湯気に包まれた浴室に入る。
体の冷えはゆっくりと溶けていくのに、胸の奥の痛みだけはどうしても消えてくれなかった。

――悠真。

彼と過ごした時間は確かに幸せだった。
あの笑顔も、優しい声も、全部が大切な思い出だ。
なのに今、こうして救われているのは晴人の腕の中で。
どうして、心はこんなに揺れてしまうんだろう。

悠真は今、1人で何をしているのだろうか。
こんな時でも、彼の心配をしてしまう私はどうしようもない馬鹿なのかもしれない。

熱いお湯に浸かりながら、私は声にならない問いを何度も繰り返した。

それと同時に、助けに来てくれた晴人を思い出す。彼が隣にいる。ただそれだけなのに。

「――こんなに、救われるんだ」
体だけでなく心まで温められていることに気づいた。

______________________


一方その頃、リビングにひとり残された晴人は、ソファに腰を下ろしたまま俯いていた。
濡れたシャツに残る涙の跡を見つめ、拳をぎゅっと握りしめる。

――守るために離れたのに。
結局、彼女をあんなに傷つけてしまった。

彼女に何があったのか、それはもう明確だった。
誰に殴られていたのかは別として。

自分の選択が正しかったのか。
本当にあの日別れたことが最善だったのか。
その問いが、心の奥を鋭く突き刺していく。

「……俺は、何してんだよ」
低く吐き出した声は、虚しく部屋に溶けていった。

______________________

浴室の扉を開けると、ほわっと温かな空気が広がった。
パジャマ代わりに晴人が貸してくれたスウェットは少し大きくて、袖に手がすっぽり隠れる。

リビングに戻ると、晴人はカップに湯気の立つ飲み物を注いでいた。
「……温まったか?」
振り返った彼の声は、いつもよりずっと優しかった。

「うん……ありがとう」
受け取ったマグカップから広がる甘い香りに、心までじんわりと解かされていく。

それでも。
言葉にならない想いと罪悪感が、まだ胸の奥に残っていた。

私はマグを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。

彼は何も聞かずに手当してくれた。
優しく触れる手が、私を見る目が、辛かった。

「……ごめんね」

その一言に、晴人の表情がわずかに揺れる。

「ひなが謝ることなんて、何もないよ」
彼の声は震えていて、どこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。

静かな部屋に、ふたりの呼吸だけが響いていた。

やがて、晴人が小さく息をつき、口を開いた。

「……話していいか?」

ひなが頷くと、彼は視線を落としながらゆっくり言葉を紡ぐ。

「別れてよかったんだ、って、俺もずっと思い込もうとしてた。……でも、今となっては正解だったのか、わからない」

胸が締めつけられる。ひなは言葉を飲み込み、ただ彼の声に耳を傾ける。

「父さんが……最低なやつでさ。あの頃、お金を要求されてて。ひなを巻き込むんじゃないかと思って、俺、離れたんだ。それで守った気になってた。……でも、違ったのかもしれないな」

震える声に、ひなの胸が痛む。

「隣にいるからこそ、守れたのかもしれない」

言葉にされて初めて、彼の心の葛藤と苦しみが伝わる。

ひなは言葉を詰まらせ、目に涙を浮かべた。
「……そんなこと、知らなかった……私、なんで何も気づけなかったんだろう……」
胸がぎゅっと痛む。自分が無力で、晴人を助けられなかったことを責める。

「……ひな」
晴人は手を伸ばし、そっとひなの肩に触れる。
「責めるな。ひなは何も悪くない。俺が勝手に背負ってただけだ」

晴人は肩をすっと引き寄せるわけでもなく、そっと距離を保ちながら、でも確かに隣にいる。
その存在だけで、ひなの心は少しずつほどけていく。

「怖かったんだろ」
「……うん」

ひなが頷くと、晴人は軽く息を吐いた。
「もう、ここにいるからな。安心して」

沈黙の中、雨音も街灯も遠く感じられ、二人だけの世界がそこにあった。

懐かしさと安心感――
確かに「守られている」という感覚が、胸の奥にじんわりと広がった。

そしてひなは、今のこの瞬間だけは、過去も未来も忘れて、ただ隣にいる彼の存在に身を預けた。

ふと視線を上げると、テレビ台の上には二人で写った写真が並んでいた。
隣には、あの日の花火の写真も飾られている。

ずっと守られていたんだ。

――あの日も、今も。
私はまた、彼に救われている。

ひなはそっと手を伸ばし、晴人の手を握った。
指先が絡み合い、自然と肩を彼の胸に預ける。
その瞬間、長い間抱えていた不安や痛みが少しずつ解けていくのを感じた。

また、この温もりに触れる日がくるなんて。
胸の奥がじんわりと熱くなり、涙がこぼれそうになる。

「……離さないで」
かすかな声に、晴人は軽く頷き、そっとひなの手を握り返す。

「側にいるから。眠っていいよ」

その言葉を聞いて、晴人の肩にもたれかかり目を閉じた。雨の冷たさも、胸の奥のざわつきも、すべて遠くへ溶けていった。
自然と呼吸が落ち着き、心も体も委ねるように力を抜いた。

世界が柔らかく包まれ、ひなはまるで子どものように安心して眠りに落ちていった。

もう一度、守られている――
その感覚が、ひなの胸に優しく、確かに残った。