6.優しい世界
「なんだよ、こんなところ呼び出して」
「……お前もやったんだから、別にいいだろ」
「まあ、それもそうか」
やけにあっさり引き下がる夜見だった。何か企んでいるのでは、と思わず深読みしてしまう私は、卑屈だろうか。
自己嫌悪。
ここのところずっとそうだ。
自分が心底憎い。恨めしい。嫌いだ。
前の、無敵の私だったら、自分を嫌いになることなんてなかった。
私の世界を、あの頃の私を、返してよ。
「……あなたは、私の世界を、壊した。」
ぽろりと、つい口から出てしまった言葉は、それだった。
きっと、私の本心なのだろう、とどこか他人事のように思った。
「それは、お前が悪いだろ」
「……っ……」
さっぱりした返事は、思いやりの欠片もなかった。海なら、もっと甘く、私が欲しい答えをくれる。私はそれで安心して、それによって孤独が蓄積されていく。
まるで白い雪のように。
降ってくる瞬間はきれいでも、積もれば積もるほどに凍えるほど冷たくなる。
寒くて。
いつも、常に、誰かに助けを求めていて。
誰も助けてくれなくて。
誰も私を助ける能力なんて持っていなくて。
毎日、辛かった。
でも、夜見の答えには、思いやりの欠片もなければ、孤独を感じる欠片もなかった。
と、同時に。
思った。
本当に、私が求めていた答えは、こういうものだったのかもしれない、と。
もっと、正直に、誰かに、
『あなたはいけないことをしている』
って、止めてほしかった。
なのに、誰も、止めてくれなかった。
ブレーキをかける力も、私にはなかった。
誰かが後ろから止めてくれなきゃ、永遠に止まれなかったと思う。
頬の曲線に沿って、温かい水が流れ落ちた。
「……っ、あっち向いてて馬鹿」
夜見は、またもやあっさりとした答えで、「わかった」といって、後ろを向いた。
後ろを向いたまま、夜見は話し始めた。
「ちょっと、わかるんだよな、八乙女の気持ち」
は?と、喉から声が出そうになるのをこらえた。
わかってたまるか。お前なんかに。
そんな私の感情は、次の一言によって破壊された。
「俺も、いじめの加害者だった」
「……え?」
なにそれ。
聞いてない。
聞いてない、知らない。
私と、同じ?
『仲間』
ついさっき、壊されたばかりの絆の名前が、頭の中に浮かんだ。
なにか言わなければと思ったけれど、なにも出てこなかった。
沈黙が続く。
チャイムが鳴って、ついに私たちの会話は遮られた。
別れ際、とっさに出てしまった言葉。
「……っ、…夜見!」
「なに」
「明日、も、あさ、っても、屋上で、話しても、良い?」
「……いいけど。」
歯車が、ずっと止まっていた歯車が、動き出した気がした。
朝起きて、学校が楽しみだと思ったのは、一体何年ぶりだろう。
海は、風邪がまだ治っていないらしい。
でも、もう、怖くない。
本当の私を、ちゃんと知ってくれた人がいたから。
次の日、チャイムが鳴ってすぐに屋上に行った。
かなり急いだけれど、夜見はもう、そこにいた。
正直、来てくれないんじゃないかって、すごく不安だったこと。
来てくれてありがとうとか。
なんて、そんな素直に伝えられるほど、私は純粋な心を持っていない。
夜見が座っているベンチに、大人一人分開けて座る。
何を話せばいいのかわからなくて、話題を見つけようと努力した。
今までは、自分から話しかけることなんてしなくても、みんなが勝手に寄ってきたから、まだこういうのには慣れない。
「え……っと、焼き芋、好きなんだよね」
何とか思い出せたのは、自己紹介の時に夜見が焼き芋を好きと言っていたことだった。
「…聞こえてたのか。流されたから、誰にも気づいてもらえてないと思ってた」
やけに驚いた顔で言うので、思わず笑ってしまう。
「もっと声おっきくした方がいいよ、ほんとに。聞こえたのもぎりぎりだったからね」
夜見は少しムッとした顔をして、
「善処する」
と小さく答えた。
なんだか少し、可愛くて、また笑ってしまった。
「ちなみに、なんで焼き芋が好きなの?」
「………幸せな記憶だから」
ドクン、と体が波打つのを感じた。
幸せな記憶。
私にも、ほんの少しだけ、断片が残っている。
両親の仲が良かった、あの頃のこと。
「……そう」
「八乙女にも、そういうの、ある?」
