書くことは私の秘密です

 翌朝。
 私は会社で目をランランとさせていた。

 結局、小説を完成させるために徹夜をしたのだ。

 徹夜をした結果、私の頭は冴えに冴えていた。
 視界がやけにクリアだった。
 気持ちも高揚している。
 デスクの社用パソコンに向かいながら鼻歌を歌いたい気分だった。

 が、そんな気分は業務を始めてから二時間で吹き飛んだ。
 上司に仕事のミスを指摘されたのだ。
 私はパソコンにデータを二重に入力するという簡単なミスを犯した。

 やり直してデータを入れ終えるのに通常の二倍の時間がかかった。

 その後の仕事の効率も最悪だった。

 頭も視界もクリアになっているのに、小さなミスを立て続けにする。
 頭が冴えているのにミスが多い。
 不思議な感覚だった。

(徹夜の影響で頭が冴えているっていうのは勘違いなんだ)

 終業前になってようやく気が付いたのだった。

 終業時刻になって私はデスクから離れると背伸びをした。
 デスク周りの片付けをするのだが、いつものようにうまくいかない。
 やはり、頭が正常に動いていないのだ。
 時間をかけてデスクの周囲を片付けるとノートパソコンの入ったリュックを背負い、会社のフロアを出た。
 会社の入る建物から出ると、喫茶『アオイ』に向かう。

 喫茶『アオイ』に行く途中、コンビニに寄る。
 コンビニでエナジードリンクを買った。
 コンビニの外に出るとプルトップを開け、流し込むように中身を飲んだ。

 喫茶『アオイ』に着くとふたり掛けの席に座った。
 高田くんの姿は見えない。

 私はホットコーヒーを注文すると、リュックからノートパソコンを取り出した。
 文章作成ソフトを立ち上げ、小説の冒頭を表示させておく。

 ホットコーヒーを一口飲んだ時、高田くんが来た。
 高田くんは急いで私が腰を落とす席に駆け寄った。

「おまたせして、すみません」
「それほど待ってないよ」

 高田くんはアイスコーヒーを注文する。
 注文を終えると、高田くんがテーブルの上に身を乗り出した。

「早速、読ませてもらっていいですか?」
「どうぞ」

 私は高田くんの方にディスプレイを向けてノートパソコンを差し出す。

「どうも」

 高田くんがノートパソコンを受け取った。
 真剣な顔つきでディスプレイに目を落とす。
 高田くんの視線が上から下へと流れる。

 高田くんは規則的にキーボードに触れた。
 ディスプレイをスクロールしているようだ。

 落ち着いたBGMが流れる店内にノートパソコンのキーボードを押す、

 パチ、パチ、パチ

 という音が響く。

 (今、目の前で自作の小説を読まれてる)

 私は高田くんを凝視することができなかった。
 自筆の小説を生まれて初めて読まれる恥ずかしさで。

 パチ、パチ、パチ――。

 高田くんがキーボードを叩くたび私の鼓動が高鳴る。

 店員が高田くんの目の前にアイスコーヒーを置いた時、高田くんはディスプレイに映る文字に夢中だった。
 高田くんは店員に会釈もしなかった。

 高田くんはアイスコーヒーに一切口を付けることなく、ディスプレイを見つめ、キーボードを押した。

 一時間と少し経った頃。

 高田くんがディスプレイから目を離した。
 大きく伸びをする。
 アイスコーヒーの入ったグラスに手を伸ばし、ストローも使わずに一気に飲んだ。

「ど、どうだった?」

 そう聞く私の前にはホットコーヒーのカップがふたつ、ホットティーのカップがひとつ並んでいた。
 緊張のせいか喉がやたらと乾いた。
 それで立て続けに飲み物を注文したのだ。
 お手洗いにも三回立った。

 高田くんは呟くように言う。

「ハッピーエンドじゃないんですね」
「……」

 私は黙った。
 アンハッピーエンドは高田くんの好みじゃなかっただろうか?
 つまらなかっただろうか?
 そもそも、書いてある内容はうまく伝わっているだろうか?

