帰るの遅くなっちゃった。
 レナにハーフアップのヘアアレンジ講座してもらってたら、あっという間。でも可愛いアレンジ教えて貰えたし、今度優君とデートする時に実戦してみよう。

「あれ?」

 門扉を開けると、まめ蔵の鳴き声が聞こえた。
荷物を置いてから、むかえに行くつもりだったのに。なんで?それに、部屋の明かりもついている。
 玄関の前にくると、クラシック音楽が聞こえてくる。昔よく聞いていたショパンの『子犬のワルツ』だ。
 もしかして・・・。半信半疑でドアノブを回した。玄関には男物の革靴が揃えて置いてある。

「やっと帰って来たか~お帰り、千保」

 陽気な音楽の中、リビングからお兄ちゃんが顔を出した。

「お兄ちゃん!?」
「久しぶりだね」
「どっどうして!?いつ帰って来たの?」
「今朝、羽田に到着したんだよ」
「帰って来るなら、教えてくれればいいのに」
「千保を驚かせたかったのさ。それに急に決まったからね」

 リビングに入ると、すでに夕食の準備ができていた。テーブルに並ぶ料理は、どれも私の好きな物ばかり。お兄ちゃんに背中を押されながら席についた。

「すごい。全部お兄ちゃんが用意したの?」
「そうだよ。久しぶりだから、兄妹水入らずで過ごしたいと思ってね」

 お兄ちゃんに会うのは一年ぶりくらい。本当は入学式に、来てくれるはずだった。だけど大学の研究が忙しくて来られなかったみたい。

「ウワァン!」
「アレキサンドリア!?大きくなったね」
「正確にはアレキサンドリアⅡだよ。それにしても、千保が元気そうでよかった。一人暮らしは慣れた?」
「うん。お手伝いさんもまめ蔵もいるから。犬神のおば様やおじ様も、気にかけてくれるの」
「へぇ。・・・あっそうだ、前に千保が美味しいっていってた、ビネガーをお土産に買ってきたんだった。少し待ってて」
「本当?ありがとう」

 お兄ちゃんがキッチンに向かうと、まめ蔵もしっぽを振ってキッチンに入って行った。
 いつもは私にべったりなのに。なんだか複雑。アレキサンドリアは姿勢を正しくして、そのまま待っていた。

「相変わらず動物に好かれるよね、お兄ちゃん」
「そう?普通だよ」
「そんなことないよ。まめ蔵いつも私に甘えて来るのに、今日は全然だもん」
「久しぶりだからかなぁ」
「昔、飼ってたアレキサンドリアも、お兄ちゃんにすっごく懐いてたよね。なんかコツとかあるの?」
「ハッハハないよそんなの。まぁ、しいて言うなら、あまり干渉しないことかな」
「干渉?」
「弱みを見せないってことさ。・・・特に、主従関係が強い動物にはね。はい。どうぞ」
「うわぁ!良い匂い。ありがとう」

 お兄ちゃんが炭酸水で割ったベリーのビネガーをグラスに注いでくれた。お互いのグラスを合わせると、カランと音を立てた。

「それじゃ、乾杯」
「乾杯!」

 私のお兄ちゃんは完璧だ。実の兄ながらそう思う。
 勉強はもちろん、スポーツもできる。おまけに涼やかな顔は、グローバルに人気だった。彼女は欠かしてないように思う。お父様からも、一目置かれていて、将来はお兄ちゃんが西条寺家を継ぐことになっているらしい。

「うん!美味しい」
「だろ?今度違う味も買ってくるよ」
「嬉しい。楽しみだな」

 私のことも、過保護すぎるくらい面倒を見てくれる。そう、自慢の兄――。でもたまに、その笑顔は本物じゃないときがある。きっとそれは、完璧であるお兄ちゃんすら、気づいていない。妹の私だから知ってること。

 グラスの中で、薄ピンク色の気泡がパチパチと弾けていく。

「お父様は元気?」
「うん。多分ね。今ドイツに行ってるから、僕もあまり会っていないんだ」
「あれ今はドイツにいるのね。お兄ちゃん大学は楽しい?」
「あぁ。とっても楽しいよ。周りも優秀な連中ばかりだから、お互い刺激にもなる」
「そういえば、今回はどうして日本に来たの?お父様の仕事の関係?」
「ううん。千保に相談があって」
「えっお兄ちゃんが私に相談?」

 思わず手が止った。そのとき、前に座るお兄ちゃんが料理に手をつけていないことに気がついた。ちぎったパンをお皿に置いて、背筋を伸ばした。

 今までお兄ちゃんから、相談を受けたことは一度もない。周りを頼らなくても、自分で解決できてしまう人だから。そのお兄ちゃんがわざわざ日本に来て相談ってなんだろう・・・。

「九月からアメリカで一緒に暮らそう」
「・・・えっ?」

 レコードから流れてくる音楽は、クレシェンドを繰り返し最高潮に盛り上がっている。それなのに、急にその音が遠ざかって行く――。優君の顔が頭を過った。