聞かれて、少し考える。
幸せ、という言葉を思い浮かべたときに、一つだけ、あった。
「……パン、ケーキ」
「パンケーキ?」
「うん」
あの頃の記憶を、もう一度読み返す。
お母さんは、仕事のことでかなり疲れていて、何をするにもだるそうだった。
私が、「大丈夫?」と聞くと「全然大丈夫!」と明るく振る舞っていたけれど、やっぱり顔は暗くなっていくばかりだった。
私はそんなお母さんを、どうやったら元気づけられるかを考えて、ご飯を振る舞うことにした。
けれど、その時私は4歳。
到底、レストランのような食事は作れなかった。
でも時々、お母さんがおやつに作ってくれたパンケーキは、作り方も見慣れているので、かろうじて作れると思った。
台所もぐちゃぐちゃにしながら、何とかできたパンケーキは、お母さんが作ってくれるような綺麗な円形じゃなくて、不格好な楕円だった。味も偏りがあったし、生焼けのところもあった。
台所まで荒らして、結局何もできていないじゃないか、と泣きそうになっていた時、お母さんが帰ってきた。
粉まみれで、汚い部屋を見て、お母さんは怒ると思った。
それまで、殴られたことなんて一度もなかったけれど、その時だけは殴られることも覚悟した。
『これ、沙羅が、作ったの?』
『うん……。ご、ごめ』
謝ろうとしたその瞬間、優しく何かに包み込まれた。
お母さんの、腕だった。
私は今、抱きしめられている。
そのことに動揺した。
『ありがとう。とっても嬉しいよ!』
こんなに台所汚しちゃったのに?
嬉しい、なんて。
でも、そういわれたことが、私も嬉しかった。
そのあと、二人で半分こをしてパンケーキを食べた。
確かに生焼けだったし、味も変だったし、焦げてるところもあって、不格好だったけど。
とても、とても甘い味だと思った。
あの時だけは、世界で一番、私が幸せだったと思う。
そういえば、あと一つ、大好きな食べ物があった。
「あと……焼き芋も好き、かな」
決して、夜見の好きな食べ物と合わせたわけではなくて。
ただ、頭にふっ、と浮かび上がったのだ。
「……え?なんで?」
「なんか、美味しかった記憶がある。昔のことだからさ、あんまり覚えてはいないんだけど」
そう、思い出したいのに、思い出せない。
でも確かに、幸せな記憶だった気がする。
温かくて、誰かが隣に居て。
ぬくもりを感じた。
思い出せるのはそこまでで、他は何もわからなかった。
それを聞いて、少し残念とでもいうような、そんな顔をした夜見だった。
「……そうか」
「あの頃は、……家に帰るのが楽しみで仕方がなかったの」
家には明かりがついていて、いつだって、お母さんは優しくて。
「それは……いいな」
本当に羨ましそうに、夜見が言った。
「家に帰るのが楽しみになったこと、ないの?」
「ないな」
即答だった。
なんで、とは聞かない。聞かれたくないことは誰にだってある。
でも、夜見は自分から話してくれた。
「家に帰ったら、父親に殴られて倒れている兄弟が何人もいた」
思い浮かべると、衝撃的な、光景だった。
何と答えるのが正解かがわからなくて、黙っていた。
夜見は続ける。
「弟たちがさ、助けて、って目をして、手を出してくるんだよ」
「……そう」
私には兄弟がいないからわからないけれど、きっと、相当苦しかっただろう。怖かっただろう。辛かっただろう。
殴られる恐怖は、私もよく、知っている。
「もちろん、真正面から対抗したって、負けるに決まってる。あいつは図体もでかかったから」
思い出す。記憶がよみがえる。えぐられるように胸が痛かった。
私の父親も、体の大きな人だった。
力も強くて、いつも暴力でお母さんを従えていた。
それを見る、子供の気持ちなんて知らずに。
私はいつも、怯えて部屋にこもっていたのを覚えてる。
「でも、俺たちにできることって、ないだろ。毎日家に帰らなきゃいけない。ほんと、子どもって、不自由だよな」
夜見は、そんな状況の中で、どうしたのだろう。
うずくまって泣くしかなかったあの状況で。
「だから、強くなろうと思った」
「え……」
「学校の気に食わない奴らに喧嘩を吹っかけて、血まみれで帰ってきての繰り返しだった」
私には、そんな行動をする度胸も、勇気もなかった。
夜見は、強い。
