『良いか千保。我が西条寺製薬会社がここまでの成長を遂げたのは、犬神家の存在があるからなのだ』
『いぬがみけ?』
『そうだ。我々西条寺家はなにがあっても、犬神家を護り続ける使命がある。わかるな?』
『はい。お父様』
『うむ、お前は二十歳になったら優一郎君と結婚するのだ。そうすることが犬神家を護ることに繋がり、古来より受け継いでいるその血を西条寺家も継承することができる』
『けっこん・・・?』


□□□

 あれは、小学校一年生のときだった。
 その日は、前日に降った雨のせいで道がぬかるんでいた。公園にあるカラフルな遊具は雨で濡れていておまけに泥が跳ねていた。頭上には灰色の雲は広がったまま。
 水玉模様のワンピースに、白いフリルのついた靴下。お母様がこれを着て欲しいというので、私は雨の日でも構わずにそれを着た。

『千保がこの服を着ているとね、まるで太陽が地上で遊んでいるみたいに、明るい気持ちになるのよ』

 帰り道、水たまりを避けながら、前の子に続いて歩いていると、ワンッワンッと聞き覚えのある鳴き声がした。足を止めて公園の方を見た。信号が点滅し始めると、渡り終えた通学班の子が私を呼んだ。

「ゆう君・・・?」

 信号は赤に変わっていた。犬の鳴き声に公園に向かって走っていた。

「ウゥゥワンッ!ワンワンッ!!」

 威嚇して吠える声が、公園に響いている。近くには上級生の姿もあった。とにかく走った。ランドセルの中の教科書や筆箱が、ガサガサと上下に音をたてながら揺れていた。

「コイツ野良犬か。きったねぇ~」
「触ると病気が移るらしいぜ」
「あー!きょうけん病ってやつじゃねーの」

 体の大きい上級生三人組が、小さな黒い犬を取り囲んでいた。そのうちの一人が、手に持っていた班旗で子犬の胴を突いた。

「キャゥン」
「やめてぇぇー!!」

 乱暴をする上級生に向かい思い切り叫んだ。ビチャビチャと泥が跳ねて、白いレースのついた靴下に跳ね返っている。けどそんなの気にならなかった。無我夢中だった。
 早く助けないと、早く。私が護るんだ――ってただそれだけだった。

「その子にいじわるしないで!」
「ゲッ西条寺だ」
「あの家と関わるなって父ちゃんに言われたばっかなんだよ」
「オ、オレも。おい、もう帰ろうぜ」

 自分と世間が少しずれていると気づいたのは、日本の学校に通いだしてからだった。それまでは、自分の生まれた環境も、家柄も気にしたことはなかった。優君が公立の小学校に通うと言うので、お父様も私を同じ小学校へ入学させた。

『そんな真っ白の靴下じゃ汚れちゃうよ?せっかく可愛いのにもったいない』
『汚れたら新しいのを買ってもらうからいいの。今日はお母様が、これを着て欲しいと言ったかからこれにしたのよ』
『えっこんな雨の日に?千保ちゃんのお母さん変だよ!』
『しかもお母様って呼び方も可笑しいよ。アッハハ』

 案の定、下校のときには白い靴と靴下には泥がついていた。そういう小さな、小さなすれ違いに気付けなくて、私は一人でいることが多かった。

「キャッ!!」

 ぬかるんだ土道に足がもつれ、ぐにゃっと滑ってしまった。見事に水たまりにダイブした。手をつくタイミングが遅れたせいで、顔にまで泥が飛び散った。

「痛・・・」
「クゥン」

 私の指先にコツンと、生温かく湿った感触。顔を上げると、優君だった。真っ黒な毛並みには、少しだけ泥が跳ねている。鼻の頭をコツン、コツンと何度も私の指先にあてた。

「私は大丈夫だよ。優君はどこかケガしてない?」

 ――そんな私の傍に優君だけがいてくれた。

 薄暗い空から、雨がぽつぽつと落ちてきた。一日水蒸気を溜め込んだ雨は、辺りを濡らしていく。
 体を起こすと泥のついた服は、少しだけ重くなっていた。ぽつぽつ降っていた雨の間隔が短くなっていく。優君を抱きかかえようとすると、転んだせいで両手は泥だらけだった。

「ちょっと待って、手を洗ってくるね」

 隅にある手洗い場で手を洗うと、細かい傷がしみた。泥まみれのカーディガンを公園のゴミ箱に捨てた。雨に打たれた体は少しだけ寒かった。
 ハンカチで手を拭いていると、優君が心配したのか傍まで来てくれていた。

「優君お待たせ。帰ろう」

 優君を抱きかかえると、雨のせいで毛が濡れている。持っていたハンカチで軽く拭いてあげると、ぶるりと体を震わせた。

「ふふふっ優君冷たいよ」
「ワンッワンッ」
「そうだね。早く帰らないと二人も風邪ひいちゃうね」
「ワンッッ」
「優君?」

 優君がなにか訴えかけているのに気がついた。そのまま、手洗い場の裏に走って行く。
 どうしたんだろう?
 追いかけると、そこには優君のランドセルが開いたまま転がっていた。

「あれ?これ優君のランドセルだ」
「クゥ~」

 か細い犬の声に優君のランドセルの中を覗くと、麦色の子犬がランドセルの中で震えていた。

「大変!震えてる。すぐに優君のお父さんに見てもらわないと!」

 優君のランドセルに子犬を入れたまま、体の前に担いだ。前方が見えにくかったけど、優君が誘導してくれた。

 汚れた服も壊れた傘も替えはきく。だけど優君を護れるのは、私にしかできない特別なこと。あの頃はそう思っていた。
 けど本当は、優君の傍にいれることが、なにより嬉しかった――。