息を切らせて、夏樹が走ってくる。
 亜美が肩をびくりと震わせ、次の瞬間、目に涙を溜めた。

「……ごめんなさい……私、桜田先輩を怒らせちゃったみたいで……」
 涙が頬を伝い、声が震える。
 演技なのか、本心なのか、わからない。

 私はただ、胸の奥がチリチリと痛むのを感じながら、
 夏樹と亜美の間に流れる空気を見つめていた。

「は……?」
 小春は目を瞬かせた。
 さっきまでの挑発的な表情はどこにもない。
 今そこにいるのは、か弱く見える“後輩の女の子”。

 夏樹が小春と亜美を交互に見て、困ったように眉をひそめた。
「おい、どうしたんだよ。亜美、泣くなって」

 その言葉に、胸の奥がキュッと締めつけられる。
 ――なんで、私じゃなくて、あの子を先に……

「別に、泣かせたつもりなんてないよ」
 なるべく平静を装って言うけれど、声が少し震えていた。

 夏樹は小春に一歩近づこうとしたが、後ろで亜美が小さくすすり泣く。
 その音に気づいて、夏樹の足が止まる。

「……とりあえず、落ち着けよ。亜美、ほら、深呼吸しろ」
 優しい声。
 その優しさが、いつもは好きだったのに――今は、痛い。

「……落ち着いた方がいいのは、私の方かもね」
 小春はかすかに笑ってみせた。
 でも、その笑顔は自分でもわかるくらい無理をしていた。

「今日はもう帰るね」

 もう、誰の顔も見ることができなかった。

 背後で、夏樹が「あ、待てよ」と呼ぶ声がした。
 でも、その声を聞く前に、小春は歩き出していた。

 春の風が頬をなでる。
 なのに、胸の奥はずっと冷たいままだった。