書くことは私の秘密です

 土曜日の11時。
 映画館近くの駅の改札口で私は高田くんを待っていた。

(早く着きすぎた)

 約束の11時30分より30分も早く着きすぎてしまった。

 この日、私は朝の5時に目を覚ました。
 早朝に目覚めた私はシャワーを浴びた。
 前日の夜に入浴したのだが、身体が臭いような気がした。
 念入りにボディソープで身体を磨いた。
 コンディショナーを普段の倍以上使った。

 服もできるだけかわいいものを選んだ。

 私は普段、職場で白いシャツにチノパンという格好でいる。
 周囲の女性社員は流行りの服を着ているが、私はずっと白いシャツにチノパンで通していた。
 楽だからだ。

 しかし、今日は高田くんとプライベートで会う日だ。
 高田くんに、

(ダサい格好)

 とは思われたくなかった。 

 ストライプシャツにグリーンのロングスカート。

 手持ちでできる精一杯のお洒落だった。

 改札口で胸を踊らせて待機していると、高田くんが小走りにやって来た。
 高田くんは息を弾ませていた。

「申し訳ありません。遅れました」
「ううん、私が早く着きすぎたんだよ」

 スマホで時間を見ると11時10分だった。
 約束の時間の20分前だ。

「行きましょうか」
「うん」

 高田くんが歩き出したのでついて行く。
 ふたりのデートが始まった。

「何か食べたいものはありますか?」

 駅前を歩きながら高田くんが聞く。
 このあたりは飲食店が多い。
 道の両脇に様々な飲食店が並んでいる。
 お昼前なのでお客さんも並んでいない。

「事前にどこか予約をしようかとも思ったんですが、加藤さんの好みも聞いておきたかったのでやめました」
「気を遣ってくれてありがとう」

 私は左右に並ぶ看板を見て悩む。

 ピザとパスタの店。
 和食の店。
 ハンバーグ専門店。

 どこも美味しそうだ。

 私はひとつの看板を目にして歩みを止めた。

「私、あそこがいいな」
「え?」

 高田くんが目を丸くする。

「本当にそこでいいんですか?」
「うん」
「加藤さんがいいって言うなら僕はかまいませんが」
「もう開いてるみたいだね。入ろっか」
「はい」

 高田くんは戸惑いながらも私が示した店へ進む。
 私が、「あそこがいいな」と言った店、それはラーメン屋だった。

 食券機で券を買うと、ふたり掛けのテーブルに座った。
 テーブルは狭く、高田くんとの距離がとても近くなる。
 が、距離の近さはまったく苦ではなかった。
 むしろ心地よかった。

 食券を店員に渡す。

 お昼時まで時間があるせいか、店内には私たちしかいなかった。

「本当にラーメンでよかったんですか?」
「うん、私、ラーメンが大好きなんだ。高田くんはラーメンが嫌いだった?」
「いえ、大好きですよ」

 高田くんは小さく笑った。

 私は改めて高田くんの今日の服装を見た。

 高田くんは淡いブルーのシャツにジーンズという格好だった。
 職場では必ず背広を着ているので、今日の姿はとても新鮮だ。
 背広姿よりも親しみが持てた。

(ラフな格好のせいかな。25歳よりも若く見える)

 初対面の人に今の高田くんの姿を見せたら、大学生と間違えられてもおかしくはないと思った。

 高田くんが首を傾げた。

「何か変ですか?」
「あ、ううん」

 私は急いで首を振った。
 まじまじと高田くんを見すぎたようだ。

 ラーメンがテーブルに運ばれてきた。
 ラーメン鉢から湯気と香りが立ちのぼる。

「美味しそう」

 私が備え付けの割り箸を手にした時だった。
 高田くんが制止した。

「ちょっと待ってください」
「?」

 私は割り箸を手に取ったまま身体の動きを止めた。

 高田くんが腰を浮かし、右手をジーンズの後ろにやった。
 ジーンズの後ろのポケットからハンカチを取り出す。
 ハンカチを私に差し出した。

「これを首元にかけてください」
「ハンカチを?」
「ラーメンの汁が服に跳ねます」
「ありがとう」

 私はハンカチを受け取った。
 白と黒の格子模様のハンカチだった。

 私は高田くんの言った通り、首元にハンカチをかけた。
 なるほど、こうすればラーメンを啜ってスープが跳ねても服につくことはない。

 私の姿を見て高田くんは申し訳なさそうに言う。

「すみません、小さな子供のような扱いをして。でも、せっかくのかわいくて素敵な服が台無しになるのがもったいないと思ったんです」

 私は割り箸をもったまま無言になってしまった。

(私の服を褒めてくれた!)

