さらは息を吸い込んでから切り出した。

 「わたしにはサラ・フィフの記憶があります。でも、そのサラは実は三年近く前に死んでいます……」

 意味を取りかねたキシリアの眼差しを避けるように、彼女は話し続けた。

 「え」「でも」「そんな」……。相槌とも違う独り言がキシリアの口からはもれた。直接の問いではなく、話を遮るのでもない為、さらはともかく過去を語り続けた。

 長い時間ではなかったが、短くもない。ダリアに続いて二度目だったから、上手くまとめられたと思う。

 話し終えると肩の力が抜けた。

 さらは目を伏せたまま、矢のように振るだろう質問を待った。

 どれほどかの後でキシリアの声がした。

 「ダリアはこの話をあなたにさせたかったのね」

 「はい。近いうちにクリーヴァー王子様がセレヴィアにいらっしゃるのだそうです。それでお城を出て、どこかに居候をさせてもらおうと考えました。ダリア様はそれならあなたの許可が要るとおっしゃったのです」

 「王子にお会いしてはいけないの? 身を隠して避けるのは違うような気がするわ」

 ダリアとほぼ同じ問いが返った。それにも彼にしたのとほぼ同じものを答えた。

 「あなたの思いもわからないではないけれど、王子には大恩人でしょう。会えたのならおっしゃりたいことが山のようにおありよ」

 「リヴが求めているのは邸にいたサラです。死んで甦ったわたしはそのサラであるのかさえ、不確かです……。もう彼は次を生きています。幽霊みたいなわたしに会うことは、結果、迷いにしかならないと思います」

 「わたしなら、恋しい人には幽霊でも会いたいわ」

 「せめて、彼の中のきれいな思い出で終わってほしいんです」

 キシリアはそれ以上さらの意思を止めなかった。

 打ち明けたことで虚脱していたが、どうしても聞きたい不思議なことがある。

 「信じられないとか疑わしいとか、嘘だとか……思われませんか? 自分でも奇想天外な話だと思います。だから、言えずにいました。変な人間だと思われたくなったんです。ダリア様は今も半信半疑のようですから」

 「もちろん信じ難いわ。実際家のダリアならなおのことね。でも、こんな大掛かりな嘘をつく理由があって? もっと簡単な身分のごまかしようがありそうなものよ」

 そう言われると救われる気分だ。芯からほっとする。

 嘘つきだと人格を否定され、嫌われてしまうのではないかと怖かった。

 「それに、あなたの腕輪。前にも言ったけれど、王子が同じものをつけていらしたの。きっと縁の方だと思ったわ。あの方からの頂き物なの?」

 ここで更に『セレヴィア点』の話などできない。物わかりのいいキシリアでも、さすがに理解を超える。妖術だのと疑われて『魔女裁判』だってないとは言えない。

 ごく端折った事実を話した。

 「気づいたら腕にありました。邸でいただいた記憶はないんですが……」

 「そう。でも王子が下さったに違いないわ。あなたに差し上げた後で、同じ物を作らせて身につけていらっしゃるのなら話が通るもの。「氷の君」は名ばかりで、本当はそんなお心をお持ちなのね」

 腕輪は『セレヴィア点』で王子がくれたものだ。さらには話が通らないが、そこは曖昧いに頷いておく。

 それよりずっと気になるのが「氷の君」だ。

 「王子様のお噂って、何でしょう?」

 「あなたには言いにくいのだけれど、笑われないお方だと評判のお方なの。そんなご様子から「氷の君」と王宮では囁かれているそうよ」

 その様子はそのまま『セレヴィア点』の王子に繋がる。彼の笑顔は意地悪な感じのする皮肉な笑みだった。

 しかし、サラの知る王子は彼女の目に眩しいような笑顔を見せてくれた。

 その変化にはサラの死が大きな起因となっているに違いなかった。二人の閉じたあの世界が壊れた時、王子の何かもきっと壊れてしまった。

 さらは似た年頃に両親を失った喪失をそこに重ね、ひどく胸が痛んだ。何を見ても涙が浮かんでくる時間を通り抜けて今がある。

 (リヴがサラを失ってまだ二年ほど……)