 高田くんが口元をゆがめる。

「実らない恋。面白かったです」

 ゆがめた口は笑顔を表していた。

 私は途端に嬉しくなった。

「ほんとうに?」
「ええ、女性視点の恋愛小説は初めて読んだんですけど面白かったです」
「文章表現で意味のわからないところとかなかった?」
「文章で、ですか? 特になかったと思いますよ」
「よかった」

 私はホッとした。
 面白い、つまらない以前に、文章で何を表現したのかわからない、と言われることを最も恐れていた。
 最悪、意味は通じたのだ。

 高田くんがもう一度、ディスプレイを見ながら言う。

「女性視点の生々しい感情やセリフが書かれているのがいいと思いました。特に主人公が思いの丈をぶちまけるところがよかったです。まるで自分が告白されているかのような気分になりました」

 私は心のなかで高田くんに感謝した。
 高田くんは私の小説を理解してくれた。
 それだけで嬉しく、ありがたいと思った。

「叶わない恋だと覚悟したふたりが駆け落ちするわけですが、貴族だった頃の優雅な生活と貧しい生活が対比になっていてよかったと思います。主人公が『貧しい生活でも愛する人がいる生活がいちばん』と思うところもよかったですね」

 高田くんに感謝以上の気持ちがだんだんとわいてくる。

「駆け落ち先が見つかって主人公は屋敷に戻るわけですが、豪華な生活がむなしくなるのが心に響きました。『どんなに贅沢をつくした暮らしよりも、あなたのいたあの貧しい生活に戻りたい』。男にあてたこの手紙、すごくいいと思いました」

 高田くんに思いっきり、

「ありがとう!!」

 と叫びたい気分だった。

 こんなふうに小説を読み込み、理解し、感想を言葉にしてくれるとは思っていなかった。
 批判的なことを言われると思っていた。

『貴族の娘とその召使いの恋なんてありきたり』
『ふたりが結ばれるハッピーエンドがよかった』
『その後のふたりが描かれていないので、物語が尻すぼみだ』

 様々な批判のバリエーションを思い描いていた。
 が、高田くんは小説の批判をせずに、まず「よかったところ」を真っ先に言ってくれた。

(初めての読者が高田くんでほんとうによかった)

 私はテーブルの上に身を乗り出していた。

「高田くん、この店でいちばん高い商品を注文しよう!」

 高田くんは自筆小説を読んでくれて、批評までしてくれた。
 そしてよいところを挙げてくれた。
 感謝の気持ちを言葉以上のもの、目に見えるかたちで高田くんに提供したかった。

「この店でいちばん高い商品ですか?」

 笑顔で提案する私に対して高田くんは目を点にしていた。
 
 20分後。
 私たちのテーブルにたくさんのサンドイッチが並んでいた。
 軽く見積もっても五人前はあるだろう。

 高田くんは明らかに萎縮していた。
 身体も小さくしている。

「普通、読者が『読ませてくれてありがとう』ってお礼をするんじゃないですか?」
「いいの、いいの」

 テーブルに列をなすサンドイッチたちを注文したのは私だ。
 高田くんが遠慮して何も注文しなかったからだ。

 それに時刻は午後7時近くなっている。
 私はお腹が空いていた。

 欲を言えばステーキを注文したかった。
 が、『アオイ』は喫茶店だ。
 軽食しか取り扱っていない。
 それでメニューに並ぶサンドイッチを目についたものから注文したのだ。
 値段は見ていなかった。

