黄昏乙女は電車で異世界へ 恋と運命のループをたぐって

 サラは窓辺の本を手に取った。エイミが置き忘れたものだ。廊下で行き合ったその侍女に本を渡した。

 日がかげると寒さを感じた。サラは暖炉に火をつけた。屈んだ時に床の白い紙に気がついた。拾い、折り目のついたそれを何気なく裏返した。

 女性らしい文字が並ぶ手紙だった。

 咄嗟に目を逸らした。誰のものか不明でも私信は目に入れたくない。折り目の通りにたたむ時に末尾の署名が見えてしまった。

 『クララ』

 それはサラの母の名前だった。同じ名の女性も世間にいる。しかし、この邸には亡母の仲の良かった従姉妹のエイミがいる。

 (母がエイミ様に宛てたものかも……)

 それをエイミが持ち歩き落としてしまったと考えれば無理がない。

 そこへ王子が居間に現れた。この日の博士との勉強が済んだようだ。サラの手の紙に気づく。

 「エイミ様のものではないかと思うの。母の署名があるから、母からの手紙ではないかしら」

 王子はサラの手から手紙を抜き、ためらいなく開いた。咎める目を向けた彼女に構わず読んでいる。

 「リヴ」

 嗜めるが、彼は聞き入れず終いまで読んだ。サラに開いたままの手紙を突きつける。

 「姉やも読んで」

 「いけないわ。私信よ」

 「母上がよく口にする「手紙」は、きっとこれのことだ」

 エイミが取り乱した際に侍女がよく手紙の話を持ち出していた。彼女の気を逸らすのによく効く口実だった。

 その場しのぎの侍女の作り話と思っていた。侍女は側に仕えて長く、エイミの気分の扱いに長けている。そんな「手紙」が実在するとは考えもしなかった。

 「随分過去のことで書いた本人も世にいない。母上が病んだ理由にも繋がると思う」

 言葉に押されサラは手紙を受け取った。便箋を開く。母の日記などでその筆跡は知っていた。

 まだ若い頃の母が弾むような様子で綴っている。サラが目を走らせる間、面影もおぼろな母が確かにその中に息づいていた。

 『……お優しい方ね、話す様子にも思いやりがあるわ。ネイピアからいらした紳士の中では、わたしも一番素敵だと思うの。あなたにすっかり夢中なご様子よ。

 ねえ、次の音楽会には薄紅のドレスを着てこなくちゃ駄目よ。あれを着たあなたはとびきり紳士方の目を引くのだから。

 お茶の後で時間があるわ。その時三人になるの。わたしは少し離れて歩くから、二人でたくさん話すといいわ。この作戦なら伯母様の怖い目も誤魔化せるはずよ。

 どうしてあなたの思いをわかって下さらないのかしらね。リヴァイ様は立派な紳士よ。名流ではないというだけ。家が釣り合っても不幸な結婚の例も聞くのにね……』

 読み終えてサラは便箋をたたんだ。何度も読み返したらしく皺が寄った古い手紙だ。居間の床にあったのは、本に挟んだものが落ちたのではないか。

 手紙の中でエイミはある紳士に恋をしていた。二人は両思いで、それをサラの母クララが応援しているという図だ。

 エイミはその後王に見そめられ側室になる。手紙に書かれている二人の恋は破局を迎えてしまう。

 終わった恋。実らなかった思い。それを時を経て、どんな思いで振り返っているのか。

 (何度も何度も繰り返し……)

 感情を昂らせたエイミがこれを見ると心が和ぐのは、その眩しさの中に浸っていられるからだろう。その時だけ返らない過去を今に留めておける。

 「母上とリヴァイの仲を裂いたのは祖母上だろう。家格の低い男を嫌って父上に差し出した。あの言葉にはちゃんと意味があったんだ」

 王子の指す「あの言葉」とはエイミが昂った時に叫ぶ「あなたが仕組んだのでしょう? 卑怯な人。そうまでして家名を上げたいのね」のことだ。似たような文言で誰かを罵るのは、サラも耳にしている。

 「陛下のご意向に逆らえないでしょう。貴族ならなおのこと」

 「母上は「夜会が云々」ともよく言っていた。仲を裂く為に父上の目に留まらせるようにしたのだと思う。例の「薄紅のドレス」はとびきり男の目を引くらしいから」

 サラは思わず目を閉じた。

 彼女が館を出る際も大伯母は継母を金で黙らせていた。資金力だけでなく使えるものは駆使して意思を通す。

 (リヴの言う通り、あり得そう)

 王の寵愛を得てしまえば、他の男に嫁ぐなど許されない。家名に強くこだわる大伯母には願ったり叶ったりだ。

 恋を引きちぎられて側室となったエイミは、そこでも幸せにはなれなかった。

 (後宮には鬼のような人が棲んでいるもの)

 エイミの件があり、サラの母クララは大伯母に反発を覚えたのではないか。一族の長である大伯母の嫌う格下の男に敢えて嫁いだのは、意趣返しとも取れる。それで母はイング家と絶縁することになった……。

