姫の舞が終わり、浜辺に静けさが戻ってきた。
 波音だけが、遠くやさしく響いていた。

 姫はそっと、沙織の隣に座りなおした。
 長い沈黙のあと、姫はぽつりと語りかけた。

 「……ゆっくりでいいの。
 少しずつでいいから。
 何があなたを、こんなにもつらくさせたのか、思い描いてみて。」

 沈黙。
 でもその静けさは、咎めるものではなく、優しく待っていてくれる沈黙だった。

 やがて、姫はそっとつぶやいた。

 「あなたは、仕事にまじめで、後輩思いだったのね。
 だからこそ、その子たちにつらい思いをさせたくなくて……
 一人で、全部抱え込んでしまったんだね。」

 沙織は少しずつ、落ち着いていった。

 「その責任感と、やさしさが……
 誰にも言えない苦しみを、どんどん大きくしてしまったの。
 『私さえ我慢すれば』って……ずっと、そう思っていたんでしょう?」

 ふわりと風が吹き、海の匂いが通り抜けていく。
 姫の声に導かれるように、沙織の魂から、ふいに感情があふれた。

 「……本当は、つらかったんです。」

 それは、音にならない嗚咽。
 目には見えない涙。
 けれどたしかに、魂が震えていた。

 姫はそっと、そばに寄り添った。

 「……そう、泣けてきたのね。」

 ふわりとした光が、沙織の魂を包んだ。

 「いいのよ、そのまま泣いても。
 誰にも見られることなんて、ないから。」

 袖がそっと揺れて、砂を撫でた。
 どこまでも静かで、やさしい世界。

 「ここはね……あなただけの場所。
 あなたの心の、いちばん奥深くにある、誰も立ち入れない場所なの。」

 「だから、大丈夫。
 泣いても、崩れても、声にならなくても——
 その痛み、ここにそっと預けていって。」

 姫は、泣き続ける沙織のそばに座っていた。
 ただ静かに、波音のような声で、語りかけた。

 「そうして泣き疲れたら、ゆっくりお休みなさい。
 ずっと……眠れていなかったのでしょう?」

 「すみません……。」

 沙織の魂が、そっとうつむいた。

 「……謝らないで、いいの。
 あなたは、少しも悪くなんてない。」

 姫は沙織の魂に、そっとふれた。

 「……でもね、沙織。
 ずっと『平気なふり』をしていたでしょう?
 『まだ大丈夫』って言いながら、
 帰り道ではスマホの画面ばかり見つめて、
 涙を堪えながら歩いていた——そんな日が続いていたのね。」

 「……うん。」

 「ほんの少し誰かに『気づいてほしい』と思っていても、
 誰も立ち止まってはくれなかった。
 優しい言葉を待つことも、いつの間にかあきらめて……
 『一人で立ち続けなきゃ』って、
 心に鎧をかぶせて、生きてきたのね。」

 沙織の魂が、少し震えた。

 「でもその鎧が重すぎて、あなたの中で何かが……ぽきんと折れてしまった。」

 沙織の魂は、泣きじゃくる子供のように、震えていた。

 「あのとき怒鳴った人は……
 きっと、自分の気持ちのやり場がなくて、ただ誰かにぶつけたかっただけ。
 あなたが悪かったわけじゃないのよ」

 「理不尽な要求だってそう。
 あの人たちは、ただあなたを利用して、楽をしたかっただけ。
 身勝手なわがままを、押しつけていただけなの。」

 涙が沙織の頬を伝った。
 姫の目にも、涙があふれていた。

 「あなたが泣けなかったから、私が代わりに泣くの。
 誰もわかってくれなかったから、私がそばにいるの。」

 姫の瞳が、ふと空を見上げた。

 「……でもね、あなたが守ってきた後輩たち。
 あの子たちは、ちゃんと沙織に感謝してるわね。
 『かばってくれて、ありがとう』って、心の中で何度も言ってるのよ。」

 沙織の魂に、少しだけ命の輝きが戻ってきた。

 「とても心配してるわね。
 あなたのこと、『申し訳なかった』って泣いてる子もいる。」

 「誰かのために、ここまでがんばったあなたを——
 ちゃんと、見ていた人たちがいるのね。」

 沙織の魂から、光の粒が、天に舞っていった。

 ひかりあれ ことだまにのり かぜにまい
 いのちのいぶき かがやきはなて

 その光とともに、空蝉の姫は天に向かって両手を広げ、風に溶けるように身を任せた。