差し出された傘。
ざあざあと降りしきる雨音が、あの日の記憶を呼び起こす。
――同じだ。出会った、あの日と。
彼は今でも迷わず、私を守ってくれる。
世界で一番欲しかった温もりに、私はもう堪えきれず、声を震わせた。
「……はると……」
震える声で名前を呼んだ瞬間、彼は迷わず私を抱きしめた。
強く、でも壊れものに触れるように優しく。
「大丈夫だ。俺がいる」
耳元で響く低い声に、張りつめていた心が一気にほどけていく。
雨も、痛みも、恐怖も、すべて彼の温もりに溶けて消えていった。
晴人の胸に顔をうずめた途端、堪えていた涙が一気に溢れた。
声にならない嗚咽が、彼のシャツを濡らしていく。
それでも晴人は何も言わず、ただ背中を優しく撫で続けてくれた。
時間が止まったような沈黙の中、私は泣いて、泣いて、泣き疲れて。
ようやく、震える声で口を開いた。
「……怖かった……」
「もう大丈夫。‥‥‥もう大丈夫だから――」
晴人は、ただ、ひなを優しく抱きしめてくれた。
その言葉が、何度も、頭の中を駆け巡っていた。
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晴人の家に着いた頃には、もう外はすっかり暗くなっていた。
街灯の光に照らされる彼の背中を追いながら、私は少し緊張していた。
「……ごめんな。急に連れてきて」
鍵を差し込みながら、晴人が小さな声で言った。
「ううん。……ありがとう」
そう返すと、彼はドアを開け、私を中へと招き入れる。
温かい空気と、どこか懐かしい匂いが漂う。
決して広くはない部屋なのに、不思議と落ち着いた。
「ここ……晴人の部屋?」
思わず尋ねると、彼は気まずそうに頷いた。
「……散らかってるけど」
そう言って、慌ててテーブルの上の雑誌を端に寄せる。
その姿が少し可愛くて、思わず笑ってしまった。
「笑うなよ」
頬を赤くした晴人が、私を軽く睨む。
けれどその表情も、なんだか優しくて――。
胸がぎゅっと熱くなる。
「……ひな」
名前を呼んだ晴人は、しばらく迷うように私を見つめてから、ふっと息を吐いた。
そして、タオルを差し出す。
「今、風呂沸かしてくる。……体、冷えてるだろ」
「え……でも」
「いいから」
有無を言わせぬ口調に、私は素直にタオルを受け取った。
タオルの温もりが、じんわりと指先から胸に広がっていく。
ずっと欲しかった安心が、こんな形で差し出されるなんて。
思わず涙がこみ上げそうになる。
晴人は浴室へ向かいながら、背中越しに言った。
「……風邪ひくぞ。ちゃんと温まってこい」
その言葉が、雨に打たれた体だけじゃなく、冷えきっていた心まで包んでいく。
私は小さく頷きながら、タオルを強く抱きしめた。
――あの日と同じだ。
私はまた、彼に救われている。
でも。
晴人が自分から私を手放したことも、悠真を選んでしまったことも、消えるわけじゃない。
胸の奥で絡まる痛みと罪悪感が、まだほどけずに残っていた。
それでも。
彼の部屋に満ちる匂いと気配が、懐かしくて、心地よくて――。
私はタオルに顔を埋め、震える息をひとつ吐いた。
晴人が浴室に消えたあと、部屋には静寂が広がった。
タオルを抱えたまま、私は立ち尽くす。
――こんなふうに守られるのは、ずるいよね。
胸が痛い。
それでも、温もりを拒むことなんてできなかった。
「……ひな」
不意に呼ばれて顔を上げると、浴室の前に立つ晴人がこちらを見ていた。
その表情は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「……ごめん」
彼は低い声で呟いた。
言葉を切り、拳を強く握りしめる。
その震えに、彼自身の怒りと悔しさが滲んでいた。
私は首を横に振った。
「……違うの。晴人のせいじゃないよ」
そう言いながらも、涙がにじんだ。
晴人と別れて、悠真と出会った。
悠真を想って、愛されて、笑い合った日々が確かにそこにはあった。
全部無駄なんかじゃない。
晴人は一歩近づき、目を逸らしながら言った。
「……風呂、沸いたから。温まってこい」
私は小さく頷き、タオルを胸に抱いたまま浴室へ向かった。
その背中に――彼の視線が、ずっと注がれているのを感じながら。