私は不憫なのだと、ずっと背中を丸めて生きていくのだと、思い込んでいた。
でも、そんななかで、行動を起こした人もいたのだ。
夜見のように。
「そうすると、だんだん、自分が強くなっていくのを実感するようになった。もともと、恵まれた体格ではあったしな」
恵まれた、と言いながら、どこか悔しそうな表情をしているのは、おそらく体の大きかった父親の血を、受け継いだとわかってしまったからだと思う。
「父親にも対抗できるようになって……、たぶん、それが、負の連鎖の始まりだった」
負の連鎖。知っている。私も経験済みだ。
「喧嘩で相手を倒すことが、楽しくなってきたんだよな」
きっと、私のように、それで心の穴を埋めていたんだ。
一時的なものだとわかっているのに。
依存してしまう。
「気に食わないやつも、俺には向かう奴も、目が合っただけの奴も、全員倒した。
……噂でもう流れているみたいだけど、前の学校追い出されたのは暴力事件だ。俺が相手の内臓を破裂させた」
内臓。破裂。聞きなれない言葉の連続。
隣に居るこの人は、そんな力を持った人なんだと改めて怖くなる。
「暴力的ないじめも、たくさんした。でもある日、気づいた」
「……………結局、あいつと、同じじゃん、って」
「お……、同じ?」
鼓動が早まる。血液の循環が早くなる。体が熱い。
同じ。言われてみればそうだ。
毎日お母さんにされていることを、何も関係ない穂香にぶつけていたんだ。
結局、私も同じ部類の人間になってしまったんだ。
そのことに気づいて、どうしようもない焦燥感を感じた。
絶対に、お母さんのようにはならないと思っていた。
でも、同じことをしていたのだ。
殴って。
暴言を吐いて。
人を傷つけて。
――――私は、私が、一番嫌いだ。
「だから、この学校に来て初めて会ったお前のことが、気になって仕方がなかった」
「……」
「また、同じことをして、同じような部類が増えていくことだけは、絶対に止めなきゃいけないと思った」
「……」
「お前は幸い、まだ、染まり始めたばかりだったから。まだ、間に合うと思った」
……違う。
「…っ、もう、間に合わないよっ!」
突然大きな声を出したからか、夜見の体が大きく揺れた。
それでも私は、言わずにはいられなかった。
「もう、やっちゃったもん。同類の仲間入り。穂香にも傷を残した。やり直せない。やり直せるはずもない。やり直せちゃったら、穂香に申し訳が立たないよ……」
心からの、叫びだった。
「そうだな」
さっぱりとした答え。
「……え」
「やり直せるなんて言ってない。もうやってしまったんだから。時間は戻らない。でも、まだ、止まるチャンスがあると思った」
止まるチャンス。
それはきっと、夜見がこのクラスに来てから、私に与えられていた。
いや。
もっと前から、きっと、あったんだ。
それに、気づかないふりをしていたあの頃の自分に怒りがこみ上げる。
「私、……はっ…」
夜見が、私の頭の上に、手を置いた。
太陽みたいにあったかくて、じんわり、凍えた心が溶かされていくのを感じた。
「お前は、ちゃんと、止まれた。偉いよ」
夜見といると、泣きそうになるのはなんでだろう。
「俺みたいに、全て破壊してから気づくようじゃ、遅いからな」
優しく、悲しく、寂しそうに。
夜見は笑った。
思えば、私は夜見が明るく笑ったところを、見たことがない。
私には、何ができるだろう。
「……っ、夜見は、私を、救ってくれたよ……っ」
夜見の切れ長な瞳が、大きく見開かれた。
「私を止めてくれたのは夜見だよ。連鎖を断ち切ってくれたのは夜見だよ。だから、夜見は、……夜見はっ、
すごいんだよっ!ありがとう」
小学生みたいな答えだった。
でも。
私は初めて、彼の笑顔を見た。
次の日は、海が風邪から回復して戻ってきた。
私と夜見が親しそうにしているのが気になったのか、
「何かあったのか」
と聞いてきた。
そうか、確かに私と夜見はあまり仲が良くなかった。
知らない間に仲良くなっていたら、驚くだろう。
「えっとね、…っ」
説明しようとした口をふさがれて、びくりと体が反応した。
私の口を塞いだのは、夜見だった。
「別に、なんも。水瀬には関係ないだろ」
あれ?
この二人って仲悪かったんだっけ?
