『お空見てたの。お母様に会いたくて近くに行けるかなって思ったけど無理みたい』
『ムリだよそんなの」
『うん・・・。優君、優君はどこにもいったりしないよね?』
『ずっとずっと千保の傍にいてくれる?』
『あっ当たり前だろう!一生一緒にいるよ』
幼い頃の優君の言葉は、私の乾いた心を潤してくれた――。
目を開けると、見慣れたシャンデリアがあった。どうやら書斎のソファで眠っていたらしい。外はもう暗くなっている。体を起こすと、お兄ちゃんの上着が掛かっていた。
部屋から出ようとすると、ゴミ箱に紙屑が捨てられていた。普段この書斎は使っていない。ゴミなんて。クシャクシャに丸められた紙の切れ端から、写真のような物が見えた。
「これ・・・」
紙を広げた。そこには幼い私が犬の姿になった優君を抱きかかえた写真があった。
どうしてゴミ箱に?
皺のついた写真を伸ばした。でも、一度着いた皺は痕になってしまっている。元に戻らない写真を前に、視界が滲みかけた。鼻をすすって、天井を見上げた。
私が優君との許婚を解消することで、優君の選択肢が増えるなら、私は・・・。
□□□
夏の日差しが、アスファルトに強く照り付けていた。ジリジリと鳴く蝉の声が、授業中も窓の向こう側から聞こえてくる。
トイレの水道で、手を洗いながら、鏡を見た。
「よしっ!」
顔を両手でパチンッ挟み、気合を入れる。
そして放課後、一般科の校舎を訪れた。相変わらず一般科の視線には慣れないまま。優君の教室を覗くと、クリス君がすぐに気づいてくれた。
「西条寺サンだ!会いに来てくれるなんて嬉しい~と言いたいところだけど、犬神今日も休みなんだよ。西条寺サンなんか知ってる?」
廊下まで出て来ると、小麦色のような金髪を指でクルクルしながら、退屈そうに見せた。
「優君、体調崩してて・・・風邪をこじらせてるの」
「ええっ!?ウソッ。犬神でも風邪ひくの!?だって日本では、バカは風邪ひかないっていうんでしょう!?」
「も、もうすぐ良くなると思うよ」
「だといいけど~犬神がいないとオレつまんないからさぁ。アレ?犬神がいないって知ってるのに今日はどうしてココに来たの?」
「クリス君に聞きたいことがあって」
「オレに?なになに超気になる!」
ビー玉のように澄んだ、水色の瞳を丸くさせている。
生徒たちが帰宅する時間。廊下の人通りは多かった。辺りを見渡してから、できるだけ小声で伝えた。
「優君の彼女って何組の人か知ってる?」
「ン?」
首を傾けながら私を見ている。二、三回瞬きを繰り返した。
「犬神の彼女?西条寺サンでしょ?」
「違うの。他に仲良くしてた子いるでしょ?多分、三年生だと思うんだけど」
「んぅ~犬神の彼女?そんな子いないと思うよ」
「えっでも・・・」
クリス君は目を閉じて「うぅ~ん」とうなるように考え込んだ。大親友のクリス君なら知っているかと思ったのに。
そのとき、背後から視線を感じた。振り返ると奥の階段に、優君の彼女らしき人影を見つけた。ぶつかった視線はすぐに流されていく。そのまま、人に紛れながら階段を下りて行った。
「あの人だ・・・。クリス君、ありがとう。私行くね」
「えっ?オレはなにもしてないけど?あれ、西条寺サン?」
私は、クリス君にお礼を言うと廊下まで走った。けれど女の人の姿を見失ってしまった。階段を駆け下りて行く。下駄箱や部室へ続く廊下。渡り廊下を進んでいく後姿が目に留まった。
「待って!」
再び走って駆け寄った。
夏服のブラウスから伸びた細くて白い四肢。その手を掴んだ。
「ちょ、誰アンタ?」
目を細めながら、私を軽く睨んでいる。
女子生徒二人組が、私たちの横を通り過ぎていった。立ちふさがっていたせいか、邪魔そうな顔を見せたけど、私が特Aだと気づくと、いそいそとその場から離れて行く。
「私は西条寺千保。あなたがゆう、犬神君の彼女さんですか?」
「さいじょうじ?」
「犬神君の、その幼馴染で。犬神君、最近学校に来てないから、心配しているんじゃないかなって思って」
掴んでいた手を荒々しく振り払われた。私を警戒するように、睨んでいる。
とにかく、誤解のないように、今の犬神君の状況を言える範囲で伝えよう。きっと不安しているはずだから・・・。
そのとき、女の人の強張った顔が歪んだのがわかった。曲がる口元と、なにかを捕らえるような目つき。ふっと息を外に吐き出した。
「あぁ、思い出した。アンタこないだ覗き見してた奴だ」
その言葉に胃の辺りがキリキリと痛み出す。針で刺されるような、ううん。違う。タオルを絞るような、ギュッと捩じれて苦しくなる痛み。


