夜と朝と君と

いつだったかすら、もうわからない。
気づけば、好きになっていた。
それは、たぶん、必然的なものだったと思う。
なんせ、小さいころからずっと一緒にいて、お互いが一番お互いのことを理解していた。
気づけば、向日葵のようなあの子に、惹かれていた。

この気持ちに気づいたのは、中2の春頃だった。
沙羅が、他の男子に告白される現場を見てしまったのだ。
断っていたけれど、もし沙羅が、たった一言、
『いいよ』
と言っていたら、もう手遅れになっていたかもしれない。
その瞬間に、やっと、沙羅を取られたくないのだと、理解した。
けれど、自分も、モテないわけではなかった。
告白してくれる子だっていた。
付き合うことだってできた。
一度、沙羅のことは忘れようと、思った。
それでも、返事を返すとき、脳裏に浮かび上がるのは沙羅の顔。
太陽にまっすぐ伸びていく、向日葵。

小さいころから、社交的な方だったと思う。
いつも賢く立ち回れていると思っていたし、だからこそクラスの中心人物、という立場になっていた。
ただ、まわりが今、どんな表情をしているか、どう思っているのか、どう感じているのか、どうしてほしいのか。
それを全て読み取ろうとして、疲れてしまうことがあった。
ある日、クラスでかなり大きな揉め事が起こって、大人数で対立してしまったことがあった。
自分のせいだと思った。
もっとみんなのことをうまくまとめられていれば、こんなことにはならなかったと、毎日反省した。
一向に良くならないクラスの雰囲気を見ることが、だんだん辛くなってきたころだった。
『くだらないことで揉めるのやめよ』
と言った子がいた。
隣の席の子だった。
特別陽キャなわけでも、陰キャなわけでもなくて、ごく普通の子だった。そうだと思っていた。
『あのね、私はその喧嘩に何も関係ないの。関係ないのにクラスの雰囲気まで悪くされて迷惑なの』
たぶん、クラス全員があっけにとられた。
俺も、唖然として、何も言えなくなっていた。
彼女はまだ続けた。
『私、このままみんなが仲悪いのを見てるの、いやだよ。もっと仲よくしよう。絶対そうした方が楽しいよ』
そういうなり、対立していたそれぞれの主導の子を連れてきて、握手させた。
『はい、仲直り!』
握手している子も、他のクラスメイトも、ぽかん、としていて、俺はその状況で笑ってしまった。
もう、爆笑だった。
ここまで、自分を貫き通す子がいるとは。
でも、それをきっかけにして、険悪な雰囲気はなくなり、もとのように過ごせるようになった。
俺はその一件から、隣の席の子に話しかけるようになった。
彼女は、嫌な顔一つせず、いつでも明るく、話してくれた。
その子は、新田 沙羅といった。
沙羅は空気を読んで動くというより、周りを自分の空気に染めてしまうような人だったので、俺も沙羅と一緒にいるときだけは、素の自分でいられた。
まだ、人の表情を見て気にしてしまう癖は治らないけれど、少なくとも沙羅といるときだけは、安心できた。
それから、小学校、中学校、高校と、ずっと俺たちは一緒にいた。
いわゆる、幼馴染という関係性になっていった。
でも。
高校生になってから、沙羅は変わってしまった。
いや、予兆は、中学3年生の、秋ごろからあった。
だんだん、笑顔が減ってきたのだった。
毎日笑っていた沙羅の顔が、擦り減っていくのを見るのが、辛かった。
家のことも、近所と言うこともあって、大体のことは知っていた。
両親が、離婚したらしい。
聞く前から、知ってはいた。
名字が、新田から、八乙女に変わったからだ。
たぶん、クラスのみんなも、知っていただろう。
自分の苗字が、ある日突然変わること。
経験したことがないからわからないけれど、少なくとも、俺だったら嫌だ。
今まで、家族で過ごしてきた時間が、名字が変わったその瞬間に、すべて否定された気がしてしまうと思う。
そう思って、真っ先に沙羅に会いに行きたくなった。
すぐにでも、沙羅が欲しがる言葉を、言いたいと思った。
でも沙羅は、
『家のことは、平気だから。きにしないで』
と悲しそうに笑った。
どんどん、暗い表情になっていく沙羅を、隣で見ていた。
隣に居たのに、何もできなかった。
どこまで自分が深入りしていいのか、わからずに、結局何も言えないまま。
中学3年生、冬。
その日は、雪が降っていた。
俺たちはいつものように隣を歩いて、帰り道を歩いていた。
凍えそうなほど冷たい日で。
隣にいる、沙羅の手も、きっと氷のように冷たくなっているのだろう、と思った。すぐにでも、温めてあげることはできないだろうか、と思った、だけで、行動には移せなかった。
傘がどうしても邪魔で、普段より距離も離れていた。
すると突然、沙羅が立ち止まったのだ。
故意にしたことではなかったと思う。
足が、根っこのように地面に張って、動けない。
そういう風に、見えた。
だから、沙羅が動けるようになるまで、待った。
しばらくすると、沙羅はうつむいていた顔を上げた。
顔は、びしょ濡れだった。
『帰りたく、ないよぉ……』
傘から手を離して、すがるように、抱き着いてきた沙羅を、抱き返すことは、できなかった。
沙羅がこんなに苦しんでいる状況で、自分はそんなことをするべきじゃないと思った。それに、困惑していたのだ。
そんな沙羅を、見たことがなくて。
胸を、ぎゅっとわしづかみにされたように、苦しくなった自分に、困惑していた。
沙羅が泣き止むまで、沙羅に雪がかからないように、少しでも守れるように、傘をさしていた。