覚えにないけど、あんまり口出ししない方がよさそうだ。
「関係ないってなんだよ。俺と沙羅は、お前よりずっと長く一緒にいるからな」
「あ?……俺、だって、」
夜見が私の口から手を離して、本当の喧嘩が始まりそうだったので、慌てて止める。
「二人ともやめてってば」
すると二人は何とか我に返ったようで、いったん落ち着いたようにみえた。海は、何かを決めたように、私の名前を呼んだ。
「沙羅、」
「ん?」
「話が、ある。帰り、ちょっと時間あるか?」
今日は特に用事もないし、私は素直にうなずいた。
「いいよ」
そう答えたときの夜見の顔が少し複雑だった理由は分からない。
「あのさ、沙羅」
帰り、私たちは約束通りに話をした。
「うん」
「お前のこと好きだ」
コンクリートの地面を踏みしめながら、海が言った。
何だ今更、と思った。
「ん?いや、私も好きだけど」
「……そうだよな、やっぱだめ……って、え?は?どういうこと?」
「だから、普通に好きだって。ずっと一緒にいるんだし」
真剣に答えたけれど、海はがっくり、という効果音が出そうなほどに肩を落とした。
「そういう意味じゃないって……」
そういう意味。それが何なのかは分からなかった。
「あ、でもね、最近、海の好きとは違う、好きな人ができたんだ」
「はっ……?」
「何だろう、すごく、素の私を、ちゃんと見てくれる人なの」
海のことが好きっていうのが、幼馴染としてなら。
夜見に対して好きっていう気持ちは、何なのだろう。
家族……ではないな。
友人でなければ……、あれ?
これ、そういうことじゃ?
やっぱり、そうだよね。
物語の世界でしか知らなかった、この気持ち。
桃色の、感情。
ああ、これ。
「………今、私、恋してる。」
私は、夜見に、恋してる。
それが分かった、瞬間だった。
胸のあたりを、きゅっと抑えると、鼓動が聞こえてきた。
海は、笑った。
すごくうれしそうに、寂しそうに。
「……そっか」
「うん」
「……よかった」
「うん?」
私は決めた。
告白しよう、夜見に。
桃色の空を見上げながら、誓った。
そして。
屋上で、私は夜見に伝えた。
スカートのすそを握りしめながら。
「好き」
たった二文字。
それを言うのに、どれだけ時間をかけたかわからない。
長い沈黙があった。
どんな答えが返ってくるのか、わからなかった。
わからなかったけど、楽しみだった。
「…………ああ、俺もだ。…………奇遇だな」
「えっ?」
「好きだよ、沙羅」
名前呼びは、さすがに、ずるい。
「好き、だよ、楓」
私たちは、恋人になった。
でも、もちろん、今までしてきた罪が、解決したわけじゃない。
まだ、私たちにはするべきことがあった。
私は、穂香に、誠心誠意、謝った。
毎日。
毎日。
毎日、呆れられるほどに。
するとある日、
「もういいよ」
と、困ったような顔で、笑ってくれたのだった。
楓も、内臓を破裂させた、その人に謝りに行った。
まだ病院での入院生活が続いているらしく、楓は電車で3時間もかかる病院に、毎日謝りに行った。
私が深入りすることではないので、毎日、駅で楓のことを待った。
「どうだった?」
と聞くと、いつも暗い表情で首を横に振るのだった。
きっと、相手は許してくれないだろう、と楓本人も言っていた。
だから私は、
「そんなの当たり前でしょ」
といった。
私たちは、相手に傷を残したのだから。
許されない。
でも、立ち止まった。
それ以上、進まない選択をした。
だからこれからできることは、罪を認めて謝り続けることだ。
相手が許してくれるかどうかなんて、関係ない。
謝罪の気持ちは、いつも忘れない。
私は楓を抱きしめた。
少しだけ、見えてしまった楓の涙は、見なかったことにしてあげようと思った。
そして、もう一つの問題は、家庭のことだった。
でも、私の方は、少しだけ変化があった。
母親が、殴ってこなくなった。
前の父親も、呼ばなくなった。
派手に染めていた髪色ももとの黒髪に戻して、身なりもきちんとするようになった。
ぐちゃぐちゃだった部屋も、掃除してくれるようになった。
なにがお母さんをそうさせたのかはわからないけれど、少しだけ、帰ることができる家になった。
ある日、「ごめんね、ずっと」と謝られた。
私は、少し迷って、でも、「いいよ」と答えた。
まだ、昔のように会話したりはできないけれど、少しずつ前進している気がする。
