——ぴちゃん。
ピンと張りつめた空気の中、かすかに水の音が聞こえた。
挾石の門の傍に、月を映す鏡のような水面があった。
「この池はね、月夜の水鏡——。
覗いた人の、心の有様を映し出すの。」
姫はふわりと舞い、池の上で静かに浮いていた。
池は、静かに波紋を広げるが、やがて鏡のように静まり返った。
「さあ、沙織もこちらへ。」
沙織が池をのぞき込むと、ざわざわと波立ち始めた。
「そう、いろいろな思いがごちゃごちゃで、整理できないんだね。
そうして、考えることをやめて、心を閉ざしてしまった。」
沙織の魂は、姫の声に呼応するように、揺らいでいった。
「でも心は叫んでいたのね。
あなたを守るために……ね。」
チリン——
遠くで鈴の音が一つだけ、静寂の中に響いた。
「本当は、泣きたかった。
でもできなかった。
後輩たちに心配させないために。」
「怒りたかった。
それもできなかった。
和を乱したくなかったから。」
沙織の魂が、ぐずって泣いているように見えた。
「そう、心を落ち着けて——。
いい子ね……。」
ゆっくりと沙織の魂が、鎮まっていった。
ゆっくりと、深く息をしているようだ。
そのとき——池の奥から、風が吹いた。
音のない風。
息吹のような、祈りのような、名もなき風。
風に吹かれて、沙織の魂から一枚、また一枚と、感情の皮がはがれていく。
悲しみ。怒り。罪悪感。
すべてが、ただ静かに、消えていった。
「……これが、『無になる』ということ。」
姫がぽつりとつぶやいた。
「考えないことではなく、考えを『離す』こと。
苦しみをなくすのではなく、苦しみと『別れる』こと。」
沙織の魂は、微かにうなずいた。
その顔は、まるで赤子のように無垢で、力が抜けていた。
「わたしたちはね、この世でたくさんの『あるべき姿』に縛られるの。
『こうでなきゃいけない』『頑張らなきゃいけない』
そのひとつひとつに、心が捕らわれてしまうの。」
姫は、水鏡の上に一輪の白い蓮を咲かせた。
静かに、凛として、曇りのない光を放っていた。
「でもね、沙織。
ただ、ここに在る。
それだけで、いいのよ。」
水鏡は、もはや何も映していなかった。
ただ月だけが、水面に浮かんでいた。
月夜の水鏡は、静けさをとり戻した。
沙織の魂は、透き通った清水のようになった。
「空っぽになったのね。」
沙織の魂は、静かにそこに、たたずんでいた。
「沙織……今、あなたは空っぽになれました。
ここから、どんな人生になっていくのか。
どんな彩にあふれた出会いが、待っているのでしょうね。」
沙織の魂は、再び命の輝きで満たされていった。
それは鮮やかで、力強いものだった。
「沙織、あなたは何にでもなれるの。
魂の深淵を覗いてしまったのあなたには……。
これ以上怖い物なんて、ないわよ。」
姫は沙織の魂を抱いた。
「さあ、もう大丈夫。
あなたならきっと、自分の空へ飛びたてるわ。」
二人は月夜の水鏡の上にそっと立った。
水鏡は美しい波紋を描き、やがて静かにおさまっていった。
どこからか笛の音が聞こえる。
姫は、沙織の魂を抱いて、静かに舞い踊った。
しずまれし みかがみのごと おだやかに
うつつをてらす つきのひかりか
沙織の魂の輝きに照らされて、姫は美しく、そして儚げに舞っていた。