 大伯母には大伯母の譲れない考えがまたあるはずで、エイミを不幸にする意図などなかったに違いない。そうすることで娘を守ろうとしたとも取れる。

 非難するのは易しいが、その権利はサラにも王子にもないだろう。

 なじっていいのは当のエイミだけ。だから彼女は叫んで強い母に抗っている。届かなくても。

 ただ全てが終わってしまっていることが、サラにはひどく悲しい。

 「僕の名は「リヴァイ」が元なのだろう。母が名付けたから、きっとそうだ」

 彼の愛称の「リヴ」は確かに「リヴァイ」を思わせる。

 サラは手紙をポケットに入れた。後でエイミの侍女に渡さなくてならない。少しだけ滲んだ涙を指で拭った。

 「僕が読ませたせいだ」

 王子が彼女を背後から抱きしめる。首筋に顔を押し当てた。吐息が触れる。サラはその部分を熱く感じた。

 当たり前に王子は「姉や」だったサラを齟齬なく恋の相手にスライドさせていた。

 「姉やの全部が好きだ。顔も髪も匂いも……、何もかも好きだ」

 抱きしめる腕は彼女の抵抗を封じてしまう。そんな時彼にときめく。

 いつの間にこんなに力強くなったのかと、体に腕を回されるたびに思う。今は彼女の身長を抜いたばかりの背も、きっと見上げるほどに高くなってしまうのだろう。

 「サラは?」

 「……好きよ」

 「ためらったな」

 サラが怖いのは恋が進み過ぎることだ。手を繋ぎ見つめ合うだけだったはずが、するりとそれを超え、王子は彼女を抱きしめる癖がついた‘。

 甘えの延長のようでごく自然な触れ合いで、つい許してしまう。

 腕を解いた彼が彼女を振り向かせた。触れそうになる唇を避けて拒む。

 「駄目。いけないわ」

 「頬も駄目?」

 「止して」

 傷ついた表情を見るとサラはいつも罪悪感が増す。距離を縮ませてしまったのは彼女の側の落ち度だ。五つも幼い彼の罪ではない。

 同じだけの思いを返せるかと問われれば、それは無理が答えだ。

 自分の中の感情が王子への恋なのかもあやふやだった。可憐さと凛々しさが混じる姿にときめく。彼に求められている実感は彼女を高揚させる。確かに嬉しい。

 (それは、この邸の中でのこと)

 隔絶されたこの環境になかったら、王子を異性として意識することはなかったのではないか。

 五つも年下の、愛情に恵まれず育った彼の気の毒な面を「姉や」の存在が刺激した。そうして芽生えた歪んだ恋につけ込んでいるように思えてならなかった。

 王子は彼女を椅子に誘った。自分も隣に掛ける。彼女に身を預けるようにもたれた。

 「考えたことがある。王子を降りようと思う」

 「え」

 「僕が王子でなくなれば王位継承権も消え、隠れている理由もなくなる。そう父上に願い出ようと思う」

 サラの手に指を絡ませて語る声はいつものように淡々としていた。

 「王籍を離脱するだけで廃嫡でじゃない。僕は爵位をもらっておとなしく隠棲する。王宮から離れるから母上もそれが気楽だろう。父上にとっても外聞も悪くならない」

 「軽はずみに口にしていいことじゃないわ」

 「心外だな。よく考えた。この暮らしが今後何年も続くかもしれない。いや、数十年も……。姉やは嫌だろう?」

 サラは頬が引きつるのを感じた。彼の言葉を簡単に否定できない。その可能性は大いにあり得た。不安も期待も煽りたくなくてこれまで敢えて考えないようにしてきた。

 第一王子と異母弟のクリーヴァー王子。彼らの皇太子問題に決着をつけずにいた王の現状維持が今の現実を作った。

 「王位継承順位は第一王子が一位だが、健康に問題がある。それで保留にされて長い。更に残りの第二王子も虚弱で成人できるかも怪しいとなれば、ますます答えは出なくなる」

 「リヴは健康に育っているわ」

 「知ったら王妃はより苛立つ。その前に僕自ら王籍返還すれば全て丸く収まるじゃないか。父上も一番か二番かで悩まなくて済む」

 王子の瞳を受けながらサラはやるせなくなる。持っていたものを削って削って生きているような彼が、また大事な何かを削り取ろうとしているように思えてならない。

 涙が溢れそうな彼女の目に王子が指を当てた。まなじりの涙を拭う。

 「僕が普通の男になったら、姉やは嫌か?」

 「嫌だなんて、ある訳ない」

 「そうなったら、君を妻にしたい。ずっと側にいて欲しい。ずっと二人で暮らそう。どこでもいい。ここでもいい」

 サラが驚きに声を出せないでいる間だった。不意に肩を抱かれ唇が重なった。

 儚い口づけが一線を超えた。

 王子の強い瞳にサラはうろたえた。