ふと、浜辺の空気が微かに揺れた。
鈴の音が静寂を破り、凛とした響きをもたらした。
空気が一瞬だけ乱れ、風が、どこからか『何か』を運んできた気配。
「……魂が、来たわね。」
姫はゆっくりと、舞いの動きを止めた。
白砂の浜に、一つの影が落ちていた。
異様な黒さが、その存在を物語っていた。
それは、今まさに現世との境界をさまよう魂。
苦しみによって引き裂かれ、体と心が乖離したまま、たどり着いた存在。
ただならぬ痛みを背負った気配だった。
魂が激しく波打っていた。
まるで、傷ついた羽をばたつかせる鳥のように……乱れていた。
姫は静かに、口を開いた。
「……落ち着きなさい。
大丈夫よ。
もう誰も……あなたを苦しめないわ。」
足音ひとつ立てずに、姫は近づいた。
しゃがみ込み、やさしく微笑むように目を細めて。
「あなたの心……悲鳴をあげているわ。
でもそれに気づいてくれる人が、誰もいなかったのね。」
淡い光の中で、
『あなた』の魂が、少しだけ静まった。
「無理に言葉にしなくていいの。
思い出すのも、つらいでしょう?」
魂は、少し震えているようだった。
「あなたが何を抱えて、ここに来たのか……
わたしには、なんとなくわかる気がするの。」
姫は、そっと目を閉じて、魂に触れた。
すると、その奥から、黒い波のように、激しい叫びが押し寄せてきた。
——魂の叫びが、見えた。
怒号が飛ぶ。
ここは、どこかの窓口ね。
どんなに怖くても、頑張って、立ち続けていた。
「黙ってニコニコしてればいいんだよ。」
「上のもん出せ、あんたじゃ話にならん。」
書類の山が、机から崩れ落ちた。
時計の針は、深夜2時を何度も過ぎていた。
それはまるで、壊れたかのように。
誰も助けてくれない。
どんなに疲れても、笑っていないといけない職場。
叱責。
理不尽な要求。
終わらない残務処理。
……やがて、視界がぼやけてきた。
耳鳴りがして、呼吸がうまくできない。
目の前が真っ暗になっていく。
そして——ここに来た。
「……そういうこと、だったのね。」
姫の声は、まるで涙のように優しかった。
「よく、ここまで耐えてきたね。」
姫は、波の音を聴くようにゆっくりと語った。
彼女の声は、空気に溶けていくようにやわらかい。
「誰かの顔色を見る必要もない。
明日のことを考えなくてもいい。
何かにならなきゃって焦ることも、ここでは——いらないの。」
白い袖が、ゆるやかに揺れた。
「少し落ち着いたようね。……胸の奥が、ほんの少し緩んだ気がしたわ。」
姫は魂をそっと撫でた。
「お名前は……?」
「……沙織。」
「そう、沙織ね。
沙織、あなたは今、『ここにいていい』の。
それだけで、もうじゅうぶんだから。」
姫は静かに、沙織のそばに腰を下ろした。
白い袖がさらりと波打ち、浜の砂をふわりと撫でる。
「……ここにはね、そう、何もないの。」
少しだけ間を置いて、姫は続けた。
「ただあるのは、静かな海と、優しい波の音。
どこまでも広がる、やさしさの空間なの。」
彼女の声は、風に溶けるようにやわらかく、そしてどこか、懐かしい響きだった。
「だから、安心して。
ここにはもう、あなたを叱る人も、責める人も、終わらないお仕事も、なにもないから。
あなたは、ただ『いる』だけで、いいのよ。」
姫は、すぐ隣にいる沙織の気配を、そっと見つめた。
「沙織……あなたの心は少し、お休みしたいようね。」
「……うん。」
「ここには、時間なんてないの。
だから、いつまでも、休んでいていいのよ。」
砂の音が、さらりと風に混じる。
潮の香りとともに、爽やかな橘の香りが立ち込めた。
「そうして、少しだけ気分がよくなったら、
そのときは、ゆっくりと……お話ししましょう。」
それだけ言うと、姫はすっと立ち上がった。
海に向かって一礼し、白く透ける袖をふわりと広げる。
その瞬間——
浜に風が吹いた。
音もなく、でもたしかに空気が揺れた。
風に乗って、遠くから琴の音が響いてくる。
細く、やわらかく、空間を満たすように。
祈るように、受け入れるように。
その瞳は、うっすらと涙を湛えていた。
姫は、舞いはじめた。
この世の悲しみを引き受け、赦しを舞う、白拍子のように。
あづまより いでしつきよの しらはまに
しずかなうみに ひかりさすみち
それは、魂にふれる舞だった。
沙織の魂が、やわらかく波打った。
そのまま、ゆっくりと眠りに落ちるように、音と舞に包まれていく——
その姿は儚く、幻想的で、
まるで、天女のようだった。



