九月の午後。夏の名残りがまだ少し残る空の下で、校庭の隅にひらひらと落ち葉が舞っていた。
 教室の窓から入ってくる風は、どこか冷たくて、長袖のカーディガンを羽織った腕にそっとまとわりつく。

「美桜、ノートにまた絵描いてるでしょ?」
 ぱちん、とシャーペンを止める音と一緒に、親友の千景ちゃんの声が聞こえた。

「え? ……ばれた?」
 わたしは笑って、ノートを閉じる。
 ページには、さっきまで描いていたちいさな花のスケッチ。まだ未完成のまま。

「授業中だよー? ほんと、美桜って絵本作家にでもなる気?」
「うん。……なれたらいいなぁ、なんて」
「ふふ。似合ってるけどね」

 千景ちゃんは真面目で、いつも教科書もノートもきっちり整理されていて。わたしとは正反対。
 でもだからこそ、こうやって笑いあえる時間が好きだった。

 ――この日常が、ずっと続くと思ってた。

 放課後。
 校門を出るころには、夕焼けが町をオレンジに染めていた。
 ランドセルを背負った小学生が駆け抜けていく。自転車のベルが軽やかに鳴る。
 わたしは千景ちゃんと笑いながら歩いて――でも、ほんの一瞬。

 胸の奥が、ずきん、と痛んだ。

「……っ」
 息が吸えない。視界がぐらぐら揺れて。
 カバンが肩から落ちて、アスファルトに鈍い音を立てた。

「美桜!?」
 千景ちゃんの声が遠くに聞こえる。

 足に力が入らない。
 倒れる……そう思った瞬間――

 ぐっと誰かに腕をつかまれた。
 顔を上げると、黒い髪が視界をよぎる。

「おい、大丈夫か」

 その声は低くて、少しぶっきらぼう。
 でも、不思議なくらい、安心する響きだった。

 一ノ瀬陽翔くん。
 クラスではあまり話したことのない男の子。
 サッカー部で、背が高くて、いつもどこか不機嫌そうに見える彼が――今、わたしを支えてくれていた。

「……へ、平気、だから」
 言葉にしたつもりが、かすれて震えていた。

 だけど次の瞬間。
 もう、体は自分のものじゃなくなって。

 わたしはそのまま、彼の胸に崩れ落ちていた。

 秋風がひゅうっと吹き抜けて、落ち葉が舞う。
 遠くで、部活の掛け声が響いていた。

 耳元で聞こえたのは――陽翔くんの鼓動。
 自分の鼓動よりもずっと力強くて、熱くて。

(あれ……? わたし……どうなっちゃったの……?)

 その疑問も、すぐに意識の波にさらわれていった――。
まぶしい光の中で目を開けると、真っ白な天井が見えた。
 消毒液のつんとした匂い。規則正しく響く機械の電子音。

(……ここ、病院?)

 体を動かそうとしたけど、手足が重たくて。代わりに、横に座っている人の気配に気づいた。

「……美桜」
 低く、少し掠れた声。
 振り向くと、そこにはお兄ちゃん――杉浦悠斗がいた。

 眼鏡の奥の目は赤く充血していて、泣いたあとみたいで。
 わたしを見て、かすかに笑った。

「気づいたんだな……。よかった」

「……お兄ちゃん?」
 自分の声が思ったより弱々しくて、胸が少し痛んだ。
 でもそれよりも――お兄ちゃんのその表情が気になった。

「なんで泣いてるの……?」
「……泣いてないよ」
 そう言ったけど、すぐに目をそらす仕草。

 わたしは何もわからないまま、ただ胸に広がる不安を抑えきれなかった。



 しばらくして、白衣を着た医師が入ってきた。
 母と父も一緒にいて、病室の空気がいっそう重くなる。

「杉浦さん。検査の結果が出ました」
 落ち着いた声。でも、その響きはどこか冷たくて。
 わたしの胸の奥に、ざわざわとした不安が広がっていく。

「美桜さんは……生まれつき心臓に重い疾患があります。進行が早く、このままでは……あと一年ほどしか……」

 ――その言葉が耳に届いた瞬間、時間が止まったみたいだった。

(……いちねん?)
(……わたしが、生きられるの……あと一年?)

