朝方、車のエンジン音で目が覚めた。
お兄ちゃん、土曜日なのに仕事?
一緒に寝ていた、まめ蔵がベッドから下りた。カーテンを開けると、空はまだ昨日の雨雲を残したままだった。道路にはあちこちに水たまりができている。
優君家に帰ってるかな・・・。
朝食を済ませてから、まめ蔵と犬神動物病院に向かった。余計なお世話かもしれないけど、やっぱり心配だった。それに転入することを、おじ様たちにも伝えないと。
向かう足が速くなっていた。犬神動物病院の看板が見えて来て、胸の鼓動もどんどん大きくなっていく。
「おはようございます」
「やぁ千保ちゃんおはよう」
駐車場でおじ様の姿を見つけた。声をかけると、車のトランクから顔を出した。肩で息をする私に、おじ様は糸目を丸くさせた。
「優君、見つかりましたか?」
「あぁ、朝方帰ってきて今寝てるよ。千保ちゃんにも心配かけたね」
「よかった」
「うーん・・・。帰って来たのは良かったんだけど」
少し寝ぐせのついた髪を、わしゃわしゃとかきながら口ごもっている。湿度が高い空気がどこか気持ちまで重たくさせている。
おじ様の表情に、胸騒ぎがした。
「どうやら犬のままで、夜を明かしたらしくて体調が良くないんだよ」
「えっ?」
「雨に打たれたせいで風邪をひいたらしい。犬のままだから、思うように薬も投与できないし。一旦点滴で様子を診てるけど」
バンッとトランクのドアを閉めると、おじ様ははぁと深いため息を零した。
「妻もこういう日に限って、一昨日からクラス会で愛媛に旅行に行っていてね」
やれやれ、と言いながらおじ様はまた頭をかいた。心配が拭えない様子だった。
抵抗力が下がると、人間に戻るのに時間がかかるって前にお父様が話していた。
「まめ君も気をつけるんだよ」
おじ様はまめ蔵の頭を優しく撫でた。大きく伸びをしながら病院に向かっていく。そうか土曜日でも診察があるんだ。離れて行くおじ様の背中は、疲れが重く乗っているようだった。
『もう話しかけんな。迷惑なんだよ・・・いつまでもつきまとわれるの』
冷たく突き放された言葉が頭をかすめた。
私じゃ、優君の力にはなれないよね・・・。
家に帰ろうと、おじ様に背を向けた。だけど、足が進まない。
「クゥ~ン」
まめ蔵が足元で、か細い声で鳴いている。
でも、優君の秘密を知っているのは私だけ。こんなときだからこそ、私が支えなきゃ。
「おじ様!私が優君の看病します」
「えっでも悪いよ。せっかくの土曜日だし昂君もこっちに戻って来ているんだろう?」
「兄なら朝早く出かけました。おじ様も茜さんもお仕事で大変でしょ?だから私が見ます。やらせてください」
「千保ちゃんはいつも真直ぐだね。本当に優一郎にはもったいないくらいだよ。ありがとう」
おじ様が白髪の混じった眉を下げながら笑った。申し訳なさそうに「頼むね」告げられた。
□□□
「まめはここで待っててね」
「ワンッ」
まめ蔵をドッグランで放してから、優君の部屋に向かった。
部屋に入ると、ベッドの上で蹲るように眠っていた。黒い毛並みが呼吸をするたびに動いている。呼吸をするのが苦しいのか、身体が大きく上下させ舌をだらんと出している。その姿に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
こんなことなら、私も昨日探しに行けばよかった。そしたらもう少し早く、見つけられたかもしれない。
「優君、大丈夫?・・・体、辛いよね」
お昼ごろに薄目を開けてミルクを飲んでいたけど、またすぐに眠ってしまった。一応薬は飲んでくれたけど。思ったより容体が重そう。
日が沈み、院内のお客さんが帰った頃を見計らって私も部屋を出た。
外でまめ蔵をリードでつないでいると、仕事をひと段落させた茜さんが見送りにきてくれた。
「千保ちゃん、今日はありがとう。助かった」
「いえ、これくらい。大したこともできなくて」
「ううん。そんなことないよ。千保ちゃんが傍にいてくれるだけで、優一郎も安心できたと思う」
「そう、ですかね・・・」
