クリーヴァー王子が食事や表区へ赴くなどの時にさらは自由になった。その時間も解放されたのではなくメイドの仕事がある。

 部屋を掃除し整える。これは居住区のメイドたちも手伝ってくれた。今王子の興味の先にあるさらには彼女らは距離を置いている。意地悪をされることもない。

 王子の気まぐれな「ご寵愛」を受けながらもメイドの仕事に精を出すさらを、悪意の目で見ることはしないようだった。

 しかし、前の王子付きのジジは違った。廊下ですれ違った際に睨まれ、わかりやすく「淫売」と罵られた。自分から彼に売り込んだのでもない。的外れな侮蔑でさらは腹も立たなかった。

 夜は王子と同じベッドで休むことが決められている。身を固くして背を向ける彼女に彼は無理に体を求めて来ない。背後から絡めるように抱きすくめるだけだ。「姉や」に似たさらにそうすると落ち着くのかもしれない。

 (小さな子がお気に入りのタオルを手放せないようなものなのかも)

 度々口づけられる。抱きしめられるが、不快なほど触れることは不思議となかった。それはスキンシップの一環で性的なものではないのではないか。そう考えるとさらは少し楽になれる。

 ある夜、さらはベッドに腰掛け王子を待っていた。彼はダリアたち家族と過ごしている。王子の幼い頃から彼らは深い親交があるようだ。

 朝早く起き、一日仕事をこなした彼女は眠気と戦っていた。王子が戻るのを待つのが務めだが、いつしか寝入ってしまった。

 目が覚めたのが、抱きしめられる腕の感触と知った彼の匂いでだった。頬に口づけいたずらに首筋に移る。

 寝ぼけ眼でさらが身をよじった。

 「眠っていろ」

 くすぐったく唇を押し当てられて眠っていられない。さらは抗うように首をすくめた。首に流れた髪を彼の指がすくって絡めた。

 「明後日ここを立つ」

 「え」

 「予定を超えた。いい加減に帰れと父上がうるさい」

 そうか。

 当然のことを思い出した。そもそも王子は王都からこのセレヴィアにやって来た滞在客だった。時が過ぎれば帰って行く。だから気まぐれな「ご寵愛」に抵抗せずに「火種が尽きるのを待て」とダリアは説いた。

 あっけなく大きな問題が解消しようとしている。全身にずっと張っていた力が抜けていくようだった。

 小さく欠伸がもれた。王子がさらのそれをくすっと吐息で笑う。

 「お前は連れて行く」

 何気ない口調だった。髪を拭えだとか本を渡せなど、繰り返される日常の命と変わらない。迷いのない彼の中で決まった意思だった。

 さらの緩んだ心が一瞬にそれで縛られてしまう。

 王都には彼女に似た存在の女性が幾人もいて、その中に紛れて暮らしていく。じきクリーヴァー王子の興味も枯れるだろう。その時自分はどうなってしまうのか。

 (飽きたおもちゃは放り出されてしまうかも)