 私がハムサンドを頬張ると、高田くんも遠慮気味にたまごサンドを手にした。
 私はハムサンドを食べながら言う。

「高田くんが真面目に読んで、そして面白いって言ってくれたことが本当に嬉しかったの。何より力を入れたところを褒めてくれて本当に嬉しい。だから、お礼をしたいのは私のほう。読んでくれて本当にありがとう」
「僕は思ったままのことを言っただけですよ」
「思ったままだったらなお嬉しい。お世辞じゃないわけでしょ?」
「お世辞を使えるほど器用じゃないですよ」

 高田くんの言葉の一つひとつが私を喜ばせる。
 高田くんが私の目を見つめる。

「加藤さん、テンションがおかしくないですか?」
「おかしいかな?」
「いつもの加藤さんじゃないみたいです」
「いつもの私って?」
「会社にいる時の加藤さんはもっとクールです」
「クールって言うと格好いいけど、冷徹ってことね」
「そういうことじゃなくて、今日の加藤さんはすごいおしゃべりですし、表情が豊かです。あとテンションも高いですね」
「そう?」

 高田くんが椅子から腰を浮かせる。
 ぐっと顔を接近させる。
 高田くんの顔が眼前に現れる。

「目、真っ赤じゃないですか」
「昨日、徹夜したから」
「もしかして、小説を書き上げるためにですか?」
「うん」

 私がうなずくと、高田くんは椅子に腰を落とし、そして肩を落とした。

「出来上がりはいつでも待ちましたのに。来週でも再来週でも僕はよかったですよ」
「でも、書き上げるって決めちゃったから」
「本当に真面目ですね」
「悪い?」
「いえ、そういうところすごくいいと思いますよ」

 高田くんは満面の笑みを浮かべた。

「高田くんは小説をよく読むの?」
「はい、読みますよ」
「どんなの?」
「SFが多いですね」
「具体的には?」

 高田くんはいくつかの作品名を挙げた。
 私でも知ってる古典的なものもあれば、知らないものもあった。

「SFが多いだけで、ほかのジャンルも読みますよ。ただ、恋愛小説、それも女性が主人公の恋愛小説は読んだことはありませんでした」
「高田くんって理系の大学出てるの?」
「いえ、経済学部ですから文系ですよ。なんでですか?」
「SFって理系の人が読むのかな、って。数学とか物理の難しい知識が必要そうだし」
「偏見ですよ。確かに難しい作品もありますけど、雰囲気だけで楽しめる作品のほうが多いですよ」
「SFはSFでもいろんなジャンルがあるでしょ? どんなジャンルが好きなの?」
「僕はディストピアが好きですね」
「変わってるね」
「ディストピアものにもいろいろありますけど、物語の最後にどうしようもない状態で終わるのがたまらないんです。小説を読み終えて『これが架空の話でよかったな』って思える瞬間が最高ですね」
「あ!」
「なんですか?」
「だから、私の小説がアンハッピーでも抵抗がなかったんだ」
「それとこれとは関係ないと思いますが」

 高田くんが苦笑しながら答えた。
 たまごサンドを食べ終えると、今度は高田くんが質問をした。

「加藤さんは文系の文学部にでもいたんですか?」
「私?」
「はい」
「私は文系じゃないよ」
「じゃあ理系だったんですか?」
「あ、ごめん。言い方を間違った。文系理系の前に大学に行ってないんだ」
「そうだったんですか?」
「うん、高校卒業して今の会社に入ったの」
「じゃあ、高校の時に文芸部にいた、とかですか?」
「ううん、帰宅部」
「いつから小説を書いているんですか?」
「いつからだったかな。社会人になって三年目くらいかな」
「何かきっかけがあったんですか?」
「もともと本を読むのは好きだったの。いろんなジャンルの本が好きだったんだけど、特に恋愛小説が好きでね。ある時、ひどい作りの悪い恋愛小説に出会ったの。それを読んだ時、『こんな無茶苦茶な書き方でも本になるなら私でも書けるんじゃないかな?』って思ったの」
「ハハハ」