 笑える心境にはとてもなれないだろう。

 知らず、頬を涙が伝っていた。それが次の涙を呼び、嗚咽を堪えるほど強いものになった。

 笑わないのはそうできないから。『邸点』の頃とは違い、身分に重さが加わって周囲に人々が増えても彼は幸せではない。

 王子の命が何より大切で、それと引き換えにサラは崖に身を投げた。それが彼女の中の絶対の正義だったが、そうなのだろうか。

 この先、二十歳の彼も幸せそうではなかった。さらに執着したのはサラに深く囚われているからだ。

 サラの決断は王子を歪めてしまったのではないか。一番大事なものを守ったつもりで、サラの行為は彼を損ねる結果になった。

 (傷は癒えても、元には戻らないのでは……?)

 「サラ……。王子は怜悧なお方よ。ご自分を失うようなことはなさらないわ。いずれ落ち着かれて、きっとそう、新たな恋をなさるようにもなるわ」

 さらはキシリアの声に涙をしまった。王子を不憫がるだけで、涙は彼に何も利さないことに気づいた。

 「そうですね……」

 彼女が落ち着くのを待って、キシリアが言う。

 「王子がいらっしゃる間城から出て、学校に移るのはどうかしら? 子供たちと遊んであげれば、あなたのお気持ちも少しは紛れるのではないかと思うの。わたしも訪問し易いから、イアも連れていけるわ」

 「はい。ぜひお願いします」

 さらは二つ返事だ。学校に居候なら、役に立てることも多そうだ。王子の話で気が滅入ったが、無理に意識をそっちに向けた。

 話が済み立ち上がる。

 「では、中に戻ってお茶にしましょう」

 「はい」

 「ダリアに報告なさる?」

 「晩餐の後にでもそうします。実はこの午前にもいらっしゃったのです。やっとお返事ができるので嬉しいです」

 「あのね……、あのことは黙っていてほしいの」

 「え?」

 「その……、わたしの勘違いのことよ。恥ずかしいから。お願いね」

 「はい」

 無駄話を嫌うダリアに余計なことを言うつはりもない。

 その日の晩餐後、さらは彼にキシリアと話したことを告げた。ダリアは頷いてすぐに踵を返した。実にあっさりとしたものだ。

 その態度を見れば、キシリアの勘違いがどれほど見当違いかよくわかる。彼はさらに興味などない。

 キシリア自身は意識しているかどうか。彼の姉を見る目の優しさは別格だ。

 一度でもあんな風に見つめられたら、

 (心が溶けそうになる)

 そんな妄想はしない訳ではなかった。しかしごく淡い。

 さらは『廃宮殿の侍女』におけるダニエル・フォード伯爵を崇拝する、物語の傍観者の侍女を自分になぞらえている。だからか、彼の意識の外の存在だと改めて知ってもそう落胆もない。

 推しが推しらしく振舞ってくれることにちょっと感動すらある。その彼と同じ時間を共有できるのだから大満足だった。

 ここ数日の懸案が解決したので、自室に戻る足取りも軽い。その時、首筋にいつもの「あれ」を感じた。

 さらの頬から髪を撫ぜるように気配は流れ、不意にちくんと微かな痛みが刺した。思わず手で払った。虫かもしれない。

 その後、浴室で気づいた。洗い髪を拭いていると首に跡を見つけた。指で触れるが痛みも痒みもない。虫の刺し跡のようでそうではないのは、目を凝らしてよく見てからだった。

 強く吸われてできるキスマークだ。

 「あの」気配がしてから、そこに微かな痛みがあったことを思い出す。

 (どうして跡になるの?!)

 布でこするが取れる訳もない。彼女と入れ替わりに浴室に入ってきたキシリアらの叔母に会釈もそこそこ逃げるようにそこを出た。