夕暮れの公園。
ベンチに腰掛けながら、ひなは空を仰いでいた。

――帰らなきゃ。
アパートには悠真が待っている。遅くなれば、またきっと怒らせてしまう。

わかっているのに、足が動かない。
重く沈む胸を抱えたまま、ただ夕焼けを眺めていた。

「帰りたくない」
初めて、そんな気持ちを自覚した。
愛されるほどに息苦しい現実から、ほんの少しでも逃げ出したかった。

そのとき。

「……ひな?」

振り向いた先に、立っていたのは晴人だった。
驚きに目を見開いたひなに、晴人もまた言葉を失う。

彼は、迷い込むように視線を逸らした。
もう会わないと、あの日自分から別れを告げたはずだった。
なのに――気づけば足が、いつも二人で過ごした公園の前を通ってしまう。

願わくば、もう一度だけ。
あの笑顔を見られたなら。

その思いを振り払うことができずに、晴人はここにいた。

沈黙を破ったのは、か細いひなの声だった。
「……どうして、ここに……?」

答えられない。
ただ、目の前の彼女が泣き出しそうな顔をしていることだけが、胸を締めつけた。

晴人はそっと隣に歩み寄り、ベンチに腰を下ろす。
「……元気そうじゃないな」
掠れる声でそう言った彼の横顔に、ひなの心が大きく揺らいだ。

隣に腰かけた晴人の存在が、ひなの胸をざわつかせる。
声をかけられただけなのに、張り詰めていた糸が今にも切れそうだった。

――元気なはずない。
でも、それを口にしてしまったら、もう戻れなくなる気がして。

「……そんなこと、ないよ」
笑おうとしたけれど、頬が引きつってしまう。

晴人は目を細め、少しだけ息を吐いた。
「嘘つくとき、ひなはすぐ顔に出る」
かつて、何度も笑い合いながら言われたことを、今も覚えていた。

その言葉が胸に刺さって、堪えていた感情が込み上げてくる。
――誰かに気づいてほしかった。
――誰かに「大丈夫じゃない」って言いたかった。

「……晴人、私……」
震える声が、喉の奥から零れた。
言ってはいけないとわかっているのに、涙と一緒に言葉があふれそうになる。

けれど、そこまでで止まった。
悠真の顔が脳裏に浮かび、胸を掴まれたように息が詰まる。

晴人は無理に続きを促さなかった。
ただ静かに、隣に座っているだけ。
その優しさが、余計に苦しかった。

――私、どうしたらいいの?

ひなは俯いたまま、揺れる影の中で唇を噛みしめていた。

別れたあの日。晴人の嘘には気がついていた。
好きな人ができたのではない。別れざるを得なかった事情が、彼にはきっとあったんだ。だから、惜しくなるくらい輝いた自分でいようと決めたはずだったのに‥‥‥今、この姿で再会することが正しいのか――答えは出せない。

「…私、行かなきゃ」ひなは小さく息を吐き、立ち上がる。

「待って、ひな――」晴人は手を伸ばす。

彼の手がひなの手首に触れると、かすかな青あざを見つけた。髪で隠れていた頬のあざも、光に映る。

「……どうしたんだ、これ…?」

言葉にならない痛みと、恐怖と、そして胸の奥でこみ上げる感情。ひなは言葉を飲み込むしかなかった。

掴まれた腕を振り解き、強く首を横に振った。
「ごめん、でも…行かなきゃ」

足が重い。心臓が締め付けられる。
悠真の元へ――それが今、自分にできる選択だと信じるしかない。

悠真には、私しか居ないから。