楓は、弟たちを連れて親戚の家に行こうかと思っている、と言っていた。
今するべきなのは、親と戦うことじゃなくて、弟たちを守って、自分を大切にすることだと、判断したのだ。
私たちは、
お互いが決めたことは、お互いに応援すること。
辛くなったら、いつでも逃げ出すことを、
約束した。
私たちは、支えあっていける。
助け合っていける。
癒しあっていける。
きっと、いつまでも。
穴を抱えて、それでも、両手からあふれるような幸せを自分たちでつかみ取っていく。
楓となら、それができる気がした。
「なんだよ、こんなところ呼び出して」
「……お前もやったんだから、別にいいだろ」
「まあ、それもそうか」
やけにあっさり引き下がる夜見だった。何か企んでいるのでは、と思わず深読みしてしまう私は、卑屈だろうか。
自己嫌悪。
ここのところずっとそうだ。
自分が心底憎い。恨めしい。嫌いだ。
前の、無敵の私だったら、自分を嫌いになることなんてなかった。
私の世界を、あの頃の私を、返してよ。
「……あなたは、私の世界を、壊した。」
ぽろりと、つい口から出てしまった言葉は、それだった。
きっと、私の本心なのだろう、とどこか他人事のように思った。
「それは、お前が悪いだろ」
「……っ……」
さっぱりした返事は、思いやりの欠片もなかった。海なら、もっと甘く、私が欲しい答えをくれる。私はそれで安心して、それによって孤独が蓄積されていく。
まるで白い雪のように。
降ってくる瞬間はきれいでも、積もれば積もるほどに凍えるほど冷たくなる。
寒くて。
いつも、常に、誰かに助けを求めていて。
誰も助けてくれなくて。
誰も私を助ける能力なんて持っていなくて。
毎日、辛かった。
でも、夜見の答えには、思いやりの欠片もなければ、孤独を感じる欠片もなかった。
と、同時に。
思った。
本当に、私が求めていた答えは、こういうものだったのかもしれない、と。
もっと、正直に、誰かに、
『あなたはいけないことをしている』
って、止めてほしかった。
なのに、誰も、止めてくれなかった。
ブレーキをかける力も、私にはなかった。
誰かが後ろから止めてくれなきゃ、永遠に止まれなかったと思う。
頬の曲線に沿って、温かい水が流れ落ちた。
「……っ、あっち向いてて馬鹿」
夜見は、またもやあっさりとした答えで、「わかった」といって、後ろを向いた。
後ろを向いたまま、夜見は話し始めた。
「ちょっと、わかるんだよな、八乙女の気持ち」
は?と、喉から声が出そうになるのをこらえた。
わかってたまるか。お前なんかに。
そんな私の感情は、次の一言によって破壊された。
「俺も、いじめの加害者だった」
「……え?」
なにそれ。
聞いてない。
聞いてない、知らない。
私と、同じ?
『仲間』
ついさっき、壊されたばかりの絆の名前が、頭の中に浮かんだ。
なにか言わなければと思ったけれど、なにも出てこなかった。
沈黙が続く。
チャイムが鳴って、ついに私たちの会話は遮られた。
別れ際、とっさに出てしまった言葉。
「……っ、…夜見!」
「なに」
「明日、も、あさ、っても、屋上で、話しても、良い?」
「……いいけど。」
歯車が、ずっと止まっていた歯車が、動き出した気がした。
朝起きて、学校が楽しみだと思ったのは、一体何年ぶりだろう。
海は、風邪がまだ治っていないらしい。
でも、もう、怖くない。
本当の私を、ちゃんと知ってくれた人がいたから。
次の日、チャイムが鳴ってすぐに屋上に行った。
かなり急いだけれど、夜見はもう、そこにいた。
正直、来てくれないんじゃないかって、すごく不安だったこと。
来てくれてありがとうとか。
なんて、そんな素直に伝えられるほど、私は純粋な心を持っていない。
夜見が座っているベンチに、大人一人分開けて座る。
何を話せばいいのかわからなくて、話題を見つけようと努力した。
今までは、自分から話しかけることなんてしなくても、みんなが勝手に寄ってきたから、まだこういうのには慣れない。
「え……っと、焼き芋、好きなんだよね」
何とか思い出せたのは、自己紹介の時に夜見が焼き芋を好きと言っていたことだった。
「…聞こえてたのか。流されたから、誰にも気づいてもらえてないと思ってた」
やけに驚いた顔で言うので、思わず笑ってしまう。
「もっと声おっきくした方がいいよ、ほんとに。聞こえたのもぎりぎりだったからね」
夜見は少しムッとした顔をして、
「善処する」