高校生になって、もう昔の面影がないほどに、沙羅は変貌してしまった。クラスメイトを、いじめ始めたのだ。
きっと、沙羅なりの、心を満たす方法だったのだと思う。
止めなきゃいけないと思っても、それで沙羅がまた苦しむのなら、と考えてしまって、結局いじめに加担した。
でも、沙羅がどんどん黒い道に歩み始めている気がして、怖かった。
あの、眩しいほどに輝く光が、黒く、くすんでいくのを、傍で見ていた。
いじめをしている沙羅は、いつも苦しそうだった。
それはそうだろう。
沙羅は、みんなを笑顔にすることがとても大好きなのだから。
こんな、みんなの笑顔をなくすことなんて、望んでやっていることじゃない。
わかっていた。
――――わかっていても。
沙羅を止めるというのは、すなわち、沙羅の敵になるということだと、思っていた。
俺は常に、沙羅の味方にありたかった。
沙羅を一人にしたくなかった。
たぶん、沙羅は、家でずっと一人なのだから。
自分ができる限り、沙羅の傍にいたかった。
だから、きっと、夜見がいじめのことを報告したと聞いて、少しほっとした自分もいた。
これで沙羅を止められる。
あんな表情を、あんな沙羅を、見ずにすむ。
でもその日から、沙羅は一人ぼっちになった。
クラスという世界から除外されたような。
魂が抜けたような沙羅を見るのも、辛かった。
いじめがばれそうになって離れた、沙羅の友達も、他の奴らも、
全員許せなかった。
そもそも、沙羅をあんな風にしたのは、誰だ。
決まっている、沙羅の親だ。
家庭に口出しするつもりはなかったけれど、沙羅がここまで傷つくのなら、もっと早く行動していればよかった。
だから俺は、前からずっと考えていた作戦を決行することにした。

沙羅には、朝、風邪を引いたから休む、と伝えた。
沙羅が学校に行ったのを確認してから、俺は沙羅の家を訪ねた。
チャイムを押すと、だるそうにドアを開けた沙羅の母親の顔が見えた。
昔見た、優しそうな母親の姿とは程遠かった。
派手な髪色に濃い化粧、肌が露出した服。
ドアが開いたほんの少しの隙間から見えるだけでも、散らかった部屋。
ろくな生活を送っていなさそうだった。
こんな家の中で、沙羅は毎日過ごしているのだと思うと、本当に自分は無力だと思った。
「沙羅のことを、もっと大切にしてください」
気づけば、何かを考える前に、本能的に、その言葉が出ていた。
「……誰よ、あんた」
明らかに疑うような表情。少しも響いていなさそうだ。
でも、俺は自分にできることを全てやりきると決めた。
「沙羅の幼馴染です。沙羅は、……ずっと苦しんでいます。傷つけないでください。もっと真剣に、沙羅のことを考えてください」
そう、沙羅は。
沙羅はずっと、苦しんでいた。
そんな、壊れるか壊れないかの瀬戸際のところで、俺は沙羅を救えなかった。
「……あんたに言われる筋合いなんて、」
ない、と言われる前に、遮った。
「ありますよ。俺は沙羅のことがすごく大事なので。大切な人を傷つけられたら、怒ります」
「……は?」
わけがわからない、という表情だ。


