さらが城に滞在して一年ほどが過ぎた。

 危急な事態がない限りダリアは晩餐に出席するために内区に戻る。その時に戦いが近々終わることを告げた。

 家族にさらを足しただけのいつも静かな場が、その時ばかりは歓声ににぎわった。

 「嬉しいこと! 戦果はこちらに多く分があれど、いつまでも続くのはたまったものではありませんでしたよ」

 キシリアとダリアの母バラがしみじみと語る。

 四年ほども続いた紛争は変わりないとはいえ。内区にも影響はあった。負傷兵の家族の慰問や手当てにバラもキシリアも働いていた。貴婦人である彼女らがそう振る舞うことで兵士間の士気も上がり、城の安寧を保つ一助になる。

 「母上方には長らくご不便をおかけしました」

 叔父夫妻も鷹揚に喜んでいる。

 「ともかく犠牲が少ないと聞いているから、何よりね。あなたも無事で本当に良かったこと。ロノヴァンにいた頃も不安だったけれど、近いからといって安心できるものでもなかったわ」

 「姉上は私が戦場に出向くのが不満でしょうが、そうはいかない場合もある。そこは多めに見てほしい」

 「まさか、あなたのやりように文句などつけるつもりはないの。無事だったから嬉しいだけ」

 姉弟の優しいやり取りだ。ダリアもこの日は寛いで見えた。これで責務が軽くなる訳ではないが、大きなものが肩から消えたのは確かだろう。

 慎ましく末席にいながらさらも喜んだ。

 晩餐終わりに、これまではすぐに表区に戻るダリアが、さらに声をかけた。話があるという。

 彼からの話は怖いものが多い。それが表情に出たようだ。彼は少し目を和らがせた。

 「あなたにお知らせした方がいいと思う事案が……」

 食堂にはまだ叔父夫妻がバラと話をしている。キシリアはちょうど部屋を出るところだった。ダリアもさらを促して部屋を出た。

 ダリアについて庭の方へ向かった。戸外はもう暮れてひと気がない。噴水の前で彼は止まった。泉を引き入れた水がしゃわしゃわと音を立てている。彼の人目を避ける様子が気にかかった。

 彼は辺りに目を配ってから、声を落として話し出した。

 「戦が終わるのはお聞きになったでしょう。あの場では言わなかったが、もう両国の終戦の調印待ちの状況になっている。宮廷からの和平条件も既にあちらの了諾を得た」

 聞きながらさらは相槌を打ちかねた。そんな重要な話を彼女にひっそり告げる意味がわからない。敢えて作った二人の時間も彼女を戸惑わせた。

 黙ったままでいると、彼は被せて言う。

 「宮廷からお使者が下る。クリーヴァー王子がお越しになることに決まった」

 (え)

 「将来的に陛下をお支えする摂政殿下になられるお方だ。経験を積まれる為にご自分から望まれたそうだ。陛下もお認めになって全権を委任されたという。今回は全て整った上での調印だけになる。外交を知られるにもまたとない場面だ」

 固まったままのさらをダリアの説明が通り過ぎて行く。

 (リヴが来る……!)

 その衝撃で思考が止まっている。

 「当然、城を上げての歓待となる。長いご滞在ではないだろうが、一月ほどはいらっしゃるかもしれない」

 「一月も……」

 困惑が押し寄せ、ようやく考えが動き出した。それだけあれば、隠れていてもきっと王子の目に留まってしまう。

 (まずい)

 さらは胸の前で手を握り、左右に目を彷徨わせた。頭は動いてもどうすべきかも浮かばない。うろたえるだけだった。

 ダリアがその様子に小さく笑った。

 「密偵であれば、あなたはよほど優秀な部類だろう。それほど真に迫った演技ができるのだから。そうであるのなら、王子のご到着前に姿をくらませればいいだけの話だがな」

 その冗談混じりの口調から、彼の中のさらへの疑惑は随分と薄らいでいるのがわかる。もちろん全く疑いを解いた訳ではないだろう。

 しかし王子の来訪を伝えてくれたことから、彼女への敵意は感じられない。それが残るのなら、黙って王子に面通しをさせればいいだけだ。それで疑いに白黒がつく。

 ダリアの微かな信頼を得たことは嬉しいが、差し迫った危機は変わらない。

 (お城にいれば見つかってしまう……。ここを出ないと)

