外は雨が降り出していた。頭痛の波が大きくなっていく。せっかく傘を持って来たのに、教室に忘れてしまった。雨粒が体にあたり跳ねる上がる。
 優君はあの女の人ことが好きだったんだ。大人っぽく見えたけど、先輩かな。今頃はあの人と・・・。

「あれ千保?」

 正面から、お兄ちゃんが歩いて来た。

「お兄ちゃん・・・」
「どうしたんだよ。傘もささずに。ほら」

 ずぶ濡れの私に、持っていた傘に入れてくれた。
 家に着くと部屋に明かりがついていた。リビングからまめ蔵が走って出迎えてくれる。

「ワンワンッ」
「傘持ってかなかったのか?電話したら迎えに行ったのに」
「・・・」
「千保?」

 お兄ちゃんは奥からタオルを、持ってくると私にかぶせた。そのまま濡れている髪を拭いてくれた。そういえば、昔もこんなことあった。
 まめ蔵が私を見上げながら、尻尾を振っている。誰かが傍にいてくれるだけで、こんなにも温かい気持ちになれるんだ・・・。私も、優君にとってそんな存在になりたかったのに。そう思うと、また瞼が熱くなっていく。


 お風呂から上がると、リビングからお兄ちゃんの好きな、クラシックが流れていた。静かなピアノの音は、外の雨音とも馴染んでいた。
 昔お母様が元気だった頃、私とお兄ちゃんに好きなクラシックの話をしてくれていた。私はまだ小さくて、タイトルが覚えられなかったけど、お兄ちゃんは覚えてるだろうな。

「いい曲だね。なんていう曲?」
「ん?あぁこれ?ショパンだよ。前奏曲第十五番変二長調、『雨だれ』お母様が良く聞いていた曲だよ」
「うん。聞いていた、なんとなく覚えてる」
「お兄ちゃん・・・。お兄ちゃんの言う通りだったよ」

 お兄ちゃんは、口に運びかけたコーヒーを途中で止めた。

「私九月から向こうの中等部に通うよ。パンフレットも見て、すごく良さそうだなって思った」
「本当!?よかったー!千保は時々、強情なところがあるから心配していたんだよ」
「色々ありがとう」
「本当に良かった。さっそくお父様にも連絡しとかないと!」
「お兄ちゃんはいつ帰るの?」
「まだ仕事がいくつか残ってるから、二週間以内には帰る予定だよ。そうだ!千保もそのときに一緒に行こうか!向こうの学校見学しといた方がいいだろう」

 お兄ちゃんの弾む声と微笑み。これで良かったと言い聞かせた。
 外は相変わらず雨が降っているようだった。 

□□□

 お兄ちゃんが作ってくれた料理を食べ終えて、食後のハーブティを飲んでいた。カモミールの香りが部屋に広がって、気持ちも少しだけ落ち着いてきた。
 もう一度、学校のパンフレットに目を通した。カリキュラムや設備などレベルの高い環境だった。レミがあれほど言っていたのも納得だった。
 お兄ちゃんが、お父様と話を終えると部屋に戻って来た。アレキサンドリアはずっとお兄ちゃんの部屋にいて、こちらのリビングにはやってこなかった。

「お父様も少し驚いてはいたけど喜んでいたよ。楽しみにしてるって」

 テーブルの淵に置いていたスマホが振動していた。ディスプレイに茜さんの名前が表示されていた。
 こんな時間にどうしたんだろう?

「はい。もしもし茜さん?」
『あっ千保ちゃん?ごめんねこんな遅い時間に』
「大丈夫ですよ。まだ起きてる時間なので」
『本当にゴメンね。千保ちゃんはもう家だよね?優一郎どこ行ったか知らない?』

 優君の名前に胸がズキンと痛みを覚えた。まだあの女の人と一緒にいるのかもしれない。『知らない』そう答えようとすると、茜さんの心配そうな声が向こう側で続いた。

『あの子、学校から帰ってきたら犬になってて。今、様子を見に部屋を覗いたらいないのよ。みんなで手分けして探してるんだけど見つからなくて』
「えっ!?優君そのまま出て行ったんですか?」

 思わずその場で立ち上がっていた。

『部屋にはいないみたいだから多分。千保ちゃん家に行ったりしてない?心当たりとかもないかな』
「私の家には来てないです・・・」
『そっか、そうだよね。ったくもうどこ行ったのよ。ゴメンね、もう一度探してみるから』
「私も探すの手伝いましょうか?」
『こんな時間に危ないから大丈夫よ!雨降ってるし私たちだけで探すわ。もし居場所がわかったら連絡頂戴』
「はい・・・もちろんです」

 茜さんからの電話が切れた。窓から外を見ると雨粒が窓に流れている。雨脚は次第に強まっていた。

「優一郎がどうかしたの?」
「犬になったままどこか行っちゃたって。お兄ちゃんさっきこの辺り歩いてたけど、優君みかけたりしなかった?」
「さぁ?見てないよ。・・・遊びにでも行ったんじゃない?僕も中学時代は、これくらいの時間まで遊んでたよ」
「でも犬のまま出かけたことなんてなかった」

 語尾が強くなっていた。優君に電話をかけようか迷ったけど、かけることができなかった。もし私からの電話を出られるくらいなら、とっくに茜さんに繋がってるはず・・・。

「疲れたから、もう寝るね」
「うん。それがいいよ。おやすみ」

 まめ蔵を抱きかかえ二階に上がった。真っ暗な部屋の中、でまめ蔵とベッドに倒れ込んだ。ふわふわの羽毛布団が体を優しく包み込んでくれる。窓の外から止まない雨音が聞こえてくる。瞼を閉じても、今日のことを思い出して中々寝つけなかった。