「美桜ってさ、ほんとなんでも楽しそうに笑うよね」
 給食の時間。斜め前の席の友達にそう言われて、わたしは「えへへ」と笑った。

 その笑顔は、鏡で練習したものみたいに自然に見える――はずだった。
 本当は、胸の奥がちくちく痛んで、笑っている場合じゃないのに。

「昨日のドラマ見た? あの俳優、超かっこよくなかった?」
「見た見た! 千景、絶対ファンになるでしょー」
「うるさいなぁ、美桜こそ頬赤いじゃん!」

 そんな取りとめのないおしゃべり。
 何も知らない彼女たちは、本当に楽しそうで。
 わたしもその輪の中にいられるのが、嬉しくて、同時に苦しくて。

(――わたしも、本当はあと一年しか一緒にいられないのに)

 笑顔のまま、心だけが沈んでいく。



 放課後。
 廊下ですれ違った陽翔くんが、ふと立ち止まってわたしを見た。

「……大丈夫か?」

 不意の言葉に、心臓が跳ねた。
 彼の黒い瞳が、まるで心の奥を見透かすみたいに真っすぐで。

「え? うん、全然平気だよ!」
 とっさに笑顔を作って、返事をした。

 陽翔くんはしばらく黙って見ていたけど、何も言わずに去っていった。
 その背中を見送ると、わたしの笑顔はすぐに消えてしまった。

(気づかれてる……? やだ、知られたくないのに)

 胸がざわざわして、帰り道の空はやけに遠く見えた。



 家に帰ると、兄の悠斗が「おかえり」と声をかけてくれる。
 その声の奥に、いつも隠しきれない哀しみが混じっているのを、わたしは知っている。

「学校どうだった?」
「楽しかったよ。千景とたくさんおしゃべりして……」

 言いながら、心の奥では「ごめんね」と繰り返していた。
 わたしが「楽しかった」と言えば言うほど、兄の表情はかすかに揺れて。
 その優しさが、かえって苦しかった。



 夜。ベッドに横たわると、昼間の笑顔がすべて仮面みたいに思えてくる。

「……わたし、嘘ついてばっかりだ」

 天井を見上げながら、ぽろぽろ涙があふれた。
 でも、涙を拭って鏡を見れば、また笑顔を作れる。
 そうしなきゃ、普通の女の子ではいられないから。

翌日も、わたしは教室で笑っていた。
 千景ちゃんの冗談に笑い、クラスのみんなと一緒に声を上げて笑う。
 でも、どんなに笑っても、胸の奥のざらつきは消えてくれない。

「美桜ってさ、ほんと幸せそう」
 クラスの男子にそう言われたとき、思わず心臓がずきっと痛んだ。
(わたし、幸せそうに見えるんだ……)
 その一言が、皮肉みたいに胸に突き刺さる。



 昼休み。
 窓際でスケッチブックを開いていたら、ふと影が差した。

「……また絵か」
 顔を上げると、陽翔くんが立っていた。

「う、うん。落書きみたいなものだけど」
「……」

 彼は何も言わずに、スケッチブックをちらっと覗きこんだ。
 描いてあったのは、木の葉が風に揺れる絵。
 けれど自分では、どこか寂しい絵になっていると感じていた。

「……楽しそうに描くくせに、絵は悲しそうだな」

 その一言に、思わず手が止まった。

「えっ……」
「いや、別に」

 陽翔くんはそう言って去っていった。
 でも、心臓はばくばくと音を立てて、落ち着かなかった。

(なんで……なんでそんなこと気づくの……?)



