男性の側にはマントを背に流した人々が剣を提げ控えている。物語の中に飛び込んでしまったかのような光景だ。

 「そなたはどこから来た?」

 事態にのまれ黙ったままのさらへ男性は問いを繰り返した。

 「盗賊にでも遭ったのか?」

 「いえ……、そうでは…」

 「咎めているのではない。領内に盗賊が出るのは重大事だ。被害に遭ったのであれば教えてほしい」

 「……わからないのです……」

 さらの答えに男性は眉根を寄せた。周囲の人々もさらを不審な目で見つめている。それらの視線に惨めな格好で晒されていることが辛かった。

 いつしか彼女は泣き出していた。緋の布を落とさないように脇で抑えながら顔を覆った。

 「難儀だな」

 ぽつりと男性の言葉が降った。何かを側の者に伝えている。それはさらには聞き取れなかった。それだけで男性は身を翻した。人々が付き従う。少し離れた場所に馬が何頭か見えた。その一つに男性は騎馬した。

 (馬)

 ぼんやりとそれを目で追っていると声がかかる。男性の従者らしい一人だ。

 「お前はどこか行き先のあてがあるのか?」

 「何も……」

 「閣下が城に来てもいいとおっしゃる。来るか?」

 願ってもない。ここがどこか全てが謎だが、男性の「城」は安全な気がした。さらは頷いて答えた。

 従者の馬に相乗りさせてもらい「城」に向かう。

 だらだらとした道を抜け、雑木林を過ぎたところで「城」が姿を現した。ぐるりと堀を巡らした石造りの巨大な建造物で、高い位置に櫓が設けられている。見たことのない旗が掲げられ風にたなびいていた。

 堀に架けられた橋を渡り城の中に入った。中は石敷きの大きな広場になっていて、兵士のような人々の姿がある。「閣下」と呼ばれた男性は中で馬を降り、奥の通路へ行ってしまった。

 さらは馬に乗せてくれた従者に連れられて、建物の中に入った。石の通路は長く伸び、足の裏が痛むのを堪えてついて行った。

 連れられた先は、城の中の城主の居住スペースにあたる部分のようだ。剥き出しの石壁は消え、優雅な調度品が設られている。

 そこで従者はさらを中年女性に引き渡した。

 「ここで頑張れば食うには困らない。俺はスヌープだ。頼ってくれていい」

 「ありがとう。わたしはさらと言います」

 スヌープと別れ中年女性に向き合った。彼女はメイド頭のリビエと名乗った。さらをじろじろと眺め、ついてくるように命じた。向かった先は質素な小部屋だ。

 リビエはベッドにメイド服を投げ、着替えるように言った。部屋を出る気配もない。一人にしてくれと返せる雰囲気ではなかった。背を向けて緋の布を落としメイド服に着替えた。清潔な肌着もあったのは実にありがたかった。

 「大事なマントをこんな風にお使いになるなんて」

 リビエは緋の布を丁重に畳む。さらへ男性が渡してくれた布は彼のマントだったらしい。従者の背にもマントがあったように思う。色が違ったが。

 マント。巨大な石の城……。目の前のリビエも古風なワンピース姿だ。さらも今は同じ姿になっている。

 『廃宮殿の侍女』の登場人物ダニエル・フォード伯爵そのものの男性が現れた驚きが勝ち、深く考えなかったが、ここはどこなのなろう。

 「ここはどこですか?」

 リビエはポケットから出した靴を床に落とし、さらに顎で示した。足を入れてみると硬い革でできている。裸足より遥かに快適だった。

 「こちらはセレヴィアの中のルベリー。ガラハッド様のシュバル城よ」

 いずれの地名にも聞き覚えはない。「閣下」と呼ばれていた彼がガラハッドなのだろうか。さらのいた場所とはまるで別世界だ。電車を降りた先と今のこの場所がつながっているようには思えなかった。

 ではここはどこなのか。

 答えを導くものは頭の中に何もない。この先の恐怖が湧き上がる前にリビエが仕事を命じた。

 「付いてきて」

 中庭をぐるりと回廊が囲んでいる。早足の彼女に付いてさらも小走りになった。着いたのは大きな浴室だった。タイル張りの床を他のメイドたちが磨いている。

 「あたしが戻るまでに磨き上げておいて」

 リビエはさらを他のメイドに任せると浴室を出て行った。彼女が去るとメイドたちの目がさらに向かう。一人がブラシを投げて寄越した。

 「あんたでしょ? 村外れで裸で捨てられていた女って」

 好奇心に満ちた目で見つめられ、さらは返事ができなかった。ここに着いてさほど時間は経ってない。情報の伝わりが早いのに驚いた。

 「何にも覚えていないって、よっぽど怖い目に遭ったのね。可哀そうに」

 「気の毒だけれど済んだことはしょうがない。ここに拾われて助かったわね」

 彼女たちの認知では、さらは暴行されて捨てられた可哀そうな女性となっている。怪我も痛みもなくその線は薄いと安心していたが、裸でいたのは事実だ。意味がわからないだけにそこは本当に怖い。