と小さく答えた。
なんだか少し、可愛くて、また笑ってしまった。
「ちなみに、なんで焼き芋が好きなの?」
「………幸せな記憶だから」
ドクン、と体が波打つのを感じた。
幸せな記憶。
私にも、ほんの少しだけ、断片が残っている。
両親の仲が良かった、あの頃のこと。
「……そう」
「八乙女にも、そういうの、ある?」
聞かれて、少し考える。
幸せ、という言葉を思い浮かべたときに、一つだけ、あった。
「……パン、ケーキ」
「パンケーキ?」
「うん」
あの頃の記憶を、もう一度読み返す。
お母さんは、仕事のことでかなり疲れていて、何をするにもだるそうだった。
私が、「大丈夫?」と聞くと「全然大丈夫!」と明るく振る舞っていたけれど、やっぱり顔は暗くなっていくばかりだった。
私はそんなお母さんを、どうやったら元気づけられるかを考えて、ご飯を振る舞うことにした。
けれど、その時私は4歳。
到底、レストランのような食事は作れなかった。
でも時々、お母さんがおやつに作ってくれたパンケーキは、作り方も見慣れているので、かろうじて作れると思った。
台所もぐちゃぐちゃにしながら、何とかできたパンケーキは、お母さんが作ってくれるような綺麗な円形じゃなくて、不格好な楕円だった。味も偏りがあったし、生焼けのところもあった。
台所まで荒らして、結局何もできていないじゃないか、と泣きそうになっていた時、お母さんが帰ってきた。
粉まみれで、汚い部屋を見て、お母さんは怒ると思った。
それまで、殴られたことなんて一度もなかったけれど、その時だけは殴られることも覚悟した。
『これ、沙羅が、作ったの?』
『うん……。ご、ごめ』
謝ろうとしたその瞬間、優しく何かに包み込まれた。
お母さんの、腕だった。
私は今、抱きしめられている。
そのことに動揺した。
『ありがとう。とっても嬉しいよ!』
こんなに台所汚しちゃったのに?
嬉しい、なんて。
でも、そういわれたことが、私も嬉しかった。
そのあと、二人で半分こをしてパンケーキを食べた。
確かに生焼けだったし、味も変だったし、焦げてるところもあって、不格好だったけど。
とても、とても甘い味だと思った。
あの時だけは、世界で一番、私が幸せだったと思う。
そういえば、あと一つ、大好きな食べ物があった。
「あと……焼き芋も好き、かな」
決して、夜見の好きな食べ物と合わせたわけではなくて。
ただ、頭にふっ、と浮かび上がったのだ。
「……え?なんで?」
「なんか、美味しかった記憶がある。昔のことだからさ、あんまり覚えてはいないんだけど」
そう、思い出したいのに、思い出せない。
でも確かに、幸せな記憶だった気がする。
温かくて、誰かが隣に居て。
ぬくもりを感じた。
思い出せるのはそこまでで、他は何もわからなかった。
それを聞いて、少し残念とでもいうような、そんな顔をした夜見だった。
「……そうか」
「あの頃は、……家に帰るのが楽しみで仕方がなかったの」
家には明かりがついていて、いつだって、お母さんは優しくて。
「それは……いいな」
本当に羨ましそうに、夜見が言った。
「家に帰るのが楽しみになったこと、ないの?」
「ないな」
即答だった。
なんで、とは聞かない。聞かれたくないことは誰にだってある。
でも、夜見は自分から話してくれた。
「家に帰ったら、父親に殴られて倒れている兄弟が何人もいた」
思い浮かべると、衝撃的な、光景だった。
何と答えるのが正解かがわからなくて、黙っていた。
夜見は続ける。
「弟たちがさ、助けて、って目をして、手を出してくるんだよ」
「……そう」
私には兄弟がいないからわからないけれど、きっと、相当苦しかっただろう。怖かっただろう。辛かっただろう。
殴られる恐怖は、私もよく、知っている。
「もちろん、真正面から対抗したって、負けるに決まってる。あいつは図体もでかかったから」
思い出す。記憶がよみがえる。えぐられるように胸が痛かった。
私の父親も、体の大きな人だった。
力も強くて、いつも暴力でお母さんを従えていた。
それを見る、子供の気持ちなんて知らずに。
私はいつも、怯えて部屋にこもっていたのを覚えてる。
「でも、俺たちにできることって、ないだろ。毎日家に帰らなきゃいけない。ほんと、子どもって、不自由だよな」
夜見は、そんな状況の中で、どうしたのだろう。
うずくまって泣くしかなかったあの状況で。
「だから、強くなろうと思った」
「え……」
