桜吹雪が舞う夜に



金曜の夕方。
研究棟の一角、白い光が静かに降りる会議室の扉を前にして、私は立ち止まった。

(……ここ、だよね)

手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
胸の奥で、鼓動がうるさいくらいに響いていた。

扉の隙間から漏れる低い声と、紙をめくる音。
中ではもう検討会が始まっているのだろう。

「……入るぞ」
横に立っていた酒井先輩が、軽くノックしてドアを押し開ける。
その背中に続き、私は一歩、足を踏み入れた。

視線が一斉にこちらに向く。
白衣をまとった医師たち、研修医たち。
整然と並ぶスライドと、静かな空気。

その中央に立つのはーー循環器内科の医師としての、日向さんだった。

「……失礼します。今日、学部1年の中野さんを見学として連れてきました」
酒井先輩がそう言うと、日向さんはこちらを一瞥した。

冷静で、鋭い瞳。
いつも私に向けるものより、遥かに緊張感を帯びていた。

「……そうか。じゃあ、後ろで静かに聞いてるといい」
それだけ告げて、再び前に向き直る。

私はこくんと小さく頷き、最後尾の椅子に腰を下ろした。
手のひらを膝に置き、震えを押し殺す。

(……本当に来ちゃったんだ)

スクリーンに映し出された心エコーの画像。
専門用語が飛び交い、議論が進んでいく。
まるで別世界。

静かな室内に、血流を示すカラードップラーの映像が赤と青で踊っていた。

「左室駆出率、30%を切っています」
前に立つ若い研修医が震える声で説明した。

「……つまり?」
日向さんの声は淡々としている。
詰問する鋭さではなく、“続きを考えろ”と静かに促す響きだった。

「えっと……拡張型心筋症、が考えられます」

「うん。診断としては悪くない。じゃあ、この患者に今すぐ必要なのは?」

研修医は一瞬口ごもる。会議室に短い沈黙が流れる。
その空気を、日向さんが穏やかに切り開いた。

「焦らなくていい。間違えても責めはしない。まずは君の頭に浮かんだことを言ってみろ」

促され、研修医は勇気を振り絞って答える。
「……心移植の適応……も、考えるべきだと……」

日向さんはすぐには否定しなかった。
ただ、少し頷いてから言葉を継ぐ。

「そうだな。それも確かに将来の選択肢にはなる。けれど、今すぐ“移植”と言ってしまうと、患者も家族も絶望する。……現実的には、まず心不全の症状をどうコントロールするか、が第一だ」

指先でスライドを指し示しながら続ける。
「利尿薬でうっ血を軽減する。ACE阻害薬やβ遮断薬で長期的な予後を改善する。……そういう“小さな積み重ね”を、俺たちは決して軽んじてはいけない」

彼の声は決して大きくはない。けれど、一言ごとに深い温かさがあった。

「いいか。完治できない病気だからこそ、“今日を楽にすること”の意味は大きい。……それを患者に伝えるのも俺たちの仕事だ」

真剣に語るその横顔を見ながら、私は息を呑んでいた。
優しさがあった。
“救えない”という厳しい現実を知っているからこその、揺るがない優しさ。

隣に座る酒井先輩が、静かにメモを取りながら頷いていた。

「……なるほど。勉強になる」

聞こえてていたのか、日向さんは小さく笑った。
「勉強になる、じゃなくて“明日すぐ使えるか”だよ。医者は、知識を患者に返して初めて意味がある」

その言葉が胸の奥にずしんと響いた。

この人は、本当に、人の頭に寄り添える優しい先生なんだ。心の底からそう思った。

ーー同時に、話を聞くうちに、ある予感が頭を離れなかった。