「ん?どうしたの?僕のこと忘れちゃった?」

 俺の首根っこを掴まれた。必死で手足をバタつかせるが、気にする素振りもない。

「あっそっか!犬なると喋れないのかアッハハ忘れてたよ。まぁ丁度いいや。アレキサンドリア、カバンを」
「ワンッ!!」
「ん、ありがとう。賢いだろう?アレキサンドリアは。君なんかよりよっぽど利口で良く働く」

 昂は犬が持ってきたカバンを、ワンタッチで開けた。中には医療用具がたくさん入っている。
 その中から、注射器を取り出した。本能的に逃げようとするが、昂に乱暴に掴まれた。

「あー暴れないでよ、面倒だな」
「ギャッァァン」

 体ごと布のよう袋に入れられた。アルコールの様な薬品の匂い。
 腕に走る痛みが、次第に鈍くなっていく。
 痛ぇ・・・。目の前が霞んでいき、俺は意識を手離した。

□□□

 目が覚めると、見慣れない天井とシャンデリアがあった。
 シャンデリア?
 体を起こすと、体に酷い倦怠感がまとわりついた。

「人間に戻ってる?」
「やっと起きた。中々目を覚まさないから、叩き起こそうかと思ったけど。その手間ははぶけたか」

 目覚めは最悪だった。

「あのまま道端に置いといてもよかったんだけど。そんなことしたら千保が悲しむだろ?親父も煩いしさ~」
「・・・」
「ところで千保は?家にいないみたいなんだけど」
「学校だろう」
「あぁ学校か。せっかく兄の帰省を驚かせようと思ったのに」

 西条寺昂、千保の実の兄。今はアメリカの医大に通ってる。あの変態父親の手伝いをしてるって聞いてたけど・・・。

「いつ戻って来たんだよ」
「君に関係ないだろ」
「あっそうかよ」

 ソファから立ち上がると、一瞬視界がぐらついた。プリンの上に立ってるみたいに足元が不安定だった。さっきの薬品の匂いが服に染みついている。
 昂は部屋に置いてある写真を眺めていた。その足元には、俺に飛びついたアレキサンドリアもいる。

「相変わらず愛想がないなぁ~尻尾でも振って媚びたらどうだい?」
「生憎そんな趣味はない」

 手に持っていた写真立てを静かに置くと、俺の方を向いた。

「今回は、千保向かえに来たんだよ」
「・・・向かえに来?」
「そうだよ。九月から千保は、僕が通う大学の付属の中等部に編入してもらうことにした」
「はぁ?そんな話聞いてねーけど。・・・だいたいアンタが通ってる大学ってアメリカだろ?」
「他人の君には関係ないよ」

 自分から話し始めたくせに。なんなんだよこいつは。
 手に取ったアルバムを一枚ずつめくっている。乾いた紙の音が、静かな部屋に響いた。

「父は君らの一族の生態に、ずいぶん興味があるようだけど。僕はさして興味はない。わかっていると思うけど、許婚の話だって親同士が勝手に決めていることだ。・・・鵜呑みにするなよ」

 数ページを破り取ると、クシャクシャに丸めた。昂の手の中で小さくなっていく紙屑。

「何度も言ってるけど、犬風情の君が、僕の大切な妹と一緒になるなんて。考えただけで反吐がでるよ」

 昂はそれをゴミ箱に放り込むと部屋から出て行った。
 アレキサンドリアも主人従う様に後をついて行く。

 押し潰される倦怠感に、またソファに体を預けた。動かない体の中で、シャンデリアのガラス細工を一つ一つを数えて、頭が明瞭になっているかを確かめた。
 昂の声が鈍く響く・・・。

「チッ・・・」

□□□

「あっそっちに行っちゃだめだよ!アレキサンドリア―!」

 初めて千保に会ったあの日――。
 アレキサンドリアを追いかけて、昂が部屋に入って来た。

「こら昂、あれほど注意しなさいと言っただろう。今は大事なお客様が来ているんだ」
「まぁまぁいいよ、西条寺君。昂君も久しぶりだね」
「ごめんなさい、お父様。はい!お久しぶりです。犬神おじ様」
「相変わらず礼儀正しいな昂君は」