 元の世界との接点の何もない地で、帰ることが叶うのか。まだこのセレヴィアには過去との繋がりが考えられる気がした。そこを離れることに絶望的な恐怖がある。

 王子は沈黙を肯定と取る。意思を述べる自由もないが、この決定はどうしても従えない。

 「ここを離れると家に帰れなくなってしまうかもしれない」

 「お前の家族だと名乗り出る者は誰もいないと聞いた。拐われたようだが、どのみちこの地の者ではない」

 王子の言葉は正論だった。抗弁の先を封じられてさらは唇を噛んだ。

 「メイドではなくしてやる。それで満足だろう?」

 彼にしては優しい声音だった。女にくれてやる最大級の餌のようなもの。誰もが黙り込む甘美な栄誉があるのかもしれない。しかし、さらの芯部には届かなかった。

 「素性の知れないわたしがお側にいては、あなたにご迷惑になるかもしれません。きっと眉をひそめる方だっているはず」

 さらは王宮を知らないが、メイド上がりの彼女をよく思わない者がいるだろうことは想像がつく。

 「構わない。それに文句は言わせない」

 「……わたしはそうではないわ」

 「中傷を案じるな。必ず守ってやる」

 思いの外その約束は力強く響く。腕に抱かれ耳元で囁かれているからかもしれない‘。 

 彼女の涙の気配に王子が気づく。彼女を振り向かせ指で涙を拭った。

 「これ以上怒らせるな」

 低いそれは恫喝に似てもう優しさはない。さらは心がうなだれるのを感じた。



 瞬く間に時間は過ぎ去り、クリーヴァー王子の出立の時刻が迫った。

 美麗な馬車が表区の大玄関前に着けられている。兵士が左右に威儀を正し整列する様は閲兵式のように壮観だった。

 内区での見送りの儀はすでに終えていた。領主家族からの惜別の言葉を聞くばかりで、リリ、ココ、スーに別れも言えず心残りだった。

 王子は普段のシャツにスカーフという楽な出立ちではなく、それに上着を重ねていた。帽子は被らずに風に髪をなぶらせている。

 ダリアと最後に言葉を交わす彼をさらは離れた場所から眺めていた。見つめていたのは王子ではない。

 ふと、王子が彼女を呼んだ。

 「サラ」

 側に行くと手を取り指を絡める。ダリアはそれを素知らぬ風で流した。さらは目を伏せてその場をしのぐ。

 従僕が王子の注意を引いた。荷のことで指示が欲しいようだった。それで束の間彼の意識が逸れる。繋いだ手が解かれた。

 さらは取り戻した手を胸の前で組む。手首に王子から贈られた金の腕輪がある。それは王子のものだった。

 彼は自分の手から外したそれを力でぎゅっと輪を狭めて彼女へ投げて渡した。何かの褒美というよりは王子の持ちものへの印のように感じていた。

 意図せずにダリアとの時間が生まれた。

 「そなたの家族が申し出てくればきっと知らせよう。時間をかければ進展もあるだろう」

 「ありがとうございます。……でも、そんなことあるでしょうか」

 ダリアの視線を感じた。それでちりちりと額が熱い。この彼とはもう会うこともない。そんな捨て鉢な思いが口を開かせた。

 「待っても火種は尽きなかった」

 「え」

 彼にはもう王子に逆らわないように彼女を説いた記憶がないらしい。ほんの慰めだったのだからしょうのない。ただその優しさを大事にしまっていた自分が切ないほどに悲しい。

 刻限が来て馬車に乗り込む。メイドであるさらもこの日は貴婦人のようなドレスを纏っている。ダリアの姉のキシリアの采配だった。優しい人で、すぐにさらが困らないように荷にも気遣ってくれた。

 馬車が堀を過ぎた。城郭が遠くなる。車窓の風景がさらの知らないものに変わっていく。知らず涙が溢れた。

 これからは未知の世界が待っている。

 楽観など少しもできない。数多の女性に紛れ、王子からの「ご寵愛」は目減りし遠からず忘れ去られてしまう。それからも彼の温情は残るのだろうか。縋れば憐れみをかけてもらえるのか……。

 一度城を抜け出したことで、この世界の厳しさを知り懲りていた。一人ではこちらでは生きていけない。

 それは彼の機嫌を常に忖度し続ける日々に繋がる。それだけで食べていかれるのなら安いものなのかもしれない。

 (もう帰れない)

 セレヴィアを出てしまったことの他、ダリアとの繋がりが切れてしまったことが、その思いを強くした。

 この世界で『廃宮殿の侍女』の中の憧れそのものの彼と出会えたのは奇跡だった。それと彼女がこちらに呼ばれたことは無縁ではないのかもしれない。同じ奇跡だと思う。

 (そう信じたいだけなのかも)

 ダリアと離れたことで奇跡のリンクが途切れてしまった。そんなイメージが強くある。

 (だから、もう帰れない)

 さらにはこの後王子だけが頼りだった。気まぐれで癇性で我がままな彼に従属して生かされていく。

 彼女の心はいつまで保つのだろうか。

 (それが怖い)

 王子はだらりと伸ばしたブーツの先で彼女の足元を突いた。それで注意を引いた。顔を上げると彼はじっと彼女を見ていた。

 「ダリアが恋しいのか?」

 「え」

 「僕が気づかないと思うのか? お前の目はいつも彼ばかり追っていた」

 返事に困り彼女は俯いた。王子の観察は正確だ。彼とダリアがいれば、彼女の視線は必ずダリアに傾いた。それを王子が遮るようにして自分に向かせることが常だった。

 「どうだ? 恋しいのか聞いている」

 「……ダリア様とは身分が違って…」

 「恋しいかを聞いている」

 恋しいかどうかさえ、さらにはわからない。彼への感情は憧れに過ぎないはず。大好きな『廃宮殿の侍女』の登場人物になぞらえて、届かないその人へときめいているだけだった。

 王子は彼女の手を引き、自分の上に跨がせて腰を抱いた。ドレスの脚が大きく開いていて落ち着かない。

 「口づけてくれ」

 声に従ってそっと唇を寄せた。軽いキスですぐに離す。代わって彼が口づけを返す。深く唇が触れ合いさらは胸が痛くなった。別れたダリアの面影が瞼の奥に居座っていた。

 王子の手が頬を挟んだ。青い目で命じる。

 「全部忘れろ。今」