 純粋に嬉しかった。
 が、「嬉しい」と素直に言葉にできなかった。

「た、高田くんのハンカチってオシャレだね」
「そうですか? 普通のハンカチだと思いますが」
「それよりも食べよう! ラーメンがのびちゃう」

 私は、「いただきます」と言うとラーメンを豪快に啜った。

 ラーメンは麺もスープも美味しいはずだった。
 しかし、舌では、
「美味しい」
 と感じているはずなのに脳が、
「美味しい」
 告げるのを拒否していた。 

 ついさっきの高田くんの言葉が頭の中でリピートしていたからだ。

『せっかくのかわいくて素敵な服が台無しになるのがもったいない』

 たった一言褒めてくれたことでラーメンの味がわからなくなるほど喜んでいる自分がいたことが驚きだった。

 お腹いっぱいになった高田くんと私は店内から出た。
 ラーメン屋の軒先で高田くんにハンカチを返そうとする。

「これ、ありがとう」
「お役に立ちましたか?」

 ハンカチの白と黒の格子模様の間に薄茶色のシミが見て取れる。
 私は一旦出したハンカチを手元に留める。

「ごめん、慎重に食べたつもりだったけどハンカチにシミがついちゃった」
「ということは加藤さんの服に汚れがつかなかった、ということですね」

 高田くんは明るい。

「洗って返すね」
「いえ、いいんです。そのまま返していただいて――」

 と高田くんは言ったあとに、少し考えてから言葉を変えた。
「わかりました。加藤さんに洗ってもらっていいですか?」
「うん、汚したのは私だもの」
「じゃあ、約束ですよ」

 なぜか高田くんはとても嬉しそうだ。
 私は首をひねりながら高田くんのハンカチを丁寧に畳んで鞄に入れた。

「上映時間にはまだ少し早いですが、映画館に向かいましょうか」
「うん」

 高田くんと私は映画館の方角へ向かって歩き出した。
 映画館に着いたのは12時30分だった。
 上映時間の13時10分まで時間がある。

 高田くんと私はほかの映画の宣伝チラシを見たり、ポップコーンやジュースを買ったりして時間を潰した。
 
 上映20分前になるとスクリーンのあるホールに入れた。
 高田くんが取ってくれたチケットは後列の座席でスクリーン全体が見やすい。

 上映時間5分前、ホールが暗くなる瞬間、高田くんの横顔を見た。
 高田くんもなぜか私の顔を見ていた。
 一秒に満たない瞬間、ふたりの視線が交差した。
 慌てて私は視線をスクリーンに戻した。
 胸の鼓動が早くなったのは久しぶりの映画に興奮していたからだけではなかった。

 映画が終わった。
 上映時間が180分もある大作だった。
 上映時間だけでなく、内容も大作だった。
 私はとても満足していた。

 一方、高田くんは浮かない顔をしている。
 私はその理由がわかっていた。
 高田くんは上映中に一度だけ席を立ったのだ。
 映画が始まって2時間ほど経った時だ。
 気分が悪くなったのかと思ったが、5分ほどで戻って来た。
 どうやらお手洗いに立ったらしい。

 ホールから出る時、高田くんが悔しそうに言う。

「僕がトイレに立っていた時、何があったか喫茶店で教えてくれませんか?」
「もちろん、いいよ」

 私は笑顔で答えた。

 私たちは映画館に近い喫茶店に入ることにした。

 喫茶店のボックス席に腰を落とすと、映画館を出る前に買ったパンフレットを広げた。
 パンフレットを広げたまま、高田くんがお手洗いに行っていた間の展開を説明する。
 展開と言っても映画自体の話はそれほど進んでいなかった。
 話は進んでいない代わりに、圧倒的な映像美が広がっていた。
 スクリーンいっぱいに息を呑む美しさが映し出されたのだ。

 私は言葉と身体を使って説明した。

 高田くんはショックを受けているようだった。

「そんな貴重なシーンにトイレに行ってしまったんですか。上映中にコーラを飲んだのが間違いでした」
「確かに、180分は長かったね」
「自分の膀胱の小ささを今日ほど恨んだ日はありません」
「お手洗いは私もギリギリだったな」

 クレジットが流れ終わり、ホールが明るくなってから私もすぐにお手洗いに行った。

 テーブルにそれぞれの飲み物が運ばれてきた。
 飲み物を飲みながら映画の話に没頭する。

 あの役者さんの演技が素晴らしかった。
 あの演出に魅せられた。
 あそこの展開は手に汗握った。

 パンフレット片手にふたりの話は尽きない。

 気がつけば時刻は17時45分を過ぎていた。
 喫茶店に入ったのが16時30分だから一時間以上も話し込んでいたことになる。

 パンフレットをビニール袋にしまいながら高田くんが提案する。

「もしよければ夕飯をご一緒にどうですか?」
「うん、もちろんいいよ」