書くことは私の秘密です

 時間がない。

 高田くんに小説の完成を約束したのは明日の金曜日だ。
 仕事や家事の時間を考慮すると、執筆に割ける時間は限られてくる。
 
 仕事を休む、という選択肢が一瞬浮かんだ。
 しかし、私はすぐに首を横に振った。

 小説を書くために仕事を休む。
 そんなことはあってはならないことだ。
 小説を書くことは完全に私の趣味だ。

「ハイキングに行くから仕事を休む」
 そう言ってるのと同じことだ。

 最も削りやすいのは自宅にいる時間だ。
 掃除や洗濯、食事作りの家事は放置してもよい。
 一人暮らしのいいところだ。

 ただ、家事をないがしろにしたところで空く時間はたかが知れている。

(眠る時間を削るか)

 私は睡眠時間を執筆時間に変えることにした。

 この日も会社で高田くんと会話をすることはなかった。

 仕事中、私のデスクから社外の人が来るのが見えた。
 高田くんと数名の社員がそれを出迎え、応接室へ通していた。

 社外の人と話す時の高田くんは元気のよい笑みを顔に出す。
 両目が細くなり、口角を上げる。
 初めて出会う人が好印象を抱く笑みだ。

 私にはあんな真似はできない、と思う。
 ぶっきらぼうで、愛想笑いができないのだ。
 以前、やんわりと上司に、

「加藤さんはもっと笑うといいのにね」

 と言われたことがある。

 自分でも

(損な性格だな)

 と思う。

 会社にいる時だけでも愛嬌を振りまいていいと思う。

 入社してから三年間は笑顔を作る努力をしていた。
 女子らしい言葉遣いをするように心がけていた。
 が、私の身体にそれらが定着することはなかった。

 五年が経った頃には抑揚のないしゃべり方をする女事務員が誕生していた。
 きっと周囲の社員たちは私のことを「事務的な女」とでも揶揄しているだろう。

 ため息をついて、私は仕事に戻った。

 仕事が終わった。
 私はデスクの上を急いで片付けると身支度を始めた。
 一刻も早く帰ってノートパソコンの前に座りたかった。

 会社を出たときだった。

「お疲れ様です」

 耳慣れた声が私を止めた。
 高田くんだ。

「お疲れ様」

 と私は駅のほうへ歩きながら挨拶した。

「急用ですか?」

 高田くんは早歩きの私の隣を歩く。

「いや、急用ではないんだけど」
「あまり早く歩くと危ないですよ」
「ちょっとでも早く帰って、小説の続きを書きたいの」
「あの、まさか、まさかと思うんですが、小説の続きを書くために早く自宅に帰りたいんですか?」

 私は足を止めた。

「そうだけど」
「やっぱりそうですか! 僕が金曜日にできあがることを催促したせいですね。すみません」
「あれ、そうだったっけ?」

 私はその場で首を傾げた。

(『今週末には完成させるつもり』と私のほうから言ったはずだが……?)

 どちらにしろ一度決めたことだ。
 頑張って金曜日には書き上げ、高田くんに読んでもらうことにする。

 決意を固める私の横で、高田くんが何度も、

「すみません」

 と頭を下げた。
 高田くんが(こうべ)を垂れる姿を見て、私は小さく笑ってしまった。

 普段、会社にいる高田くんは堂々としている。
 姿勢がよく、背筋をきっちり伸ばした姿は常に自信があるように見える。
 きっちりと着こなした背広がそう見せているせいだろうか、25歳という実年齢よりも大人に見える。

 が、会社から一歩外に出た高田くんは25歳の青年らしさにあふれていた。

 こうやって、

 「すみません」

 と頭を下げる高田くんを会社で目にすることはない。
 会社内で謝罪をすることはあるのだろうが、社内ではもっと大人っぽく謝る。

 今、私の目の前で頭を下げる青年の動作は少し子供っぽく映った。
 決して幼稚ではなく、あくまで子供っぽい、だ。
 親しみが持てる動作とも言えた。

 頭を下げる高田くんを目にして、ある特徴に気がついた。

(高田くんってそんなに身長が高くないんだな)