 放課後。
 千景ちゃんと帰り道を歩きながら、わたしはまた笑顔を作っていた。

「ねえ、週末さ、また一緒にプリ撮りに行こ!」
「うん、行きたい!」

 千景ちゃんの声はいつも明るくて、隣にいるだけで救われる。
 けれど、心のどこかで「こんな時間があと一年しかない」って思ってしまう。
 そのたびに、喉の奥がつまるように苦しくなる。



 夜。
 机の上に広げたノートに、わたしはまた一行書き加えた。

――海に行きたい。
――好きな人と花火を見たい。
――誰かのために絵本を描きたい。

 書きながら、涙がひとつ落ちて、文字がにじんだ。

「……笑ってたいのに、ほんとは全然笑えてない」

 その小さな声は、誰にも届かない。
 でも、ノートの中だけは、ほんとの気持ちを書ける気がした。



 窓の外で、秋風がまたさらさらと音を立てる。
 その音に耳を澄ませながら、わたしはもう一度、笑顔を作る練習をした。
 誰にも悟られないように。
 普通の女の子のふりを続けるために。

翌日も、わたしは笑顔を作って教室に入った。
 千景ちゃんが「おはよう!」と手を振る。
 わたしも笑顔で返す。だけど、胸の奥でざらつく感覚は、どうしても消えない。

「美桜、今日の席替え、隣誰になるんだろうね?」
 クラスメイトの声に笑って答える。
 そう、普通に会話して、普通に笑う。それがわたしの“仕事”。

 でも、ふと視線を感じた。
 教室の隅で、陽翔くんがこちらをじっと見ている。

(また見てる……)
 わたしは慌ててノートに目を落とす。
 彼の黒い瞳は、遠くからでも何かを訴えているようで、少し怖くなるほどだった。



 放課後。廊下でふとすれ違ったとき、陽翔くんが声をかけた。

「……調子、大丈夫か?」
 低く、ぶっきらぼうなその声に、胸がぎゅっとなる。

「う、うん! 全然平気だよ!」
 笑顔を作ると、少しだけ彼はほっとした顔をしたような気がした。
 でも、彼の瞳の奥に、何か言いたげな光が残っていて、わたしはそれに気づいてしまった。

(やっぱり……気づかれてる?)

 その夜、ベッドに横たわりながら、わたしは一日を思い返す。
 千景ちゃんの明るい笑顔、クラスメイトの無邪気な声。
 でも、陽翔くんの視線だけは、どうしても逃れられなかった。



 翌週。体育の時間。サッカーの練習中、陽翔くんがふとわたしに近づいてきた。

「おい、ちょっと大丈夫か? 無理してないか?」
 声は低く、でも真剣で、胸に響く。

「大丈夫! わたし、ちゃんと動けるから!」
 笑顔で答える。自分でも、その嘘に少し嫌気がさす。
 でも、これ以上心配させたくない。普通の女の子でいたいから。

 陽翔くんは黙って頷いたけど、目の端でわたしの呼吸が少し乱れているのを見逃さなかったに違いない。

(……ああ、もうバレるかもしれない)



 夜、家に帰ると、涙が自然にあふれた。
 兄の悠斗はそっと背中をさすりながら、何も言わずに寄り添ってくれる。
 母は台所で夕飯を作りながら、「今日も学校楽しかった?」と聞く。

 「うん……」
 声を絞り出すと、わたしはそっと枕に顔をうずめた。

 笑って、普通にして、誰にも悟られないように。
 それがわたしの、精一杯の努力だった。



 ある日、教室での出来事。
 千景ちゃんがこっそり耳打ちしてきた。

「美桜、最近元気すぎない? 逆に心配になるくらい!」
 わたしは思わず笑って、「大丈夫だよ」と答える。
 けれど、心の奥では泣きそうになっていた。

(……元気じゃないのに。嘘をつかないと、もう普通にいられないのに)

 教室の窓の外、秋風に揺れる木々を見ながら、胸の奥の重さを感じる。
 陽翔くんの目は、遠くからだけど、いつもそこにある。
 それだけで、少しだけ怖くなる。



 夕暮れ。
 机に肘をつき、手で顔を覆いながら、ひとりで小さくつぶやく。

「わたし、普通でいられるかな……」

 笑顔の中の嘘は、どんどん増えていく。
 でも、まだ誰にも知られない。
 まだ――わたしの秘密は、美桜の胸の中だけにある。