「学校の気に食わない奴らに喧嘩を吹っかけて、血まみれで帰ってきての繰り返しだった」
私には、そんな行動をする度胸も、勇気もなかった。
夜見は、強い。
私は不憫なのだと、ずっと背中を丸めて生きていくのだと、思い込んでいた。
でも、そんななかで、行動を起こした人もいたのだ。
夜見のように。
「そうすると、だんだん、自分が強くなっていくのを実感するようになった。もともと、恵まれた体格ではあったしな」
恵まれた、と言いながら、どこか悔しそうな表情をしているのは、おそらく体の大きかった父親の血を、受け継いだとわかってしまったからだと思う。
「父親にも対抗できるようになって……、たぶん、それが、負の連鎖の始まりだった」
負の連鎖。知っている。私も経験済みだ。
「喧嘩で相手を倒すことが、楽しくなってきたんだよな」
きっと、私のように、それで心の穴を埋めていたんだ。
一時的なものだとわかっているのに。
依存してしまう。
「気に食わないやつも、俺には向かう奴も、目が合っただけの奴も、全員倒した。
……噂でもう流れているみたいだけど、前の学校追い出されたのは暴力事件だ。俺が相手の内臓を破裂させた」
内臓。破裂。聞きなれない言葉の連続。
隣に居るこの人は、そんな力を持った人なんだと改めて怖くなる。
「暴力的ないじめも、たくさんした。でもある日、気づいた」
「……………結局、あいつと、同じじゃん、って」
「お……、同じ?」
鼓動が早まる。血液の循環が早くなる。体が熱い。
同じ。言われてみればそうだ。
毎日お母さんにされていることを、何も関係ない穂香にぶつけていたんだ。
結局、私も同じ部類の人間になってしまったんだ。
そのことに気づいて、どうしようもない焦燥感を感じた。
絶対に、お母さんのようにはならないと思っていた。
でも、同じことをしていたのだ。
殴って。
暴言を吐いて。
人を傷つけて。
――――私は、私が、一番嫌いだ。
「だから、この学校に来て初めて会ったお前のことが、気になって仕方がなかった」
「……」
「また、同じことをして、同じような部類が増えていくことだけは、絶対に止めなきゃいけないと思った」
「……」
「お前は幸い、まだ、染まり始めたばかりだったから。まだ、間に合うと思った」
……違う。
「…っ、もう、間に合わないよっ!」
突然大きな声を出したからか、夜見の体が大きく揺れた。
それでも私は、言わずにはいられなかった。
「もう、やっちゃったもん。同類の仲間入り。穂香にも傷を残した。やり直せない。やり直せるはずもない。やり直せちゃったら、穂香に申し訳が立たないよ……」
心からの、叫びだった。
「そうだな」
さっぱりとした答え。
「……え」
「やり直せるなんて言ってない。もうやってしまったんだから。時間は戻らない。でも、まだ、止まるチャンスがあると思った」
止まるチャンス。
それはきっと、夜見がこのクラスに来てから、私に与えられていた。
いや。
もっと前から、きっと、あったんだ。
それに、気づかないふりをしていたあの頃の自分に怒りがこみ上げる。
「私、……はっ…」
夜見が、私の頭の上に、手を置いた。
太陽みたいにあったかくて、じんわり、凍えた心が溶かされていくのを感じた。
「お前は、ちゃんと、止まれた。偉いよ」
夜見といると、泣きそうになるのはなんでだろう。
「俺みたいに、全て破壊してから気づくようじゃ、遅いからな」
優しく、悲しく、寂しそうに。
夜見は笑った。
思えば、私は夜見が明るく笑ったところを、見たことがない。
私には、何ができるだろう。
「……っ、夜見は、私を、救ってくれたよ……っ」
夜見の切れ長な瞳が、大きく見開かれた。
「私を止めてくれたのは夜見だよ。連鎖を断ち切ってくれたのは夜見だよ。だから、夜見は、……夜見はっ、
すごいんだよっ!ありがとう」
小学生みたいな答えだった。
でも。
私は初めて、彼の笑顔を見た。
次の日は、海が風邪から回復して戻ってきた。
私と夜見が親しそうにしているのが気になったのか、
「何かあったのか」
と聞いてきた。
そうか、確かに私と夜見はあまり仲が良くなかった。
知らない間に仲良くなっていたら、驚くだろう。
「えっとね、…っ」
説明しようとした口をふさがれて、びくりと体が反応した。
私の口を塞いだのは、夜見だった。
「別に、なんも。水瀬には関係ないだろ」
あれ?
この二人って仲悪かったんだっけ?