 私は普段、部署外から高田くんを見ている。
 遠目で見ている。

 今、こうして改めて近くで目にすると、高田くんはそれほど身長が高くないのがわかった。
 ぎりぎり170センチないくらいだろうか。

(いちばん安心する高さだな)

 私は高身長の男性が苦手だ。
 電車の中で背の高い男性に出くわすと、そっと避ける。
 背の高い男性がそばにくるとギョッとしてしまう。
 萎縮してしまうし、ほんのちょっとだが恐怖を感じてしまうのだ。

 理由は自分でもわからない。
 しかし、中学生の頃には高身長の男性のことを、若干の怖さの目で見るようになっていた。

 本当に若干の怖さなので、仕事をする上や日常生活を送る分には支障はない。

 周りの女性が高身長の男性を好む中、私はあまり身長の高くない男性を好んだ。

 160センチの私がやや目線を上げると視線が交わるくらいの身長が最も安心する。
 数字にすると170センチ前後だ。
 
 170センチないと思われる高田くんの身長は、近寄られても不快感を覚えないベストな身長だった。 

(どういう意味でベストなんだ?)

 自分の思考に自分で突っ込みを入れる。

 高田くんは謝るのをやめると、鞄に手を入れた。
 鞄の中から何かを出す。

「これ、よかったら食べてください」
「なに?」
「チョコレートです」
「チョコレート?」
「書くという行為は頭を使うと聞いたので。頭を使うには糖分が必要だと思うんです。今日のお昼休み、すごい集中してスマホで小説を書いてましたよね」

 高田くんからチョコレートを受け取ると、私は驚く。

「え! 見てたの?」
「はい」

 確かに私はお昼休みの休憩時間にスマホで小説を書いていた。
 昨夜、ノートパソコンからテキストをコピーアンドペーストして、スマホに送った。
 そして、お昼休みに文章の続きをスマホのメモ帳機能を使って書いていたのだ。

「どうして小説を書いてるってわかったの?」
「やっぱり、気が付きませんでしたか」
「何を?」
「お昼休みの時間、加藤さんのすぐそばまで行ったんですよ」
「私の?」
「はい。でも、加藤さん、スマホの画面に釘付けで全然こっちを見ようともしなかったんです。で、その時チラッとスマホの画面が見えたんですけど、LINEの画面じゃなくてメモ帳アプリの画面だったんです。画面全体にびっしり文字が並んでたんで、小説を書いてるのかな、と思ったんです」
「私のデスクまで来てくれたのなら、声をかけてくれればよかったのに」
「とても集中しているようだったので、声もかけられませんでした」
「ごめん」

(そう言えば――)

 と思い出す。

(そう言えば『アオイ』で小説を書いている時も真後ろに座る高田くんの存在に気が付かなかった。あのとき、高田くんは一時間くらい前からいたと言っていた。普通、顔見知りが同じ空間にいたら気がつくものだろう)

 ものを書いている時の没入加減に我ながらあきれた。
 もう少し周囲の雰囲気を掴む余裕があればいいのにと思う。

「加藤さんの集中力がうらやましいです」
「からかってる?」
「真剣に言ってますよ」

 高田くんは真顔だった。

「ひとつの物事に集中できる人を尊敬します。僕はどうもそういうのが苦手で」
「謙遜しないでよ。高田くんは仕事ができるって評判いいよ」

 会社内での高田くんの評価は高い。
 職場であまり人付き合いをしない私にも高田くんの評判のよさが耳に入ってくるほどだ。

 高田くんは照れくさそうに笑った。

「加藤さんに褒められたようで嬉しいです」
「仕事ができる人はいいよね。私なんて仕事ができるわけでもない、愛想もないでどうしようもないよ」
「そんなことないです! 加藤さんはいつも一生懸命に仕事を頑張ってるじゃないですか!」
「よく見てるのね」