 リリ、ココ、スーとそれぞれ名乗った。気さくで親切そうだ。年も近い。さらも名乗り返した。

 「リビエは厳しいけど根は悪くない。真面目にやっていれば大丈夫よ。うるさいのは管理官よ。内区のボスみたいに威張っているの」

 「内区?」

 「内区はお城のガラハッド様のお住まいの部分のことよ。兵士がいたのは表区。ここは要塞だから区別がしっかりしているの」

 「セレヴィアは領土が他国と接しているの。前の戦いから和平条約が締結されてニ年だもの。やはり緊張感はあるわ」

 「ガラハッド様というのは?」

 「セレヴィアの領主よ。代々のガラハッド様がここを守られているの。今はダリア様がご当主をお務めよ。表区では「閣下」となるけれど、内区ではお名前でお呼びするわね」

 やはりさらを救ってくれたのは、当主のガラハッドに違いないようだ。貴公子という点で『廃宮殿の侍女』と同じ。類似点に気持ちが震える。

 「ダリア様を悪く言う人もあるけれど、頼りになるお方だし立派な領主様だわ」

 「そう、前の戦いで武功も立てられたし。兵士の信頼も厚いわ」

 床を磨きながらさらはリリたちの話を聞く。「前の戦いの武功〜」よりもその前の彼を「悪く言う人もある〜」が気にかかった。

 それを問おうとした時、後ろから声がした。

 「敵国のたくさんの兵士に乱暴されて、捨てられたのではないの? ねえサラ」

 振り返ると金髪をきれいにまとめたメイドがさらを見ていた。言葉のキツさより彼女の呼びかけた「サラ」が耳に響いていた。こちら世界では「さら」より「サラ」が確かに似つかわしい。

 (「こちらの世界」って、何?)

 腑に落ちてしまった自分も不可解だ。

 「ジジ、ひどいわよ。言い過ぎよ」

 「適当なことを言うものじゃないわ」

 「謝りなさいよ」

 リリ、ココ、スーの言葉にジジと呼ばれた金髪のメイドは何も返さない。きつい目でさらを見つめてついっと逸らした。彼女たちから背を向けて窓を磨き出す。

 「ジジの言うことは気にしないでいいわ。嫌味を言うのが好きな変わり者だから」

 「……きれいな人」

 さらの呟きにココが唇を突き出した。

 「ちょっとだけ美人なのを鼻にかけている嫌な人よ。ほんのちょっとだけなのに」

 「表区の兵士に人気があるからって、いい気になっているのよ」

 「そういうのもあって、わたしたちメイドを下に見ているの。自分だって同じ身分なのに、馬鹿みたい」

 しばらくはジジに関する話題が続いた。ほぼ悪口だった。評判の悪い人物のようだ。さらの投げられた言葉だってひどいもので、それも頷ける。

 浴室の掃除が終われば、別の部屋に移動して掃除が続く。リリ、ココ、スーと一緒だ。てきぱきこなしながら他愛のない彼女らのお喋りも続く。それを聞きながらふと笑っている自分にさらは驚いた。

 女同士の朗らかな雰囲気が恐怖をまぎらせてくれている。信じられない非日常の中に放り込まれたままなのに。

 しかし、それでいいのだとも思った。不安に溺れてパニックになってもここから抜け出せる訳ではないだろう。

 それに、さらを助けてくれたダリアという男性の存在も大きい。『廃宮殿の侍女』の登場人物のイメージに酷似した彼を、初めて会ったとはとても思えなかった。小説の登場人物に過ぎず、更に彼女の憧れを込めてイメージした架空の存在のはず。

 胸の中のそのシルエットにダリアはぴたりとはまった。その感激と感動にずっと心の奥が甘く痺れたままでいるのも感じていた。

 (このお城にいればまた会える)

 自分の置かれた状況が夢であったとしても。おそらくそうだろう、とさらは考えている。その夢が覚める前にもう一度彼に会いたい。

 切ないほどにそう願った。