 千保が俺に微笑む隣で、軽蔑するように見下ろしていた。
 その目を本能的に知っている。人間は自分以外と少し違うだけで嫌悪感を持つ。それが、今まで生きていくために必要な感情だとするなら、昂のそれは備わっていた本能で、千保の反応の方がおかしいのだろう。

 大人になったら結婚するのだと聞かされた。正直よくわからなかった。当然だよな。今の世の中、小学生の子供に、将来結婚する相手を紹介する親がどこにいる。

「お母様!千保、優君のお嫁さんになるんだよ!千保ね、ワンちゃん大好きだから、優君のお嫁さんになれるのとっても楽しみ」
「千保ったらそんなに走って、優一郎君が驚いてるじゃない。ごめんなさいね」

 ベッドで眠っていた呉羽さんに、千保が嬉しそうに紹介していた。

「それからその言い方はダメよ千保。優一郎君は犬じゃないんだから。アレキサンドリアと違うのよ」
「うん?」
「優一郎君の痛みや、悲しみも理解できないと、お嫁さんにはしてもらえないわ」
「うんっ!優君もこっちに来て」

 ドアの前で立ち止まっていると、千保に手を引かれた。

「君が優一郎君?初めまして」
「は、初めまして。犬神優一郎です」
「優しそうな子で良かったわ。千保をよろしくね」

 ベッドの中から細い腕が出てきた。体が強張り、反射的に目を閉じた。
 けどその手が俺の頭を優しくなでた・・・。身内以外の大人に触れられたのは、多分初めてだった。
 呉羽さんの手のぬくもりを、今でもよく覚えてる。病気のせいで、細くて骨がコツコツ当たったけど、やわらかくてとても温かかった。



 それから一年と数か月後に、呉羽さんは亡くなった。呉羽さんの葬儀の後、登校して来るはずの千保が学校に来ていなかった。
 帰りに家に行こう千保の家に向かっていたときだった。公園からまめ蔵の声が聞こえてきた。まめ蔵を拾ったあの公園で。

「千保・・・?」

 気がついたら走っていた。滑り台の上に千保の姿を見つけたから。

「ワンッワンッ!」
「千保!何やってんだよ」
「優君?」

 滑り台から降りて来ると、千保はいつものように笑っていた。

「お空見てたの。お母様に会いたくて。近くに行けるかなって思ったけど無理みたい」
「・・・当たり前だよ、そんなの」
「うん・・・。優君、優君はどこにもいったりしないよね?」

 目いっぱいに涙をため込んでいる千保の顔に驚いた。通夜も葬式も泣いてなかったから。
 千保が瞬きをすると、丸い目から溜まった涙が溢れていた。白い頬に涙が流れていて、それを止めたくて、でもどうしたら止まるかわからなかった。

「ずっとずっと千保の傍にいてくれる?」
「あっ当たり前だろう!一生一緒にいるよ」
「ほんと?」
「本当だって!だから泣くなって」

 袖で千保の涙と鼻水を拭きながら、小さく何度も頷いた。

 今思い返しても、千保が泣くのを見たのはあのときだけ。
 だから、その姿を見て決めたんだ。呉羽さんの変わりに俺が護るって――。

□□□

 ソファから立ち上がると、外は日が傾きかけていた。家に人の気配はない。
 昂の奴・・・。なにしやがった。腕には注射針の後が残っている。
 棚に飾ってある写真に目が留まった。千保が選んだ写真が飾られていた。呉羽さんと、四人の家族写真も置いてある。その写真の呉羽さんの耳に、千保が失くしたイヤリングが付いていた。

『きっとこの先も、優君以上の人はいないなって気づいちゃったの』

 違う。むしろそれは――。これから先、千保はもっとたくさんの人に出会って、色々な経験をして、俺ではない普通の誰かを好きになって欲しい。

 この血を受け継ぐ奴なんていらない。それが、俺が出来る唯一の千保を護ることだ。