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ノートパソコンのキーボードを叩く手を止める。
ディスプレイ下部に表示されている時計を見る。
喫茶『アオイ』に入り、ノートパソコンと格闘し始めてから一時間半が経過していた。
金曜日の仕事終わり。
会社から歩いて20分かかる喫茶『アオイ』に入り、ひとりノートパソコンに向かって小説を書くのが私の趣味だった。
小説と言っても恋愛小説がほとんどだ。
その恋愛小説は私が普段抱いてる妄想や願望の上に成り立ったものだ。
ひと様から見れば取るに足らないものであろう。
テーブルの上にあるカップに手を伸ばし、すっかり冷めたコーヒーに口をつけた時だった。
「加藤さん」
後ろから声をかけられた。
聞き覚えのある声だった。
後ろを振り向くとひとりの男性が私の真後ろの席に座っていた。
男性はよく知った顔だった。
高田貴之。
私と同じ会社、同じフロアで働く同僚だ。
年齢は私より三つ下の25歳。
同じフロアで働いてはいるが、部署が違うので接点が乏しい。
お互いに名前を知っており、すれ違ったら会釈をする程度の仲だ。
私は首を傾げたまま、彼に尋ねた。
「高田くん、どうしてここにいるの?」
「たまたまですよ」
「たまたまって……。いつからそこにいたの?」
「一時間くらい前でしょうか」
「そんなに前からここにいたの?」
喫茶『アオイ』は会社から徒歩で20分かかる場所にある。
しかも、会社から『アオイ』への道筋は駅とはまるっきり反対方向になる。
そのためか『アオイ』では会社の人間と顔を合わせたことがなかった。
(会社の人と顔を合わせないから『アオイ』をよく利用してたのに)
私の思いを知ってか知らずか、高田くんはノートパソコンのほうに視線を送った。
「もしかして、仕事を外に持ち出してますか?」
「違うよ」
「ずっとパソコンを触ってましたよね?」
「そ、そうね」
「何をしてたんですか?」
「自作小説を書いてた」
とは決して言えない。
私にとって小説を書くという趣味は、ひとに言えない秘密、あるいは恥部だった。
「しゅ、趣味をやってたの」
長い時が経ったあと、苦しそうに答えた。
「パソコンを使う趣味ですか? どんな趣味ですか?」
「そ、それはね」
「怪しいですね。やっぱり会社のデータを持ち出して外で仕事をしてませんか?」
「私、そんなに真面目な社員じゃない」
「加藤さんは熱心な社員だと思いますよ。それよりも、やはりパソコンの中身を見せてもらえませんか」
「それだけは勘弁して」
「コンプライアンス案件で加藤さんの上司に報告してもいいですか?」
「……わかった」
「コンプライアンス」という言葉を聞き、私は観念した。
会社のコンプライアンスは、データを社外に持ち出すことを徹底して禁じていた。
外部へのデータ漏洩やウィルス感染を防ぐためだ。
仕事は社内フロアで完結させなければいけない。
「そちらの席に移動します」
高田くんがアイスコーヒーの入ったグラスを持った。
私の目の前に座る。
(どうにでもなれ)
私は半ばヤケになりながらノートパソコンを180度回転させて、高田くんがディスプレイを見られるようにした。
高田くんは一瞬、私に視線を送ったあと、ノートパソコンのディスプレイに視線を落とした。
右手でタッチパッドを操作する。
「……」
高田くんは無言でディスプレイの文字を読み込んでいく。
15分後。
高田くんがノートパソコンを私の方に差し出しながら頭を下げた。
「失礼しました。会社のデータはどこにもありませんでした」
「当たり前だよ。このパソコンは私の私物なんだから」
「もうひとつ、お詫びします。加藤さんが書いているものを読んでしまいました。恋愛小説と呼べばいいんでしょうか」
「どこから読んだの?」
「冒頭から」
「このことは誰にも言わないでくれる?」
「わかりました。誰にも言いません。加藤さんが仕事を外に持ち出してると、勘違いしたのは僕ですから」
高田くんが、「誰にも言わない」と約束をしてくれて、私は安堵した。
私が一息ついた時だった。
高田くんは一重だが大きな瞳を輝かせて言う。
「あの、誰にも言わないので、ひとつだけお願いをしてもいいですか?」
「何を?」
「加藤さんが書いてる小説の続きが気になります。是非、続きが読みたいです」
これまで私は書いたものを他人に読んでもらうことはなかった。
作者、私。
読者、私。
自分で書き上げたものを自分だけで読んできた。
誰かに読んでもらうことを想定していない。
私は素直に言う。
「恥ずかしいけど、私が小説を書くのは完全に趣味なの。それも自分だけの。はっきり言って誰かに読んでもらうことを想定して書いてないの」
高田くんがなぜか笑みを浮かべる。
「じゃあ、僕を高田さんの最初の読者にしてください。さっきの恋愛小説、とても続きが気になります。先が読めないんじゃ、生殺しですよ」
「……」
「お願いします」
高田くんがオーバーに頭を下げた。
「わかった」
「本当ですか!」
「その代わり、完成したらね」
「ありがとうございます。完成が待ち遠しいです」
こうして私は高田くんに自作の小説を見せることを約束してしまったのだった。



