夜と朝と君と


きっと、私の中には、穴があるんだ。
埋まることのない穴が。
私はその穴を抱えて、生きていく。
君と一緒なら、どこまででも。




























2.無彩色

「やっ、…やめてくだ、さい……お願いします」
泣き崩れるクラスメイトを前にしても、何も感じない。
ただ、無機質に、「やれ」と指図する。
みんなが一斉にそいつを蹴り始める。
「はいはい、もっと強く!」
「そうだよー、甘い甘い!」
隣で手を叩きながら盛り上げているのは親友の梨々花と瑠衣。
別に蹴れとまでは言っていないけれど、まあいい、訂正するのも面倒だ。
10分程度だろうか、ひとしきり終わったところで、「もういい」と言ってその場を離れようとした。
その瞬間、痣だらけになったクラスメイトが、私を見つめた。
私はその瞳を見て、絶句した。
――――憐れんでいるような、瞳だった。
可哀想に、とでもいうような。そんな瞳をしていたのだった。
私はそういうやつが、一番嫌いだ。
「…お前…っ…」
殴りかかろうかと思い、手を挙げたが、後ろから誰かに抑えられた。
振り向くと、海の暗い顔がそこにあった。
「……海、」
「やめとけ、面倒なことになるから」
確かにそうだ。顔に傷をつけたらさすがにばれる。
思い切り睨み返し、暴言を吐きながらその場をさった。
後ろから、あの瞳で見られていると思うと、怖くて、怖くて仕方がなかった。
「大丈夫?」
「俺、なんか冷やすもの持ってくる」
泣きながら痛みにもだえるクラスメイトを、男女二人が励ましていたけれど、海の友達だから、見逃してやった。
他の奴だったら、絶対に許さなかった。

でも、そんな気持ちも、すぐに消えた。
私たちが教室に入った瞬間、室内がしん、と静まり返ったのが分かったからだ。
これがいじめのいいところだ。優越感に浸れる。
私はお前らとは違う。
それが実感できるこの瞬間が、私は好きだ。
無力だった、あの時の私を忘れられるから。
今では、私が通るところは、誰もが道を空ける。これがカースト上位の力だ。
くだらない授業を聞いて、つまらないいじめをして、たまたま目があったやつに絡んで。
そんな、意味のないことを繰り返した。

「沙羅、帰ろうぜ」
海は、私の幼馴染だ。私のことをたぶんこのクラスで一番理解してくれていると思う。
家のことも知っているから、話していても、多少は気が楽だ。
「…帰ろ」
鞄を片手に、私たちは教室を出た。

「本当に腹立つんだけど、あいつ。なんだっけ、下の名前が穂香で…」
「あー、西川のことか?」
「そうそう、そいつ。本当に嫌なんだけど」
私がそういうと、困ったように海は笑う。
ここ最近、ずっとそうだ。
私が何かを言うたびに、困った顔で笑う。
嫌われた?
そんなわけない。私たちは生まれてこの方、ほとんど離れたことがない。
その分だけ強くつながっているはずだ。
「ねえ、なんでそんな顔するの?私のこと、……嫌いになった?」
わかっていても、不安になる。
私の悪い癖だ。
わかっているのに。
海は私を裏切ったりしないって。
嫌いになるなんてもっとないって。
知っているのに。
どうしても、そう思ってしまう自分がいる。
海はやっぱり、「そんなわけないだろ」とすぐに否定してくれた。
「嫌いになるわけねえだろ。ずっと一緒にいるんだし」
昔通りの、優しい顔で笑ってくれた。
「…うん、そうだよね、考えすぎちゃった」
「そうだよ。絶対嫌いにならないし、いつでも味方だ」
こんなことを言ってくれるのは、海だけだ。
いつも。
小さいころから、私が泣くとすぐに駆け付けてくれた。
意地悪をしてきた男子たちを、成敗するとか言って、結局ボロボロになって帰ってきたあの日のことを思い出す。
海には、何を言ってもいいんだ。
安心すると同時に、思わず我慢していたものがぽろりと出てしまった。
「お母さんがね、」
お母さん、という単語を出すと、海は真剣な顔をして聞いてくれる。
「昨日さ、家に知らない人、連れて帰ってきたの」
「……うん」
「怖かったの。お酒も入ってて」
「……うん」
「それで、なんで家にまで入れてんの、って怒ったらさ、」
「……うん」
「……殴られた。」
「………そっか」
「……怖かったの」
止まらない水が、決壊したダムのように流れ出す。
「怖かったよな。よく頑張ったな」
そういって優しく私の頭をぽんぽんと撫でる。
温かい手。
私が唯一、安心できる手。
海は、兄のような存在で、ずっと傍にいてくれる。
ずっと、この時間が続けばいいなと思った。
でも、時間は過ぎていくものだ。
やけに幸せそうな音のチャイムが流れて、私たちは、その場でわかれた。
早く帰らなければ、今日食べるご飯がない。
『帰りたくない』
その言葉だけは、飲み込んだ。
もう、海を困らせたくない。
「じゃ、また明日な」
約束を思い出す。
小さいころの、あの約束。

『海、ばいばーい!』
いつものように手を振ると、海はぴたりと動きを止めて、呟いた。
『…沙羅、ばいばい、はやめようよ』
『えー?なんで?』
『これからずっと会えない気がしちゃうから』
『そうかなあ。じゃあ、なんていえばいいの?』
『そうだなあ……。あ、それなら、沙羅、約束しよう。』

―――別れるときだけは、必ず笑顔で「またね」って言う!
笑顔で。
「またね、海」
その言葉を口にすると、明日に光が見える。
ほんの少しの希望を抱えて、家に帰った。

「…た、だいま」
室内は暗く、静まり返っている。
電気をつけると、誰もいないみたいだった。
散らかっている部屋の中を片付ける。
たぶん、お母さんがまたあいつを連れてきたんだ。
離婚したくせに、だらだらと関係を持ち続けている二人。
許せない。お母さんのことも、あいつのことも。
でも、だからこそ、大切な思い出は胸にしまい込む。
幸せだったころの、思い出。
時々取り出して、眺めるようなものでいい。
そして最後に、結局残されたのは、
悲しいほどにくだらない、滑稽でみじめな現実だ。