茜さんの何気ない言葉が、私の胸をチクリと刺した。昨日の女の人が思い浮かんだ。
「ん?」
「優君が傍にいて欲しい人は私じゃないかなって」
「そんなことないでしょ。二人は許婚なんだし。そもそも優一郎があんな体質で学校に通えるのも、千保ちゃんのおかげだよ。私も優作のときは大変だったな~」
「おじ様のとき?」
「そうそう。まぁ優作の場合は、優一郎ほどコロコロ変わったりしなかったけどね。いつどのタイミングで犬になっちゃうかわからないのは、本人も恐かったんじゃないかな。爆弾抱えて歩いているようなもん
」
「恐くはないよ」
「おじ様」
診察を終えた、おじ様が外へ出てきた。朝会ったときよりも疲れているようだった。
「みんなが助けてくれるから、恐くはなかったよ。例えば、普通の人が事故に遭ってしまうかもしれない、と警戒しながら街を歩くのと同じだよ。・・・絶対ないとも言い切れないけど、遭ってしまったらその場で対処するしかないだろう」
夕焼けに染まっていた建物が、徐々に紫色に変わっていく。
少し汚れた白衣のポケットに手を入れながら話すおじ様は、昔の頃を思い出しているようだった。その目の奥が、じんわりと懐かしさを帯びている。
「体質のせいで、殻に閉じこもってしまったらダメなんだよ。誰かの助けがあるから外へ行ける。誰かの手を借りることは決して弱さではない」
「おじ様」
「優一郎にもそのことに、早く気付いて欲しいんだけどな」
「あの子はまだ子供だし、素直じゃないからねぇ。理解するに当分、時間かかるわよ」
「ハハハ、そうだろうね。だから、よろしくね千保ちゃん」
「えっ、私は」
「千保ちゃんがその手助けになってくれているんだ。ってこれは僕の勝手すぎるかな」
おじ様はハハハと乾いた声で笑った。
私も、できることなら優君にとって、そういった存在になりたかった。
二階にある優君の部屋を見上げると、電気の明かりが漏れていた。その奥には夜空が広がっていた。深まっていく夜の空に、気の早い一番星が見え始めている。
お兄ちゃん、土曜日なのに仕事?
一緒に寝ていた、まめ蔵がベッドから下りた。カーテンを開けると、空はまだ昨日の雨雲を残したままだった。道路にはあちこちに水たまりができている。
優君家に帰ってるかな・・・。
朝食を済ませてから、まめ蔵と犬神動物病院に向かった。余計なお世話かもしれないけど、やっぱり心配だった。それに転入することを、おじ様たちにも伝えないと。
向かう足が速くなっていた。犬神動物病院の看板が見えて来て、胸の鼓動もどんどん大きくなっていく。
「おはようございます」
「やぁ千保ちゃんおはよう」
駐車場でおじ様の姿を見つけた。声をかけると、車のトランクから顔を出した。肩で息をする私に、おじ様は糸目を丸くさせた。
「優君、見つかりましたか?」
「あぁ、朝方帰ってきて今寝てるよ。千保ちゃんにも心配かけたね」
「よかった」
「うーん・・・。帰って来たのは良かったんだけど」
少し寝ぐせのついた髪を、わしゃわしゃとかきながら口ごもっている。湿度が高い空気がどこか気持ちまで重たくさせている。
おじ様の表情に、胸騒ぎがした。
「どうやら犬のままで、夜を明かしたらしくて体調が良くないんだよ」
「えっ?」
「雨に打たれたせいで風邪をひいたらしい。犬のままだから、思うように薬も投与できないし。一旦点滴で様子を診てるけど」
バンッとトランクのドアを閉めると、おじ様ははぁと深いため息を零した。
「妻もこういう日に限って、一昨日からクラス会で愛媛に旅行に行っていてね」
やれやれ、と言いながらおじ様はまた頭をかいた。心配が拭えない様子だった。
抵抗力が下がると、人間に戻るのに時間がかかるって前にお父様が話していた。
「まめ君も気をつけるんだよ」
おじ様はまめ蔵の頭を優しく撫でた。大きく伸びをしながら病院に向かっていく。そうか土曜日でも診察があるんだ。離れて行くおじ様の背中は、疲れが重く乗っているようだった。
『もう話しかけんな。迷惑なんだよ・・・いつまでもつきまとわれるの』
