わたしは震える指先をそっと離し、彼を見上げた。

夜風が髪を揺らし、頬に冷たく触れる。

けれど、それ以上に冷たいのは、彼の沈黙だった。

「……どうして、わたしたちが婚約するなんて話になったの?」

言葉にするまでに、喉の奥が何度もつかえた。

凛斗はポケットに手を突っ込み、視線を夜空へ逸らす。

その横顔は、どこか遠くを見ているようで、わたしの問いかけが届いていないようだった。

「……街のためだ」

低く、重い声。

まるで自分自身に言い聞かせるような響きだった。

「お前の家と俺の家。両方が手を組めば、この腐った街の抗争を止められる。
だから“政略結婚”なんて古臭い手が使われた」

彼の言葉が夜の静けさに溶けていく。

わたしの胸がざわついた。


抗争。街。家。そんな言葉の中に、わたし自身の意思はどこにもなかった。

「そんな理由で……わたしはあなたの隣に立つの?」
声が震えた。

凛斗の目が、わずかに揺れた。

その揺れは、ほんの一瞬。すぐに彼はわざと冷たく笑う。

「勘違いするなよ。俺は最初から反対だ。
お前は巻き込まれるべきじゃない。
こんな危険な街も、俺みたいな人間も
……関わらない方がいい」

吐き捨てるような言葉。

けれど、その横顔は苦しそうだった。

わたしは知っている。
彼が嘘をつくとき、眉間に深く皺が寄ることを。

「じゃあ、さっきのは何?
“お前だけは俺の隣にいてほしい”って……」

あの言葉は、幻だったの?
それとも、ほんの一瞬、彼の本音が零れたの?


息を呑む沈黙。

凛斗はその場に立ち尽くし、拳を握りしめた。

やがて、彼は苦い顔をして頭をかきむしる。

「……ああ、クソ。
本当は誰よりも、俺が一番……お前を離したくねえんだ」

その声は、さっきまでの冷たさとは違っていた。

滲むような、痛みを抱えた声。

わたしは一歩、彼に近づいた。

夜空の下、ふたりの影が重なる。

「だったら、わたしの手を、もう一度握って。
理由なんて、どうでもいい。
わたしは……あなたの隣にいたい」
凛斗は目を見開き、そして、ゆっくりと視線を落とした。

わたしの手に、彼の手が重なる。
その温度は、「オオカミ」の温度かもしれない。