西条寺千保十二歳。生まれて初めて体育館に呼び出されています。これは恋愛漫画で、よく見かけるシチュエーション!そして人生初の壁ドン。女性はこうやって壁に追いつめられると、胸キュンするらしい。だっだめよ、犬神君こんなところで――。

「ぬぁぁーに勝手なこと言ってんだよっ!」
「ごっごごごごめんなさいごめんなさいっ!!ついぃ・・・」
「ついじゃねーよ!朝言ったばっかりだろう」

 胸キュンどころか、破れそうに鼓動が爆上がり中っ!!こ、これは、壁ドンなんて甘いものではなく攻撃対象物を脅す脅迫ドンだ。尋常じゃないくらい怒ってるよ。恐くて顔見れないー!

「お前が軽はずみな発言で、こっちがどれだけ迷惑してるかわかってんのか」
「めっ迷惑かけたことは謝るけど、私は軽はずみで言ったわけじゃないよ。それに・・・」
「あ?なんだよ」
「そ、それにみんな優君こと全然知らないのに悪く言うから・・・。だから悔しいでしょ!」
「・・・そんなの、お前が腹立てることじゃないだろ。言いたい奴には言わせておけば」
「イヤ!優君のこと悪く言われたくないもの」
「ったく、なんだよそれ」

 優君の手が脱力し壁から離れた。はぁとため息を零しながら、後頭部に手を当てている。
 優君はみんながきっちり着ている制服のネクタイを緩めてつけている。首に巻きつけるのが好きじゃないから。昔、遊び半分でつけられた首輪が苦しくてそれ以来トラウマになってるみたい。だけど周りは、やれ校則違反だの不良の始まりだと騒ぎ立てるの。日本は前に倣え習慣だから余計。

「悪かったな。怒鳴ったりして・・・」

 優君が背を向けながら、ぼそぼそ言っている。考えごとをしていたせいで上手く聞き取れなかった。

「なにか言った?」
「なんでもねぇーよ。教室戻るぞ」

 二人きりの体育館は、広く感じた。高い窓から太陽の光が注がれている。一瞬、優君の顔が眩む。落ち着きを取り戻していた鼓動がまた、ドクンドクンって大きくなっていく。
 渡り廊下を歩いていると、風が吹いた。グラウンドに巻き上がる砂埃に交じり、桜の花びらが散っていく。
 少し前を歩く優君の袖を掴んだ。

「ねぇやっぱり、学校でも優君って呼んじゃダメかな?」

 見上げた優君の前髪に、桜の花びらがついていた。

「花びら、ついてるよ」

 前髪に手が触れた。触れた指先が熱を持った。
 小学生の頃はそこまで変わらなかった身長も、今は優君の方がずいぶんと高い。見下ろされる、鋭い瞳に私が映り込んでいる。無言のままの優君に見つめられて、息をするのを忘れていた。つまんだ花びらが、ひらひらと飛んでいった。

「どうしたの?」
「・・・別に。千保の肩にも乗ってる」
「えっ?本当だ、気づかなかった」

 あれ?今、名前・・・。
 肩についた桜の花びらを軽く払ってくれた。

「ま、待って優君っ!今名前呼んだよね!?」
「・・・っ」
「それは、私も名前で呼んでいいよってこと!?ねぇそういうことでしょ?」
「う、うるせぇな。好きにしろよっ!」
「良かったぁ」

 優君を見ると、珍しく照れたように頬を赤くしていた。
 みんなに対して悔しいと思ったのは、こういった優君の一面を伝えきれなかったからかもしれない。
 チャイムが鳴り、別々の校舎へ戻って行く。

□□□

『ちょっと聞きまして?特Aの西条寺千保さんと一般科の犬神が許婚関係にあるらしくってよ』

『おいおい聞いたか?あの西条寺家の一人娘が、狂犬神と結婚の約束してるらしいぜ』

『えーただの噂でしょ?』

『それって婿養子ってやつ!?玉の輿じゃんアイツ!』

 噂とは面白いくらいに広まっていく。
 授業が終わると、レナと二人で中庭のベンチにやって来た。私を見て、ヒソヒソ話を始める生徒たち。レナはそれを気にすることなく話しを切り出した。

「それで西条寺千保さん。親友の私はそんな話、一度も聞いたことはなかったけど?」
「ごっごめんねレナ。中々言うタイミングがなくて。優君に口止めされてたから言えなくて」
「まぁそれはこの際、良しとしておくわ。でも、どうしてよりにもよって、犬神優一郎とそんな関係に?もしかして本当に弱みでも握られているの?」

 朝の冗談を含んだ良い方とは違い、レナの顔は真剣だった。

「違うよ。あのね、話すと長くなるんだけ、どお父様と犬神君のお父様は、大学時代からの親友なの。それで、私たちが生まれる前に、許婚の約束をしたみたい」
「はっ?なによ、その軽薄なやりとり」

 納得のいかない様子だった。レナは前に落ちてきた髪を後ろに払った。

「それが西条寺家になんのメリットがあるの?犬神優一郎の家って、確か個人経営の動物病院よね?」
「そうだよ。えっと、西条寺家ってだけで、寄って来る人が大勢いるでしょ?信頼できる犬神家に嫁がせたいってお父様は思ったみたい」

 校舎の二階から特Aの上級生たちが、窓から顔を覗かせた。目が合いそうになると、サッとカーテンを閉めた。特Aと一般科はリボンの色が違うからすぐに見分けがつく。

「あまり納得のいく答えじゃないわね・・・」

 顎に手を添えて考え込むレナ。
 やっぱりレナは鋭いな。

「そもそも千保は、許婚って納得してるの?」
「うん?」
「この自由恋愛の世の中で、親が決めた相手でいいの?だいたい二十歳で結婚って早すぎるわよ。世の中には、もっとたくさんの男がいるのよ!」
「あっうん。そうだよね。そう言われるのもなんとなくわかる」
「だったら」
「でもね、私が優君のこと大好きなの。優君以上の人は、この世界中をどこを探したっていないって言いきれるから」

 レナは吊り上がり気味の猫目で数秒間私を見つめた。そしてふっと息を抜いた。乗り出してた体勢を元に戻し、再び口を開く。

「まさか、そこまで言い切られると思わなかったわ。千保をここまで誑し込む犬神優一郎って何者なのよ」
「本当はとっても優しいんだよ。でも、いつも眉間に皺寄せてるから、恐いって思われちゃうけど」

 校舎が夕焼けに照らされていた。レナはカーテンが閉められた教室を見上げていた。向こう側には、まだ上級生たちはいるだろうか。だとしたら、もう私の話じゃなくて、別の話題になっているんだろうな・・・。

「あっいけない!今晩パパの誘いで会食だったの忘れてた」
「相変わらず忙しそうだね」
「これも私の将来のためって思うようにしているわ。じゃぁ車を待たせてるから先に行くわね」
「うん。また明日」
「今度、犬神優一郎がどんな男か紹介しなさいよね!」

 レナは姿勢を正し、颯爽と中庭を横切って行った。大きく手を振っている。私も負けじと、大きく手を振り返した。