——ガラス越しに、都市の風景が流れていく。
人々は忙しなく歩き、誰もが何かを追いかけていた。
スマートフォンを耳に押し当てて、眉間に皺を寄せるサラリーマン。
泣きじゃくる子どもを抱え、買い物袋を両手にぶら下げた母親。
カフェの店員は休む間もなくドリンクを作り、
誰かがイライラと小銭を数えていた。
その光景は、どこか——遠いようで、近い。
沙織の魂は、まるで透明な窓越しにそれを見ていた。
「ああ……あの世界に、また戻るのか。」
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
でもそのとき——一枚の扉が、すっと開いた。
やさしい音楽と、あたたかな空気が、沙織を包み込んだ。
「ねぇ、沙織。
楽しい思い出とか、憧れがあれば、教えて欲しいな。」
姫は、沙織の魂を優しく撫でながら、そう語った。
「そうよね……そんな余裕は、なかったみたいね。」
「えっと……。」
沙織の魂が、恥ずかしそうに震えた。
「あら……そういうのでいいの。
あなたのささやかな幸せね。
いつもの……銀座の喫茶店、スフレパンケーキがいいのね。」
沙織の魂が示す、心の情景があふれ出した。
——あの店は、交差点の角にある。
丸い看板がくるくる回っていて、
ガラス越しにピアノの音がやさしく流れていた。
静かなピアノ音、ドアのベル
遠くから聞こえる、ボウルで泡立てるシャカシャカという軽快な音——。
カウンター席に座ると、厨房の向こうにパティシエの姿が見えた。
彼女の手は止まらない。けれど、どこかしらその空間には余白があった。
香り立つコーヒー——。
パンケーキのバターとメープルシロップの香り。
小説のページをめくる指の感覚。
周囲はにぎやかなはずなのに、自分だけは『穏やかな世界』に浮かんでいるようだった。
「これが、沙織の心が行きたい場所なのね。
いいじゃない、そういうのも。
いつものことが、安心なのね。
私も好きよ。」
沙織の魂から、みずみずしく生きている感覚があふれてきた。
「そう、強く願って。
もう一度、歩む勇気を持って。
しあわせになるの。」
月が二人をやさしく照らした。
海が静まり、月の光が道を描いた。
「月夜の水鏡に、光がさすとき、現世への道が開かれる。」
水鏡に満月が映し出された。
「さあ、お行きなさい。
沙織……あなたはご両親から、幸せを祈って、名を与えられた……。
大切な命なのですから——。」
織り交ぜし 糸のごとくに 紡がれる 愛し命よ 幸を歩めよ
沙織の魂は、命の輝きで満ち溢れた。
「しあわせに、なるのよ。」
沙織の命の輝きに照らされて、空蝉の姫の姿は、儚く消えていった。
「もう、大丈夫ね。
幸せが、あなたを待っているから。」
沙織の魂は、月に導かれ、現世へ帰っていった。