 私は半分からかったつもりで言った。

「いつも見てますから」
「いつも?」

 高田くんの言葉に力が入る。

「いつも、は言いすぎかもしれませんが、仕事の合間に加藤さんのことをちょくちょく見るんです。どんな時も加藤さんは仕事にまっすぐに取り組んでます。真面目に仕事をしている加藤さんの姿は格好いいと思います」
「私は格好よくはないよ」

 私は右手にあるチョコレートの包装紙を左手でいじった。
 私は照れていたのだ。
 しばらくの間、高田くんと私のあいだに沈黙があった。
 私は気を取り直すと、チョコレートを胸の高さまで上げた。
 
「チョコレートももらったし、頑張って書くね」
「はい」

 私はチョコレートの包装紙を破いた。
 チョコレートを口に入れると優しい甘さが口の中に広がった。
 チョコレートの残りは包装紙で包み直し、背負っていたリュックに入れた。
 リュックを背負い直すと、私は駅に向かって歩き出した。

 高田くんは私の横を歩いた。
 高田くんと駅まで行く。
 歩いている時、高田くんは、

「小説は最初から読ませてくださいね」

 と言った。

 もちろん、私はそのつもりだった。
 喫茶『アオイ』で高田くんは小説の冒頭から読み始めたが、手直しをして書き換わった箇所がいくつもある。

 駅構内に着くと、私と高田くんは別れた。
 私が向かう列車の方角と、高田くんが向かう列車の方角は違う。
 それぞれのホームに向かう時、高田くんが大きく手を振った。
 手を振る姿はまるで小さな子供だった。

 私は周囲を見渡した。
 会社の人間はひとりもいないようだった。

 私は高田くんに向かって小さく手を振った。

 ホームに向かいながら私は思った。

(高田くんって小学生みたい)

 ホームに列車が滑り込んで来る。
 私は列車の中の人となった。
 席が空いていたので座る。

 列車が動き出すと同時にポケットからスマホを取り出した。
 スマホで小説の続きを書く。

 列車に揺られながらスマホに文字を入れる。
 入力に集中するあまり、乗り過ごすところだった。
 慌てて列車から降りる。

 駅からバス停に向かうあいだ、

(行きの電車でもスマホで書けばよかった)

 と、後悔した。

 バスを降り、自宅に向かう。
 途中、コンビニに寄り、お弁当を買った。

 帰宅するなり手早くシャワーを浴びて、コンビニ弁当を食べた。

 食べ終えるとパソコンの前に座る。
 文章作成ソフトに文字を打ち込む。

 結末は決まっていた。

 身分差の恋に落ちた主人公は駆け落ちをする。
 駆け落ち先は国で最も端の村。
 が、主人公は世間を知らない貴族のお嬢様。
 家事などしたことがなく、家のことを一から学ぶことになる。
 男が村の手伝いをして収入を得ていたが、足りなくなる。
 そこで主人公は村の子供たちを集めて学問を教える。
 寺子屋のようなものだ。
 家事はできなかったが、ひとにものを教えることに長けていたようで主人公は村中の評判となる。
 その評判を捜索隊が聞きつける。
 村に住むにあたり偽名を使っていたが、言葉遣いや仕草から高貴な身分ではないかと噂になり、捜索隊に発見されてしまう。
 子供たちに学問を教えているとき、主人公は捜索隊に捕らえられる。
 主人公は即座に連れ戻される。
 男は貴族の娘をたぶらかした罪で牢屋に入れられる。

 ラストは主人公が広い自室でひとり寂しく男に手紙をしたためるところで終わる。
 
 それで終わりだ。
 結末がハッピーエンドではないのだ。

 私の小説は中途半端に終わったり、アンハッピーエンドで終わることが多い。
 頭の中で浮かんだエピソードがそこで終わっているからだ。
 ひとりで書いて、ひとりで読んでいるため第三者の読者を想定していないという理由もあった。
 これまでは自分自身が満足すればよかった。

 が、今は違う。
 高田くんという明確な読者がいる。

 私はパソコンに向き直り、姿勢を正した。

(結末が決まっているならば、あとは書ききるだけだ)

 私はキーボードを叩いた。