「——空蝉の姫。
 あの方はわたくしを、そう呼んだ。
 あの日、貴き方の御心にふれながらも、その重みに耐えかねて、
 ただ、薄衣だけを残して逃げ去った……わたくし。」

 姫は、ふわふわと浮いて、沙織を挾石の門へ導いた。

 「それでも、あの方への未練を断ち切る挾石の門前で、ただ漂う……哀れなものよね。」

 そう語る姫は、どことなくはかなげで、寂しそうだった。

 「沙織……ここが挾石の門。
 無意識の奥の、魂の深淵。」

 波が遠のき、風が変わった。
 門の奥からは、ヒューヒューと風を切る音が不気味に響いていた。

 「挾石はね、背の高い二本の石柱に、大きな岩が挟まっているのよ。
 まるで父親と母親に抱かれた、子どもみたいに……。」

 姫は挾石の周りをふんわりと飛んで、沙織に言った。

 「この門は現世と彼岸を隔てるものよ。
 この門をくぐれば、沙織の肉体と魂を結ぶ銀糸が切れ、すべてから解放されるの。」

 門の奥には、彼岸花に囲まれた一筋の道があり、それは賽の河原へと通じていた。

 「そうしてまた、誰かの子どもになれる……。
 それは——すなわち、『死ぬこと』なのよ。」

 沙織の魂は震えていた。
 銀糸が今にも切れそうに揺れていた。
 明らかに死に対して恐怖を抱いていた。

 「そう、それでいいの。
 それでも、あなたはまだ、帰る道がある。」

 姫は沙織の魂を静かに抱きしめた。

 「あなたは、どうしたいの?」

 「……わかんない。」

 沙織の魂は、生きようとする輝きと、あきらめの漆黒がせめぎあっていた。

 「そう、またあの場所へは、戻りたくないわよね。
 でもね、違う場所もあるのよ。」

 沙織の魂から、漆黒の闇が静かに消えていった。
 その中に淡い光が見えた。


 そのとき、ふと、門の前に新たな気配が現れた。
 それは、ゆったりとした歩幅で進む、一人の老婦人の魂。
 白い着物に身を包み、髪は銀糸のように柔らかく、
 頬には静かな笑みが浮かんでいた。

 「あら……お久しぶり。
 やっぱり、来たのね。
 もう、四十年になるかしら。」

 姫が優しく声をかけた。
 老婦人の魂はうなずき、すっと姫に手を合わせた。
 その気配に気づいた沙織に、老婦人は静かに声をかけた。

 「私もね、一度ここに来たことがあるのよ。」

 老婦人の声は、風のようにやわらかく、
 でも芯に、あたたかい何かが灯っていた。

 沙織の魂が、わずかに揺れる。
 その言葉に、どこか親しみを感じたからだった。

 「若い頃の私は、あなたと同じように……疲れ果てていたの。
 子育てと仕事に忙しくて、
 それでも子供や夫の期待に応えようとして、
 自分の声なんて、すっかり聞こえなくなっていたわ。」

 老婦人は、遠くを見つめながら微笑んだ。

 「その時、ふっと死にたくなったのよ。
 何もかも捨てて。
 報われない生活が、いやになったのね。」

 「けれど、ここで空蝉の姫と出会ってね……
 私は『無理に頑張らなくていい』という言葉に、
 ようやく、涙がこぼれたの。」

 「それで、戻られたんですか?」

 沙織が、おずおずと尋ねた。
 まるで、自分の未来を確かめるように。

 老婦人は、穏やかにうなずいた。

 「ええ。
 ゆっくり、ほんの少しずつ。
 すぐには何も変わらなかったけど、
 ある朝、ふと……『今日の光はきれいだな』って思えたの。」

 沙織の魂が、しんと静まり返る。
 その『言葉にならないもの』が、胸の奥に沁み込んでいく。

 「人生には、また来られる場所があるのね。」

 老婦人は、姫に向かってそっと手を合わせた。

 「あなたが舞ってくれたおかげよ。
 こうして、今は……『ありがとう』って思えるの。」

 姫は、目を伏せて小さくうなずいた。

 「沙織さん、あなたの旅はきっと大丈夫。
 ちゃんと、自分の『好き』を思い出せるのなら——
 それはね、命がまだあたたかい証なのよ。」

 老婦人は、沙織の魂の手をそっと取る仕草をして、微笑んだ。

 「子も孫も、みな元気でね。
 最後に見た桜が、とっても綺麗だったのよ。
 はらはらと散るその姿は、何とも潔い光景だったわ。
 私も……悔いは、ひとつもないって思えたの。」

 老婦人の魂は、門の前で一度立ち止まり、
 月に照らされた白い花を一輪、胸にそっと抱いた。
 そして、姫に向かって一礼すると、
 何の迷いもなく、やわらかく、門をくぐった。

 沙織はその姿を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 ——ああ、こんな風に旅立つことも、あるんだ。

 沙織の魂には、ただひとつだけ、はっきりと残っていた。
 ——自分は、いのちの旅の途中にいるのだと。


 「人の命は、さまざまなのね……。」

 沙織がぽつりとつぶやいた。
 姫は静かにうなずいた。

 「そう。
 どの魂も、自分の物語を持っているの。
 すべてを終えて微笑む者もいれば、まだ傷ついて揺れている者もいる。
 どちらが正しいとかではなく……ただ、違う旅をしているだけ。」

 姫は、ふと遠い記憶に思いを巡らせ、目を細めた。

 「私もね、宮中から逃げ出したのよ。
 こっそりとね。
 伊予介のもとへ……。
 おかしいでしょう?
 あんなにあこがれていたお内裏様から、すっと気持ちがそちらに向いたの。」

 姫は、そう言っていたずらっぽく笑った。

 「戻らないといけないと思うのは、苦しくても続けなければいけないと思うから。
 お逃げなさいな、そんなところから。
 もうずいぶんと頑張ったから、もう誰も、何も、言わないわよ。」

 沙織の魂は、淡く光りながら揺れていた。
 まるで一緒に語らいを楽しんでいるようだった。

 「幸せは、どこにあるかなんて、わからないものよ。」

 姫はふわりと舞い上がり、微笑みながら宙を舞った。

 ときはなて てんのながれに みをまかせ
 いのちはめぐる ゆうきゅうのはて

 姫の舞は一層美しく、幻想的な光をまとっていた。 
 空は美しく夕映えとなり、やがて月夜が訪れた。

 満月が姫の背中を優しい光で包んでいた。
 透き通るようなその姿は、まるで空蝉のようだった。