俺たち一族の体質は、昔は狼男の逸話にされていた。だけど科学の進歩で世間の興味も薄れ、今はひっそりと暮らせるようになった。
 現代において、俺たちのような体質を持った人間が、世界にどれほどいるのかはわからない。
 自分たちから口外しない限りは、これから先も、細々と暮らして生きていけるはずだった――。


「また新しい薬?俺もうヤダ。苦いし不味いし、ちっとも治らないし」
「優、そんなこと言わずに飲んじゃって。お父さんだって薬を飲んで、今の生活が送れてるのよ。優だって犬なっちゃうの困るでしょう?」

 それが親父のせいで崩された。

「優一郎まだ食事終わってないのか?」

 食事と一緒に出てきた、どろどろの液体薬を睨みつけていると、親父がやってきた。珍しくネクタイを締めている。

「今日は西条寺君のところに行くって話しておいただろう」
「えっ今戻ってきてるの?」
「一週間ほどいるらしい。娘さんと優一郎を会わせたいって」
「もぉ、そういう話は前もってしておいてよ!あなたっていつも呑気なんだから。着ていく服あったかしら」

 初めて千保に会ったのは、俺が五歳になる春。動きにくいスーツと、首輪みたいな蝶ネクタで、俺の機嫌は最悪だった。

 以前から親父はよく西条寺の名を口にしていた。俺たちの体質を秘密にしてくれていること。おまけに、薬を無償で提供してくれている・・・。ガキなりに不思議でならなかった。
 そのことを親父に聞いてみたが答えはいつも一緒。『西条寺鉄之進は、異常なまでの変態だから』


「さいじょうじちほです。よろしくお願いします」

 小さくて、ふわふわな服。黒目の大きい丸い目で俺を覗いた。犬のぬいぐるみを抱えながら、変態親父の後ろに隠れていた。

「ねぇねぇ犬になっちゃうの?」
「は?」

 親父同士で雑談が始まると、千保が俺の傍まできて小声で聞いてきた。

「あっそっちに行っちゃだめだよ!アレキサンドリア―!」
「ワンワンッ」

 ドアの向こう側から、子供の声と犬の鳴き声がした。振り返ると、自分よりでかいゴールデンレトリバーが目の前にいた。

「ワンワンッ」

 その日、俺は初めて他人の前で犬になった。

「おお!優作君!これは見事だ!!」
「まぁ僕の息子だからね。こうなるよ」
「むむ、しかしながら薬の効果はまだ見られないな」

 クソッ・・・!初対面の奴にこんな醜態をさらすなんて。親父の奴っ!

「大丈夫?」

 体が床から離れると千保の顔が、さっきより近くにあった。千保の強張っていた顔が、俺を見て柔らかくなっている。

「かわいいー」

 身内ですら軽蔑するこの体質に、話を聞いただけで理解するなんて、簡単にはできない。それは俺がよくわかってる。
 抱き寄せられた腕には、差別や恐怖がなかった――。


□□□


「待て、優一郎。学校行く前に脈拍を測るんだぞ」
「面倒くせぇ。遅刻するから先に行く」
「こら優一郎!」
「帰ったら測ればいいんだろう」

 ドアに力を込めて閉めた。

「はぁ。イライラするな」

 なんであんな体質の親父が、よりにもよって動物病院なんて開業したの今でも疑問だ。薬のおかげで、犬化しなくなったらしいけど。また、いつなるかなんて誰にも分らない。

「クソッ」

 玄関の前で時間を確認した。いつもこの時間になると来る千保が、今日はいなかった。
 イヤリングなくして落ち込んでたからな・・・。まだ時間あるし、家に行って見るか。
 止めていた足を千保の家に向けた。

 プッププーと背後からクラクションの音。体を歩道に寄せる。プップッと更にクラクションが小刻みになった。これだけ幅が開けりゃ通れるだろ、だいたい歩行者優先だろうが。プップープップー

「チッなんだよ」

 振り返ると目の前にベージュ色の大型犬が、俺に飛び掛かってきた。

「ワンッワン」
「うわぁっ!」
「あ~そっちに行っちゃだめだよ。アレキサンドリア―」

 やばい。このままじゃ・・・!
 体を庇うようにして、道路に転がったが、遅かった。毛むくじゃらの犬の感触――。

 犬になっていく中で、アレキサンドリアという名前を思い出した。
 体がぐにゃりと変わり、口から飛び出す牙、腕から毛が伸びる。俺は、一生このままなのかよ。

「なーんだ親父が好調とか言うから来てみたら。まだ全然治ってないじゃないか」

 大型犬に顔を長い舌で舐めまわされる。
 頭痛ぇ・・・。なんだこのでかい犬は。
 背後から人間が近づいてくる気配。頭上に影が伸びてきた。

「相変わらず、無様な姿だね。優一郎」

 ――あぁそうだ、この嫌味な声と、数秒で人の神経を逆なでする物言い。 
 昂(コウ)だ・・・。
 狐みたいに、ずる賢い笑い。その不気味な顔と、軽蔑するような目が、俺は昔から苦手だった。

 いやこの男も、絶対に俺のことを好んではいない。