「千保っっ」

 ドクンッ――。
 跳ね上がる鼓動に息をするのも忘れていた。

「ゆ、ゆう・・・くん」
「どうやら薬が効いたみたいだな」
「元に戻ってる」
「黙って行くなよっ!!」

 腕に包帯を巻いた手で、人をかき分けながらこちらに向かってくる。気がついたら、私も走り出してた。人にぶつかりそうになりながら優君の名前を叫んだ。真直ぐ手を伸ばした。そして、優君の胸に飛び込んだ――。

「優君っ!」
「千保!・・・えっ、おっおい」
「良かった。人間の姿に戻れたんだね。本当に良かった」

 ようやく感じることができた人の温もりに『好き』と言う気持ちが一気に溢れ出した。抱き着いた私に、一瞬戸惑った声を上げたけど、私の背中に手をまわして、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「心配かけて悪かった」

 搭乗の最終アナウンスが流れた。慌てて振り返ると、お兄ちゃんがゲートの方へ向かっていくのが見えた。

「お兄ちゃんっ!」
「今回のところは引き下がるよ。でも千保、ちゃんと自分のやりたいこともみつけるんだよ。優一郎中心の人生なんてつまらないだろ。次に会うまでの宿題だ」
「うん。約束する!」
「それから優一郎」

 お兄ちゃんは優君に視線を移した。無意識に肩に力が入った。

「その体質を改善しない限り、僕はお前を認めないからな」
「絶対治してみせる。アンタの薬が必要ないくらい完璧にな」

 お兄ちゃんは一人で歩いて行った。その背中を見送りながら、隣にいた優君と手を取り合った。



 二人でラウンジに出て、お兄ちゃんの飛行機を見送った。澄んだ水色の空が高くて、どこまでも続いているみたいだった。飛行機がぐんぐんと空に昇って小さくなっていく――。
 ゲージから出したまめ蔵を抱きかかえていると、飛行機に向かって吠えた。

「ワンワンッ」
「お兄ちゃんの飛行機あれかな」
「・・・本当に行かなくて良かったのか?」
「うん。私はやっぱり優君の傍にいたい」

 それが、今の私の答えだった。

「昂に言われたんだよ。今の俺じゃ千保を護れないって・・・。確かにその通りだよ。いつ犬になるかわからないこんな体質じゃ、千保に迷惑しかかけない。だから突き放すようなことをした」
「あの人は彼女じゃ、ないんだよね?」
「当たり前だろう。お前がいるのに彼女なんて」

 優君は言いかけた言葉を呑み込み、顔を背けてしまった。

「あの日、昂に新薬を渡されたんだ・・・。強い薬だけど、効果が期待できるって。でも下手したら犬から戻らなくなるかもしれない」
「それで長引いてたんだ。でも良かった優君が元に戻って」
「千保が看病してくれたの、薄っすら覚えてる。ありがとう」

 眉間の皺がなくなっていた。優君の表情がスッキリして見える。

「あっそうだ、これ」

 ポケットの中をゴソゴソすると、ある物を取り出した。握っていた拳を開いた。

「えっ、これ」

 思わず声が震えた。そこには、失くしたはずのイヤリングがあった。

「プレゼント買った店から電話があったんだ。レジの下に落ちてたって。申し訳なさそうにしてた」
「良かった・・・。良かった。もう見つからないかと思った」

 まめ蔵を抱いたままの私の耳に、優君がそっとイヤリングをつけてくれた。風で揺れる髪を耳にかけると、優君の手が私の耳たぶに触れる。少しだけこそばゆくて、真剣な優君の瞳に胸が高鳴っていく。イヤリングが耳についた。

「似合ってる」
「ありがとう」
「って俺が見つけたわけじゃないけどな」
「ううん。ちゃんと届けてくれた。本当にありがとう。大好きだよ」

 優君の頬が赤くなっていく。見られたくなかったのか腕で隠している。それがいつもの優君らしくてほっとした。

「それから、これも・・・」

 そう言って、小さくラッピングされた包を取り出した。それは、優君の机の上に置いてあった、犬のブレスレットだった。

「えっこれ、私に?」
「一つだけ、言っておきたいんだけど」
「・・・?」
「俺だって、許婚じゃなくても、千保を好きになってた」
「えっ!?そうなの!?あれ、今の言い方って、まるで今も好きみたいじゃ」
「好きじゃなきゃ、こんなところまで来ねーだろ」
「いやっそれはその、そうだけど。・・・わあぁ!まっまめっ!」
「うわっ!」

 優君の発言に激しく動揺していると、まめ蔵が腕から飛び出した。
 ダメッ!心の中でそう叫んだ。でも 腕を伸ばしたときは、もう遅かった。まめ蔵は優君の胸にダイブした。

 やっと人間に戻れたのに・・・。また犬になっちゃう。もっと話したいことがたくさんあるのに、もっと・・・!

「犬になってない」
「えっ」

 顔を上げると、目の前には優君の腕の中で尻尾を振るまめ蔵の姿。目を見開きながら、交互に優君とまめ蔵を見た。犬に触れている優君を生まれて初めて見た。

「徐々に抗体がつき始めてるってことなのか・・・?」
「そうだよ!きっとそう!!」

 優君はそのまま、まめ蔵を空高く掲げ嬉しそうに笑った。水色の背景に浮かぶまめ蔵も、尻尾を振って喜んでいる。その遥か上を、また飛行機が飛んでいく。
 今度は飛び出さないように、まめ蔵をゲージにしまった。強い風が吹き、胸のざわめきまで取り払っていくようだった。

「千保」

 名前を呼ばれ、振り返ると優君を顔がゆっくりと近づいてきた。

「今度はちゃんと、覚えておくから」
「うん」

 私は、ゆっくりと目を閉じた。

 唇が触れ合った瞬間、胸の奥で音を跳ねた。離れるときに小さく「好き」と告げられた。それは、私が幼い頃から聞きたかった言葉。今、ようやく聞くことができた。

「私も優君が大好き!」





(おしまい)