 「誰かの家に居候させてもらえないでしょうか?」

 「それは可能だが、姉の了解が要る」

 そうだ。さらが不意に城を出ればキシリアは不審がるし、まず心配をかけてしまう。ダリアがそういう措置を取った体にするにも理由が要る。

 さらは目をつむった。

 「姉に私にしたのと同じ話をなさればいい」

 「それは……」

 ダリアはふっと笑った。

 「あの話を私にぶつける勇気があって、まだわかりの良さそうな姉にはできないとは、な」

 「それは、あなたが大伯母の手紙を持っていたらから……」

 「ともかく、姉の了解を得たら教えて欲しい」

 それでダリアは身を翻した。

 一人残ったさらはしばらくその場に立ち尽くした。体が冷え出して我に返る。

 自室に戻り、椅子の上で膝を抱えた。ダリアの話が頭を巡っている。

 王子が来ること。避けるために城を出なくてはならないこと。その為にはキシリアの理解が必要なこと。

 ダリアは自分に打ち明けられたのだから、と皮肉ったが、あれはそうするしか他に道がなかったから。

 さら自身も信じ難い話だ。それが拒絶されなかったのは、サラの痛みと感情が彼の何かに触れたのだろうとも思う。

 同じことをもう一度、今度はキシリアにすればいい。

 さらにはそれが飲み込めるが、心の別な部分でサラが切ながっている。真実を話すことは過去を振り返ることだ。このところ、彼女の過去が傷のように新たに疼く。キシリアに話すことでまた、それは生々しく痛むだろう。

 サラの痛みはさらのものでもある。あの重い衝撃が心を埋めると思えば、少し怯んでしまう。それに、何より、

 (サラが可哀そう)

 この過去の揺り起こしは王子が原因だ。彼が、彼の気配がふっと現れてさらを包んでいく。実体はない。なのに肌をかすめるような指先の感触があったり、風のように触れる口づけもある。

 そんな時、サラは「リヴ」と心で応えている。さらも感応して同じく彼を感じていた。

 さらとサラ。思考が二つあるのではなく、それぞれの過去が合わさって一つの人格を成している。サラの過去が尾を引いて、今感情を乱していた。

 あの現象は何なのだろう。気のせいでやり過ごすには多く、はっきりとした感覚もあった。もう錯覚で誤魔化せない段階にきていた。

 何気なく腕輪に目をやる。

 (これが……)

 これが影響しているのではないか。腕につけていなくても、現象はある。側にあると作用するのかもしれない。腕輪自体の力なのかとも思う。

 由来は知らないが、元は王子の腕にあったものだ。単なる装飾品ではなく護符のようなものだとしたら、何がしかの呪力があるのもおかしくない気もする。

 だとすれば、その呪力によってまやかしを見ているのだろうか。もちろん答えはない。

 考えるのではなく、その心を鎮める為の時間だった。気分転換に浴室へ向かった。湯に浸かりさっぱりすると気持ちも上向いた。

 (どうであれ、キシリア様には話さないと)

 気は乗らないが、これは義務だ。

 キシリアとその叔母にお茶を誘われた。サロンで少しだけお喋りをして寝支度に皆下がった。内区は夜が早い。十時にもなると皆自室に下がってしまう。さらもこの生活にすっかり慣れ、もう眠気がさしていた。

 ベッドに入り横になった。腕輪は浴室に向かう時に外し既に手にはない。いつもそうだ。

 そこで、頬に空気の圧を感じた。触れるように留まり唇に逸れる。咄嗟に指で払った。身勝手に口付けられるかのようなそれが癪だった。

 それは髪に流れ、首筋にいる。腕をなぞるように動くから身を縮めた。くすぐったいし、何より気味が悪い。腕輪の呪いだという発想が頭から抜けなかった。

 「止めて」

 きつめに言うと不思議なことに現象は止む。

 そんな時、ふと『邸点』の王子を思い出してしまう。サラを抱きしめて、彼は口づけたがった。それを拒むと叱られたような悲しげな表情を見せた。

 さらにも記憶がある。

 『セレヴィア点』の王子は、彼女がきっぱりと拒むと決してそれ以上の行為には及ばなかった。あの時の顔は『邸点』のそれによく似ている。

 横暴で言葉少なく身勝手だったが、さらが自分を守ろうとするのを許してくれていた。今ならそう思う。

 (そんなに悪い人でもなかったのかも……)

 それにサラが喜ぶ。さらの王子への見方が改まれば、嬉しいのだ。胸が温かくなるからわかる。

 目を閉じた。

 瞼に軽く触れるものがある。気づくとすぐにそれは消えた。