冷たく突き放された言葉が頭をかすめた。
私じゃ、優君の力にはなれないよね・・・。
家に帰ろうと、おじ様に背を向けた。だけど、足が進まない。
「クゥ~ン」
まめ蔵が足元で、か細い声で鳴いている。
でも、優君の秘密を知っているのは私だけ。こんなときだからこそ、私が支えなきゃ。
「おじ様!私が優君の看病します」
「えっでも悪いよ。せっかくの土曜日だし昂君もこっちに戻って来ているんだろう?」
「兄なら朝早く出かけました。おじ様も茜さんもお仕事で大変でしょ?だから私が見ます。やらせてください」
「千保ちゃんはいつも真直ぐだね。本当に優一郎にはもったいないくらいだよ。ありがとう」
おじ様が白髪の混じった眉を下げながら笑った。申し訳なさそうに「頼むね」告げられた。
□□□
「まめはここで待っててね」
「ワンッ」
まめ蔵をドッグランで放してから、優君の部屋に向かった。
部屋に入ると、ベッドの上で蹲るように眠っていた。黒い毛並みが呼吸をするたびに動いている。呼吸をするのが苦しいのか、身体が大きく上下させ舌をだらんと出している。その姿に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
こんなことなら、私も昨日探しに行けばよかった。そしたらもう少し早く、見つけられたかもしれない。
「優君、大丈夫?・・・体、辛いよね」
お昼ごろに薄目を開けてミルクを飲んでいたけど、またすぐに眠ってしまった。一応薬は飲んでくれたけど。思ったより容体が重そう。
日が沈み、院内のお客さんが帰った頃を見計らって私も部屋を出た。
外でまめ蔵をリードでつないでいると、仕事をひと段落させた茜さんが見送りにきてくれた。
「千保ちゃん、今日はありがとう。助かった」
「いえ、これくらい。大したこともできなくて」
「ううん。そんなことないよ。千保ちゃんが傍にいてくれるだけで、優一郎も安心できたと思う」
「そう、ですかね・・・」
茜さんの何気ない言葉が、私の胸をチクリと刺した。昨日の女の人が思い浮かんだ。
「ん?」
「優君が傍にいて欲しい人は私じゃないかなって」
「そんなことないでしょ。二人は許婚なんだし。そもそも優一郎があんな体質で学校に通えるのも、千保ちゃんのおかげだよ。私も優作のときは大変だったな~」
「おじ様のとき?」
「そうそう。まぁ優作の場合は、優一郎ほどコロコロ変わったりしなかったけどね。いつどのタイミングで犬になっちゃうかわからないのは、本人も恐かったんじゃないかな。爆弾抱えて歩いているようなもん
」
「恐くはないよ」
「おじ様」
診察を終えた、おじ様が外へ出てきた。朝会ったときよりも疲れているようだった。
「みんなが助けてくれるから、恐くはなかったよ。例えば、普通の人が事故に遭ってしまうかもしれない、と警戒しながら街を歩くのと同じだよ。・・・絶対ないとも言い切れないけど、遭ってしまったらその場で対処するしかないだろう」
夕焼けに染まっていた建物が、徐々に紫色に変わっていく。
少し汚れた白衣のポケットに手を入れながら話すおじ様は、昔の頃を思い出しているようだった。その目の奥が、じんわりと懐かしさを帯びている。
「体質のせいで、殻に閉じこもってしまったらダメなんだよ。誰かの助けがあるから外へ行ける。誰かの手を借りることは決して弱さではない」
「おじ様」
「優一郎にもそのことに、早く気付いて欲しいんだけどな」
「あの子はまだ子供だし、素直じゃないからねぇ。理解するに当分、時間かかるわよ」
「ハハハ、そうだろうね。だから、よろしくね千保ちゃん」
「えっ、私は」
「千保ちゃんがその手助けになってくれているんだ。ってこれは僕の勝手すぎるかな」
おじ様はハハハと乾いた声で笑った。
私も、できることなら優君にとって、そういった存在になりたかった。
二階にある優君の部屋を見上げると、電気の明かりが漏れていた。その奥には夜空が広がっていた。深まっていく夜の空に、気の早い一番星が見え始めている。


