実家のハイマー商会の玄関に入ると、執事のトーマスが声をかけた。
「ようこそいらっしゃいました、お嬢様。
中でご主人様がお待ちですよ。」
「ええ、ありがとう。」
そう言ってドアを開けてもらった。
子供たちは父との再会がうれしく、「おじいちゃん。」といってハグしてもらっていた。
その様子を見て、涙が出てきた。
「お母様、大丈夫?
顔が痛いの?」
アリスが心配そうに顔をのぞいている。
「大丈夫よ、おじいさまにご挨拶なさい。」
「はい、お母様。
おじいさま、アリスです、10歳になりました。」
「おお、それはご丁寧に。
少しお姉さんになったかな?」
「僕も8歳になった。」
「おおそうかい、二人共学校は楽しいかな?」
「うん、僕は名前が書けるようになって、それから言葉もたくさん習った。」
「私は音楽の授業が好き、今度お父様がピアノを買ってくださるって言ったのよ。」
父は私の顔をちらりと見てから、
「さあ二人とも、おやつをあげようね。
メアリー。」
卓上のベルを鳴らした。
「お呼びでしょうか、旦那様。」
使用人のメアリーが入ってきた。
「この子たちに別室でおやつを頼む。」
「かしこまりました。
それではアリスお嬢様、カイルお坊ちゃま、おやつにいたしましょうか。
一緒に参りましょう。」
二人はメアリーと連れ立って、ダイニングへ向かった。
「その様子は、ただごとではないな。
何があったか話してみなさい。」
父は静かに尋ねた。
私も少し落ち着いてから、これまでのいきさつを話した。
父の目には少し涙が浮かんでいた。
自分がしたことが娘の家族を追い詰めていたことに。
しかし許せないのは領主家のアルベルトである。
「領主家からは借財の返済が滞っている。
それどころか自分の街の発展のために、金を融通しろとまで言ってきた。」
父はこぶしでテーブルをたたいて悔しそうな表情を浮かべた。
「あの街が発展をつづけたこの2年間、お前たち夫婦はよく頑張った。
私も街の発展とお前たちの頑張りには、心の底から喜んでいたものだ。
何よりもカミル君が私に、礼を欠かなかったことがうれしくてね。
ここまで忙しくなる前は、帝都に来るたびに私を訪ねてくれて、孫たちの成長ぶりを伝えてくれていたのだから。」
ああ、気遣いのできるあの人らしい話だ。
子供たちの成長を何よりも楽しみにしていたんだな。
でもそうなら、なぜ夫は変わってしまったのだろうか。
「それでお前たちは仲良くやっていたのか?」
「ええ、もちろん二人で協力して仕事もしていました。
それぞれの仕事の成果についてもお互い共有していましたし、子供たちのことも……。」
「一番に仕事の話、だったのか。」
父が静かに言った。
私は思わず息をのんだ。
私は夫の支えになるように精一杯務めてきたつもりだった。
「まぁ、そんな彼のことだ。
今まで我慢していたものが、はじけてしまったのだよ、きっと。
お前たちがここにいると分かっているのなら、そのうちやってくるだろうさ。」
「そうよね。」
そう言いつつも、酒瓶を投げたときの、彼の顔が思い浮かんだ。
本当に憎むべき相手に恐怖を抱き、必死に抵抗している顔だった。
「子供たちもここにいるのだし、すまなそうな顔して帰ってくるわよ。」
「ああ、それまでは好きにさせてあげるといい。
お前たちはそれまではここでゆっくりするといいさ。」
私は父の言葉に励まされながらも、カミルが本当に戻ってくるのかという不安が胸をよぎった。
「ええお父様、ありがとう。」
そう言うと、涙があふれた。
「そう言えば、カミル君が注文したピアノが届いているぞ。」
父はベルを鳴らした。
「カミル君が注文したピアノだが、居間に置いてくれ。
アリスに披露してあげようじゃないか。」
トーマスが使用人数人がかりで居間へピアノを運んでくれた。
「さあアリス、ピアノだよ。
これはおじいちゃんからのプレゼントだ。」
「嬉しい!
おじいちゃん、ありがとう。」
そう言うと、早速鍵盤を触っていた。
カイルも満面の笑みで、鍵盤をたたいて大きな音を出していた。
アリスがその様子を見て、
「ダメよカイル、それじゃ私が弾けないじゃない。
ちょっとおとなしく見てて。」
そう言って、たしなめていた。
私はカイルの肩を抱き、アリスと父のやり取りを見ていた。
「トーマス、ピアノの楽譜は取り扱いがなかったかな。」
「ございますが、どの曲にいたしますか。」
「そうだな、メヌエットにしよう、バッハの。」
「かしこまりました。」
「うわぁ、メヌエットね。
私知ってる。学校で習ったの。」
「そうかい、ならおじいちゃんも一緒に演奏していいかな。」
「ええ、喜んで。」
父はサイドボードからアイリッシュフルートを取り出した。
「しばらく演奏していないからな。
上手くできるかどうか。」
私が幼いころに父の演奏を聴いていた日々が思い出された。
ピアノを母が弾いて伴奏し、父がフルートを吹いていた。
子供の頃の情景がよみがえり、涙が流れた。
「おじいちゃん、行くよ。」
「ああ、いつでも。」
アリスは楽譜を追いかけながら、ようやく右手で旋律を引くのがやっとだった。
父はそれに合わせて演奏していた。
時々アリスが間違えるが、その時は二人で目を合わせて、また続きを演奏していた。
ピアノの音色が部屋中に響いていた。
アリスがぎこちなく鍵盤を叩く音に、私は微笑みながらも、胸の奥でざわめくものを感じていた。
「この音を、カミルも聴いたら喜ぶだろうか?」
そう思うと同時に、
「もう二度と彼とこの時間を共有できないのではないか」
そんな思いが頭をかすめた。
「ねえおじいちゃん、私が今度来た時までに、左手の練習をしておくね。」
「ああ、そうだな。
頑張って練習すれば、アリスはピアニストになれるかもしれないな。」
「ふふっ、そうなったらいいな。」
そう言って無邪気に笑っていた。
そんな平穏な日々が、続いていくと思っていた。



