「犬神が学校に来ないのなんて、今に始まったことじゃないし」
「でもこんなに長く休んでることなかったでしょ?心配してるんじゃないと思って。だから、私が変わりにあなたに会いに来たの」
「はぁ?」

 上げていた口角が一気に「へ」の字に下がった。右目だけを細めて私を見ている。
 その目に、恐怖を感じた。手を何度も握りしめながら、お腹に意識を集中させた。

「犬神君風邪ひいて、ずっと熱が下がらないの。だから連絡も返せななくて。だけど、もう少ししたらきっと、きっと良くなるから」
「なんでアンタにそんなこと言われなきゃならないのよ。アタシらは付き合ってンの。そんなこと知ってるわよ」
「まっ待って!」

 立去ろうとする彼女の手をもう一度掴もうとすると、思い切り振り払われた。

「しつこいわね。そんなんだから犬神に嫌われんのよ!」
「・・・っ」
「だいたい犬神の気持ちも、考えずに許婚って言いふらしといて、今更。フッ犬神も可哀想よね。金に物を言わせる名家の言いなりになって、好きでもない奴のご機嫌をとらなきゃいけないんだから」

 太陽が夏の白い雲に隠れていく。地面が薄暗くなり、私の伸びた影が呑み込まれていく。

「・・・優君がそう言ったの?」
 
 なにが可笑しいのか、笑いをこらえるように口元から息が漏れていた。

「どうして笑っていられるの?あなたは犬神君のことが心配じゃないの?もしかしたら、このまま・・・このまま起きれなくなるかもしれないのにっ!」
「たかが風邪でなに必死になってんの。バカみたい。許婚だって形だけのくせに。犬神を縛り付けてるのはアンタ自身でしょ!?それを勘違いして、私だって犬神のこと・・・!アンタみたいな女が一番ムカつくのよっ」

 彼女の息が上がっていくと同時に手が上がった。叩かれる、そう直感した。でも避けることができない。反射的に目を閉じ、息が止まった――。

「は~い、そこまで!レディーがレディーを叩くなんて良くないよ」
「ク、クリス!?」

 割って入る軽快な声。目を開くと彼女の腕を、クリス君が止めていた。

「クリス君?」
「西条寺サンが黒川先パイを追いかけてくのが見えたからさ~。ちょっと気になって来てみたら、予感的中?」
「離しなさいよっ!」
「おっと」

 その言葉に、パッと手を離すクリス君。
 そのとき、彼女の目尻に溜まった涙に気付いた。息を荒げたまま、校舎の方へ走っていった。小さくなっていく後姿を見ながらクリス君が口を開いた。

「黒川先パイって犬神のこと好きだったんだよ」
「二人は付き合ってるんじゃないの?」
「まさか。何度か犬神に告ってたけど、ちゃんと断ってたよ。まぁ黒川先パイは振られた後も、懲りずにアプローチしてたみたいだけど。犬神は見向きもしなかったし。それに・・・ってこれはオレが、言うことでもないかな」
「・・・?」
「犬神には西条寺サンがいるってこと」

 クリス君はニッコリ笑うと、そのまま校舎を後にした。さっきの騒動に頭がついて行かない。ぼんやりとその背中を見ていると、女の子に声をかけられていた。少しだけ、頬を赤くする女の子は、クリス君の笑顔に更に赤くなっていた。


 小学生のとき、優君を好きだった女の子がいた。だから私はその子に教えてあげた。『優君は私と結婚するからあなたには無理よ』って。
 次の日から、その子は私と口をきいてくれなくなった。『お金で犬神君を買った』と陰で言われるようになった。
 私はそういった点からも、一般からずれているらしい。現に大方の物は、望めばなんでも買ってもらえた。それに、私がお金持ちじゃなかったら、優君との許婚の話もなかったのかもしれない・・・。

 お金で買えるなら買いたい。
 でも、どれほど大金を叩いても、手に入らない物があることを、私は小さい頃から知っている――。