「ねぇ日向先生、聖書って暗唱できる?」
ある日、理緒が、唐突に問いかけてきた。
「有名なとこなら……急に、どうした」
努めていつも通りの調子を装う。 だが、喉が詰まるような違和感が声の端に滲んでしまった。
「詩篇23。聞きたいな。日向先生の声、好きなの」
視線を逸らしたくなる。 牧師の息子であることを、こんな時だけ思い出させられる。
救いを語る資格なんて、俺にはないはずなのに。
それでも彼女は、俺に求めている。
ならば応えるしかない。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」 淡々とした声で口にする。
父さんが、幼い頃より何度も聞かせてくれた一節。
覚えようとしたわけでもないのに、頭に焼き付いて離れない記憶。
感情を押し殺しているつもりでも、理緒の閉じた瞼と安らいだ横顔を見るたび、胸の奥で何かが揺れた。
「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる」
「主はわたしの魂を生き返らせ、み名のために正しい道に導かれる」
理緒はわずかに口角を上げ、かすかに頷いた。 それだけで「この声を聞かせて良かった」と思う一方、 自分が読み上げている言葉が彼女にとって「最後の祈り」になるのかもしれないと考えると、喉が焼けるように痛んだ。
「たとい死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが、わたしと共におられるからです」
声がかすかに震えた。慌てて咳払いし、何事もなかったように次の節を続ける。
「あなたのむちと、あなたの杖、それがわたしを慰めます」
理緒のまつ毛が震える。頬には安らぎの影が浮かんでいる。 その姿に救われる一方で、「どうしてこの子が」と抑えきれぬ理不尽がまた胸を締めつけた。
「わたしの敵の前で、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に油を注いでくださる。わたしの杯はあふれています」
淡々と、ただ朗読するように。 それでも心の奥では、必死に祈りがこだましていた。 ――どうか、これが最後の言葉にならないでくれ。
「まことに、わたしのいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、わたしを追ってくるでしょう。 わたしはとこしえに、主の家に住むでしょう」
読み終えた瞬間、理緒のまぶたがふっと下りた。 胸の奥がざわついた。
まさか――。 最悪の光景が頭をかすめ、思わず手を伸ばして彼女の肩を揺さぶりそうになる。
けれど、かすかに上下する胸。 安らかな吐息。 すやすやと眠るその表情は、今まで見たことのないほど穏やかで、幸せそうだった。
「……人騒がせな」
声に出した途端、喉の奥が詰まった。 ほっとしたはずなのに、心臓が痛いほど高鳴っている。 怖かった。ほんの一瞬でも、彼女を失う未来を想像してしまった自分が。
静かな寝息が、病室の白い天井に響いている。 その音があまりにも愛おしくて、どうしようもなく目頭が熱くなった。