 言葉の意味は理解できても、心が追いつかない。
 胸の奥で、何かが砕け散る音がした気がした。

「そ、そんな……だって、わたし……普通に学校行って、友達と……」
 声が震える。涙が止まらない。
 父が唇をかみしめ、母がそっと肩を抱いてくれる。

 でも、その優しさでさえも今はつらくて。

「わたし、まだ……絵本作家になりたいって……夢だって……」

 ぽろぽろと涙があふれて、止まらなかった。



 夜。病室のカーテンを少し開けると、秋の夜空に星が瞬いていた。
 窓ガラスにうつる自分の顔は、涙でぐしゃぐしゃで。

 横に座っていたお兄ちゃんが、静かに言った。

「……美桜。俺も信じられない。でも……俺たちがいるから。だから……」
 言葉を飲み込むように、ぎゅっと手を握ってくれる。

 お兄ちゃんの手は温かくて、少し震えていた。

 わたしは唇をかみしめながら、夜空を見上げた。

(……お願い。どうか……最後まで、普通の女の子でいさせて)

 その願いは、声にはならず、ただ星の瞬きに重なっていった。
数日後。
 わたしは制服に袖を通して、学校へ向かった。

 病院で聞いた言葉は、まだ胸の奥でずっと響いている。
 ――あと一年。
 思い出すたびに息が苦しくなる。
 でもそれでも、わたしは普通に歩いて、普通に教室に入りたかった。

「美桜、おはよ!」
 教室のドアを開けた瞬間、千景ちゃんの元気な声が飛んでくる。
 彼女の笑顔に、思わず胸がじんわり温かくなった。

「おはよ、千景」
 笑顔を返す。できるだけ、いつも通りに。

「体調、もう大丈夫なの? あの日すっごく顔色悪かったじゃん」
「うん、ちょっと貧血だっただけだよ」

 ――嘘。
 でも、この嘘は言わなきゃいけない。
 知られたら、普通の生活はもう戻らないから。

「そっか。よかった」
 千景ちゃんはそれ以上深くは聞かず、またいつものおしゃべりに戻った。
 それがとても嬉しかった。



 窓際の席に座ると、ふと視線を感じた。
 ちらっと横を見ると、陽翔くんがこちらを見ていた。

 黒い瞳がまっすぐに、じっと。
 何も言わないけど、その眼差しは「大丈夫なのか」って問いかけてくるみたいで。

 わたしは慌てて目をそらし、ノートを開いた。
 ページの隅に、花のスケッチを描きながら、心の中でつぶやく。

(大丈夫。……大丈夫だから。わたしは普通だから)

 鉛筆の線は震えていた。



 放課後。
 帰り道で千景ちゃんと別れたあと、ひとりになった瞬間。
 押し殺していた涙が、こぼれそうになった。

(泣いちゃだめ。普通の女の子でいたいって、決めたんだから)

 夕焼けに染まる空を見上げながら、唇をぎゅっとかみしめる。
 頬をすり抜けていく秋風は冷たくて、それでも少し背中を押してくれるような気がした。



 教室の窓から外を見つめる陽翔くんは、その姿を遠くから見ていた。
 何かを抱えているように見える彼女の背中が、どうしても気になって。
 でも、声をかける勇気はまだなくて。

「……変なやつ」
 小さくつぶやいて、自分の胸の奥がざわめくのを感じていた。



 その夜。
 机の上で、わたしは小さなノートを開いた。
 まだ誰にも見せていない、新しいノート。

 一番最初のページに、震える手で書いた。

――わたしのやりたいこと。

 それは、たとえ残された時間が一年でも、どうしても叶えたい、小さな願いのリスト。

 そして心の中で、改めて強く決意した。

(最後まで、普通の女の子でいる。笑って過ごす。……絶対に)

 窓の外で風が吹き、秋の木の葉がさらさらと揺れた。
 まるで新しい物語の始まりを告げるように。