「沙羅がよく、小さなころ、お母さんのこと、自慢していました」


「……」
意表を突かれたように、ぴたりと動きが止まった沙羅の母親に、続けて言葉を紡ぐ。
「すごくいいお母さんだって。いつも優しくて、頼れるお母さんだって」

公園で遊んでいた時のことだった。
『うちのお母さん、最高なんだよ!いつも優しいし、お料理もじょうずなの!』
唐突に沙羅が言った。
沙羅は昔から、お母さん自慢をすることが、たびたびあった。
『なんだよ急に』
笑いながら答えると、馬鹿にされたと感じたのだろう、沙羅は急に真剣な顔になって、
『本当だもん。誰にも負けないくらいお母さんはすごいもん』
と言った。
『そうかよ』
『そうだよっ!』
そういって笑った。
幸せそうな沙羅の顔。
ずっと守りたいと思った笑顔。
結局、守り切れなかった、笑顔。
だから、今度こそは。
「……え…」
目を見開いて、こちらを見てきた沙羅の母親を、真正面から見つめ返す。一呼吸おいてから、最後の言葉を発した。
「沙羅は、あなたが思うより、あなたのことを想っています。だからちゃんと、あなたも沙羅のことを想ってください」
そういうと、沙羅の母親は、すこし涙目になったように見えた。
結局、「もう帰って」と怒られて追い出されたけれど。
ドアの向こうから聞こえてきた、すすり泣くような声に、少しは意味があったのかもしれないと、思った。

次の日も、玄関前で沙羅の母親を待っていた。
チャイムを押すと、「はい」という柔らかい声が聞こえてきた。
静かに、ゆっくりと開く扉の隙間から見えたのは、昨日と見違えるような、顔だった。
派手な化粧も、髪色も、服も。
すべて、昔の沙羅の母親に戻っていた。
「ごめんなさい」
呆然としていると、唐突に謝られた。
「……え」
何を言えばいいのかわからない。
「私、きっと沙羅のことも、あなたのことも、傷つけたのよね」
「……」
「気づかせてくれて、ありがとう」
温かい表情で、笑った。
初めて自分が、誰かの役に立った気がして。
じんわり、だんだん、温かくなっていくのを感じた。
「本当に、ごめんなさい」
でも。
今、それを言われるべきなのは、俺じゃない。
「それは、沙羅に言ってください」
沙羅の母親は、静かに、こくりと頷いた。

二日ぶりに学校に行くと、沙羅の表情が、少し明るくなっていた。
もとの沙羅に、また戻ってきているような気がした。
嬉しかった。
でも。
その原因が夜見だと気づいたとき、どうしようもなく悔しかった。

だからこそ、最後まで、伝えようと思った。
沙羅は鈍感すぎて、伝えられたかはわからなかったけど。
それでも、沙羅が、
「恋してる」
と言った時の顔が、あまりにも幸せそうだったから。
敵わない。
と思った。
だから、
叶えない恋を、しようと思った。
ずっと、もし彼女ができても、永遠に、沙羅のことは忘れられないだろう。ずっと、永遠に、片想い。
けれど。
まあ、沙羅が笑顔なら。
それでいいか。
桃色の空に、永遠の想いと、願いを誓う。
大切な人が。
何物にも代えられない、あの笑顔が。
――――――永遠に、消えることがありませんように。

ある日。
体育館の裏側に、手紙で呼び出された。
そこにいたのは、ほとんど面識もない女の子だった。
沙羅だったらよかったのに、と薄っすら思ってしまった自分は最低だと思った。
まずは目の前にいるこの子に、向き合わなければ。
「大好きです、付き合ってください」
目の前には、こんな俺のことを、好きになってくれた人がいる。
顔を赤くして、精一杯の想いを伝えてくれている。
一言、はい、と答えれば。
お願いします、と手を差し出せば。
結ばれる。
きっと幸せになれる。
でも。
「……ありがとう、気持ちはすごくうれしい。でもごめんね」
こうするしか、もう、できない。
「あっ、ありがとうございます。あの、
……理由、とか聞いてもいいですかっ?」
理由なんて、たった一つ。
少し笑って、呟いた。


「好きな人が、いるんだ」


たとえ叶わなくても。
気持ちに気づかれなくても。
沙羅のことを想えるだけで、幸せだ。
好きな人がいるという幸せを、これからもずっと、大切にしていきたい。
真っ直ぐ、日の当たる方向に、進んでいく沙羅の姿を。
傍にいられなくても。
後ろから、優しく見守れるように、なりたい。
沙羅にとって、安心できる存在に。
少しでも力になれるように。
間違った道に進みそうなときは、今度こそ止められるように。
なりたいと思った。