「あっ!」

 少女が声を上げた時は、栗色の毛束が目の前を舞って落ちた後だった。

「ちょっとだけ切るつもりだったのに……」

 眉上、横一直線に揃ってしまった前髪を呆然と見つめる鏡の中の自分と目が合う。
 見慣れない額の広さに戸惑い、後悔のため息が出た。切ってしまった髪は、布と違って糸で縫って繋げるわけにもいかない。

 少女は気を取り直して、店の開店準備をするために洗面所を出た。



  *    *    *



 朝の光を浴びて、王宮の庭園の草花は瑞々しく輝いていた。初夏のやわらかな日差しが、花々の色をいっそう鮮やかに映し出している。
 薔薇が満開を迎え、その香りが風に乗りほのかに漂う。その隣では、早咲きのラベンダーが穂を揺らしながら咲いており、紫の絨毯のように地を彩っていた。やさしく漂う甘く清涼な香りは、薔薇の濃厚な芳香と重なって、庭全体を香りの楽園へと変えていた。
 その景色を、部屋の窓から一人の長身の青年が静かに見つめている。彼の視線は遠く、どこか思い出をなぞるように、咲き誇る庭園をそっと見つめていた。

「失礼します」

 軽いノックのあと、銀色の細いフレームの眼鏡をかけた青年が部屋へと入ってきた。
 声で、その人物が誰かわかっていた長身の青年は振り返らず、庭園を見つめたまま耳を傾けた。

「本日のご予定を確認いたします」

 眼鏡の青年は手に持った書類を開き、淡々とした口調で予定を告げる。戴冠式を目前に控え、王宮は日に日に慌ただしさを増していた。
 その準備は滞りなく進んでいる────筈だった。



  *    *    *



「絶対!絶対だよ!ちゃんとお渡ししてね!」

 王宮の門前で、兎耳の青年が声を張り上げた。麦袋ほどの大きさの包みを抱えている。彼が声を張り上げた理由は、それを託す相手がやんちゃ盛りの双子の少年と少女だからだ。

「もう、心配性ね!」
「大丈夫だよ!ボクたちに任せてよ!」

 得意気に言う双子に、彼は念を押して言った。

「これはとってもとっても、とーっても大事なものなんだ。チョコレートのついた手で触ったりしたら絶対ダメだからね!」
「ひどい!子供扱いして!」
「そんなことしないよ!!」

 機嫌を損ねた双子は勢いよく包みを奪い取ると、そのまま走り出した。角を曲がり、行ってしまった双子の姿が見えなくなると、兎耳の青年が不安を振り払うように王宮へ戻ろうとした。その直後、

「わあぁ!」
「きゃー!」

 双子の叫び声が響き渡った。兎耳の青年は耳をピンと立て即座に駆け出す。

「どうしたの!?大丈夫!?」

 角を曲がった先の石畳の上で双子は尻もちをついていた。兎耳の青年は近くにいた双子の少女を抱き起こす。少女が怯えた様子で小さく呟いた。

「か……」
「か?」
「かいと……」
「カイト?」
「怪盗ジェドが現れて……」
「え…?ええ?そんな、まさか!?……ええええぇぇぇ!?」

 兎耳の青年は飛び跳ねた。

 怪盗ジェド────世界でその名を知らない者はいない大泥棒。

 彼は必死に辺りを見回す。けれど、どこにもない。あの大事な包みが影も形もなく完全に消えていた。血の気がサァッと引いていく。

「ま、まさか……包みは……!?」

 少女は視線を落として言った。

「怪盗ジェドが、持って行っちゃった……」
「そんなぁ!!だ、だって、あれは…あれには……!!」


 ────戴冠式のマントが入っていたのに!!!!



  *    *    *



 一方その頃。
 ゆるやかなウェーブの長い金髪を後ろで一つに束ねた青年が、国境の入国審査を受けていた。旅芸人風の装いながら、鮮やかな色使いが目を引く服はどこか舞台衣装めいていて、ただの旅人には見えない。俳優のように整った顔立ちは、通行人の女性たちの視線を一身に集めていた。

「よし、通っていいぞ」
「はぁい。どうもありがとねぇ」

 妖艶な女口調に、熱視線を送っていた女性たちの目が一斉に点になった。熱視線は驚きに、そして驚きから好奇心に変わる。
 この口調は貴族相手に髪結いや化粧を施してきた日々の生業の中で、自然と身に付いたものだった。
 思いがけぬ紹介から大きな仕事へと繋がり、彼はついにこの国へと辿り着いた。

「さて、まずは腹ごしらえっと♪」

 彼は軽やかな足取りでセントラル街へと歩き出した。



  *    *    *



 下町のお針子店『Charlotte―シャルロット―』から少し離れた所に一台の辻馬車が停まっていた。建物の影に潜むように停まっており、外からは馬車の中の様子を窺うことはできない。だが、その馬車に乗っている人物は白金の髪に左目に黒い眼帯、仕立ての良い黒いスーツを身にまとい、高貴さを漂わせている。明らかに下町に不釣り合いだった。

 店のドアが開き、栗色の巻き毛に、エプロン姿の小柄な少女が現れる。つい先ほど、切りすぎた前髪に小さなため息をこぼしていた少女だ。
 彼女は店の扉に『open』の札を掛け、両脇に並んだハーブの鉢植えを見回る。葉の様子を軽く確かめてから、店の中へ戻っていった。

 その様子を、馬車の中の人物は窓越しに静かに見つめていた。少女が店の扉の向こうへと姿を消すと、人物はそっと窓を数度叩き、御者に出発の合図を送る。

 馬がゆるやかに歩き出し、辻馬車は静かにその場を後にした。