 高田くんが声を出して笑った。

「それを書いた作者が聞いたら、『こっちはプロでやってるんだ』って怒るかもしれないけど、それほどひどい内容だったの」
「逆に読んでみたくなりますね」

 よほどこの話がおかしかったらしく、高田くんは、

「タイトルを覚えていたら教えてください」

 と何度も笑った。

 こうして高田くんとまともに会話をしたのは初めてだった。

 高田くんと同じフロアで働いて三年。
 毎日、顔を合わせるだけでまともに会話をしたことのなかった私たち。

 しかし、今日は腹を割って話ができそうだった。
 高田くんはいろんなことを教えてくれた。

 今の会社に入った動機。
 会社での不平不満。
 家族構成。
 昔、飼っていた犬の話。
 いつかひとりで海外旅行をしたいという夢。
 住んでいるアパートの隣人がとてもいい人だということ。

 話の前後と内容はバラバラであったが、どれも会社では聞くことのできない貴重な話だった。

 私も呼応するように話をした。
 徹夜明けの高いテンションだったので話し方が大袈裟になってしまった。

 話をするうちに食が進み、テーブルいっぱいにあった五人前のサンドイッチは気がついたらなくなっていた。

 やがて店員が私たちのテーブルにやって来た。
 話が弾むあまり、「うるさい」と注意されるのかと思った。

「お客様、そろそろ閉店の時間です」

 私と高田くんはスマホを取り出し、時刻を確認した。

 午後8時ちょうどだった。

 私はノートパソコンをリュックに入れる。
 高田くんも店員に頭を下げながら席を立つ。

 喫茶『アオイ』の会計は割り勘にした。
 本当は私が全部払いたかったのだが、高田くんが強引にお金を出したために、割り勘になってしまった。

 会計を終えると、私たちは逃げるように喫茶『アオイ』を後にし、駅の方へ歩き出した。
 喫茶『アオイ』でにぎやかにし過ぎたせいか、ふたりとも黙ってしまった。
 でも、その沈黙は決して嫌なものではなかった。

 駅に着いたとき、高田くんが言う。

「また小説ができたら読ませてくれますか?」
「もちろん」

 暗がりの中、私は高田くんに笑みを向けた。
 高田くんは真面目な顔をしていた。

「すみません、今、小説を口実にしました」
「口実?」
「加藤さんの新しい小説を読みたいのは本当です。でも、次はただ会ってくれませんか? 小説抜きで」
「え?」
「加藤さんとふたりっきりでお会いしたいんです」
「うん、わかった」

 高田くんがガッツポーズを作った。
 喜んでいるようだ。

 この時の私はテンションがおかしかった。
 徹夜により気分が高揚していた。
 また寝不足により頭の回転がひどく低下していた。

「本当は明日にでもお誘いしたいんですが、今日は加藤さんが徹夜明けなのでやめときます。来週の土曜日、空いてますか?」
「空いてるよ」
「じゃあ、来週の土曜日、お願いします。詳しいことはLINEでお伝えしますので」
「わかった。よろしくね」

 なぜ高田くんがこれほど喜んでいるのか意味もわからず、私は約束をしてしまった。

 最後に、

「おやすみなさい」

 と言って、私たちは駅で別れた。

 その夜、私は帰宅すると、すぐにベッドに横になり眠りについた。

 翌日の朝。

 目覚めた私はベッドの上でボサボサ頭を掻きながら昨夜のことを思い出した。
 駅前で高田くんがガッツポーズを取っていたことが目に浮かぶ。
 その前に高田くんは何と言っていた?
『加藤さんとふたりっきりでお会いしたいんです』
 寝起きの頭が次第にいつもの冷静さを取り戻していく。
 昨夜の高田くんの申し出、あれは、あれは――

「デートのお誘いじゃん!」

 やっと気が付き、顔が紅潮していくのが自分でもはっきりとわかった。

 恥ずかしさのあまり私はベッドにうつ伏せになると、枕に顔を押し付けたのだった。