空蝉の姫


 ——水鏡に波が立った。

 「お姉様……。」

 姫はふと、その微かな揺れに胸をつかれる。
 月の光がゆらりと歪み、過去の影を引き寄せていく。

 「……そうね。
 わたしも、誰かの光を奪ってしまったことが、あったわ。」


 まだ『空蝉』と呼ばれる前のこと。
 宮中で日陰のように慎ましく暮らしていた姉と、若くて無垢だった自分。

 「お姉さま……軒端荻。」

 誰よりも優しく、誰よりも陰の立場を引き受けて、
 決して自分を責めなかった人。

 「伊予介の縁で、一緒にあの方の屋敷にいた。
 けれどあの方は、わたしに目を留めた。」

 それが、すべての始まりだった。

 夜更けに忍んでくる足音、息を殺して交わす言葉。
 あのとき、自分が一度でも拒めば……
 姉の人生は、違っていたのかもしれない。

 「お姉さまは、何も言わなかったの。
 ただ、一度だけ……私の髪に、そっと触れた。」

 その手は、優しかった。
 でも、冷えていた。

 「その後……お姉さまは、少しずつ声を失っていったの。
 心の声も、表情も、眠りも。」

 姫の袖が、すこしだけ揺れた。

 「私が……消えればよかった。
 そう思って、伊予介の元へ逃げたの。」

 けれど——逃げた先でも、姫は姫で在ることをやめられなかった。
 誰の光にもなれず、誰の影にもなりきれず、
 空蝉のように、ただ『脱け殻』として漂うことしかできなかった。

 「……ねぇ、お姉さま。
 あなたはもう、とっくに門をくぐったのよね?」

 問いかけには、答えはない。
 けれど、風がそっと、水面をなでた。

 姫はゆっくりと立ち上がる。
 舞うように水鏡の縁を歩きながら、空に祈りを放った。

  かくしごと こころのひめし ひとしれず
 なきぬるおぎの こえはいづこへ

 「ごめんなさい、お姉さま……それでも、私は舞い続けるの。
 誰かを救えなかった私が……誰かに手を差し伸べるために。」

 姫は、音もなく静かに舞っていた。
 自らの業に、許しを請うように——。

 そのとき、遠くで、また一人、魂の気配が揺れた。
 あたらしい来訪者。

 姫は、そちらへゆっくりと振り返った。

 ——風が、静かに、また吹き始めた。