ。前、見て歩けよ」
 夏樹の声が、耳元で震えた。
 いつものぶっきらぼうな声なのに、どこか焦りが混じっている。

 その瞬間、張りつめていたものが全部ほどけて、涙がこぼれた。

「な、なんで泣くんだよ……怖かったか?」

 夏樹の指先が、そっと頬に触れる。
 その優しさがあたたかくて、余計に涙が止まらなかった。

「ちがう……」
 声が震えて、言葉が詰まる。
「なつくんが……喋ってくれたから……」

 目の前の夏樹が、一瞬だけ驚いた顔をした。
 でもすぐに、困ったように目をそらして小さくため息をつく。

「……ったく。そんなことで泣くなよ」
 そう言いながらも、彼の手は優しく私の頭を撫でていた。

 夕陽の光が二人の影を長く伸ばしていく。
 夏樹のシャツの袖が、オレンジに染まって綺麗だった。

 心臓の音がまだ止まらない。
 怖かったのは自転車なんかじゃない。
 彼の声も、見つめる瞳も、もう二度と私とは交わらないのかと、不安でたまらなかった。

 でも――
 今、目の前にいる。
 触れた手のひらの中に、ちゃんと私を見つめる夏樹がいる。

 涙の粒を落としながら、小さく笑ってしまった。

「……嫌いにならないで」

 その言葉に、夏樹が少しだけ目を見開く。
 そして、ほんの一瞬――
 彼の瞳が、優しく揺れた気がした。