小春の肩にかけたタオルを、そっと押さえながら歩いた。
 廊下の端からは、まだ外の雨音がかすかに聞こえてくる。
 さっきまでの嵐が嘘みたいに静かだった。

 小春は、さっきまで泣いてたせいで、目の端が少し赤い。でも、それでも笑ってる。
 その笑顔を見るたびに、胸がぎゅっとなる。

「……なつくん、びしょびしょなのに、大丈夫?」
「平気。お前こそ、風邪ひくなよ」
「なつくんが助けてくれたんだもん。平気」
 そう言って、またあいつはにかっと笑う。

 ――ほんと、ずるい。
 あんな風に笑われたら、全部どうでもよくなる。

 濡れたスリッパの音が、廊下に小さく響いた。
 その音だけが、二人の間に流れる沈黙をやわらかく埋めていく。

 「……小春」
 名前を呼ぶと、あいつが振り返る。
 目が合った瞬間、喉の奥が少し詰まった。
 言いたいことが多すぎて、言葉にならない。

「この前の……キスのこと、気にすんな」
 やっとそれだけ、絞り出すように言えた。
「俺、何もなかった。ほんとに。あいつに悪いけど、俺の中には、最初から――」

 そこまで言って、息を呑んだ。
 小春が、まっすぐに俺を見てる。
 その瞳に、まるで「わかってるよ」って言葉が宿ってるようで、それ以上、何も言えなかった。

 「……うん、知ってる」
 小春が、ふわっと笑った。
 その一言で、心の奥にあった重たいものが、全部ほどけた気がした。

 部屋の前に着くと、あいつは少し照れたように髪を触りながら、「おやすみ、なつくん」と小さく手を振る。

 ――あぁ、やっと笑ってくれた。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなって、気づけば、自然と手が伸びてた。

 小春の髪の先を、そっとつまんで。
「……もう泣くなよ」
 低く、それだけ言って、手を離した。

 あいつは少しだけ目を見開いて、それから、小さくうなずいた。

 「うん、もう泣かない」

 部屋のドアが静かに閉まるまで、俺はその場を離れられなかった。

 廊下に響く雨の匂いが、どこか優しくて。
 胸の中に残る小春の温もりが、ずっと消えなかった。