覚えにないけど、あんまり口出ししない方がよさそうだ。
「関係ないってなんだよ。俺と沙羅は、お前よりずっと長く一緒にいるからな」
「あ?……俺、だって、」
夜見が私の口から手を離して、本当の喧嘩が始まりそうだったので、慌てて止める。
「二人ともやめてってば」
すると二人は何とか我に返ったようで、いったん落ち着いたようにみえた。海は、何かを決めたように、私の名前を呼んだ。
「沙羅、」
「ん?」
「話が、ある。帰り、ちょっと時間あるか?」
今日は特に用事もないし、私は素直にうなずいた。
「いいよ」
そう答えたときの夜見の顔が少し複雑だった理由は分からない。
「あのさ、沙羅」
帰り、私たちは約束通りに話をした。
「うん」
「お前のこと好きだ」
コンクリートの地面を踏みしめながら、海が言った。
何だ今更、と思った。
「ん?いや、私も好きだけど」
「……そうだよな、やっぱだめ……って、え?は?どういうこと?」
「だから、普通に好きだって。ずっと一緒にいるんだし」
真剣に答えたけれど、海はがっくり、という効果音が出そうなほどに肩を落とした。
「そういう意味じゃないって……」
そういう意味。それが何なのかは分からなかった。
「あ、でもね、最近、海の好きとは違う、好きな人ができたんだ」
「はっ……?」
「何だろう、すごく、素の私を、ちゃんと見てくれる人なの」
海のことが好きっていうのが、幼馴染としてなら。
夜見に対して好きっていう気持ちは、何なのだろう。
家族……ではないな。
友人でなければ……、あれ?
これ、そういうことじゃ?
やっぱり、そうだよね。
物語の世界でしか知らなかった、この気持ち。
桃色の、感情。
ああ、これ。
「………今、私、恋してる。」
私は、夜見に、恋してる。
それが分かった、瞬間だった。
胸のあたりを、きゅっと抑えると、鼓動が聞こえてきた。
海は、笑った。
すごくうれしそうに、寂しそうに。
「……そっか」
「うん」
「……よかった」
「うん?」
私は決めた。
告白しよう、夜見に。
桃色の空を見上げながら、誓った。
そして。
屋上で、私は夜見に伝えた。
スカートのすそを握りしめながら。
「好き」
たった二文字。
それを言うのに、どれだけ時間をかけたかわからない。
長い沈黙があった。
どんな答えが返ってくるのか、わからなかった。
わからなかったけど、楽しみだった。
「…………ああ、俺もだ。…………奇遇だな」
「えっ?」
「好きだよ、沙羅」
名前呼びは、さすがに、ずるい。
「好き、だよ、楓」
私たちは、恋人になった。
でも、もちろん、今までしてきた罪が、解決したわけじゃない。
まだ、私たちにはするべきことがあった。
私は、穂香に、誠心誠意、謝った。
毎日。
毎日。
毎日、呆れられるほどに。
するとある日、
「もういいよ」
と、困ったような顔で、笑ってくれたのだった。
楓も、内臓を破裂させた、その人に謝りに行った。
まだ病院での入院生活が続いているらしく、楓は電車で3時間もかかる病院に、毎日謝りに行った。
私が深入りすることではないので、毎日、駅で楓のことを待った。
「どうだった?」
と聞くと、いつも暗い表情で首を横に振るのだった。
きっと、相手は許してくれないだろう、と楓本人も言っていた。
だから私は、
「そんなの当たり前でしょ」
といった。
私たちは、相手に傷を残したのだから。
許されない。
でも、立ち止まった。
それ以上、進まない選択をした。
だからこれからできることは、罪を認めて謝り続けることだ。
相手が許してくれるかどうかなんて、関係ない。
謝罪の気持ちは、いつも忘れない。
私は楓を抱きしめた。
少しだけ、見えてしまった楓の涙は、見なかったことにしてあげようと思った。
そして、もう一つの問題は、家庭のことだった。
でも、私の方は、少しだけ変化があった。
母親が、殴ってこなくなった。
前の父親も、呼ばなくなった。
派手に染めていた髪色ももとの黒髪に戻して、身なりもきちんとするようになった。
ぐちゃぐちゃだった部屋も、掃除してくれるようになった。
なにがお母さんをそうさせたのかはわからないけれど、少しだけ、帰ることができる家になった。
ある日、「ごめんね、ずっと」と謝られた。
私は、少し迷って、でも、「いいよ」と答えた。
まだ、昔のように会話したりはできないけれど、少しずつ前進している気がする。
楓は、弟たちを連れて親戚の家に行こうかと思っている、と言っていた。
今するべきなのは、親と戦うことじゃなくて、弟たちを守って、自分を大切にすることだと、判断したのだ。
私たちは、
お互いが決めたことは、お互いに応援すること。
辛くなったら、いつでも逃げ出すことを、
約束した。
私たちは、支えあっていける。
助け合っていける。
癒しあっていける。
きっと、いつまでも。
穴を抱えて、それでも、両手からあふれるような幸せを自分たちでつかみ取っていく。
楓となら、それができる気がした。

