1
俺が伊織さんに対してとんでもない事をしてしまったと気付いたのは、試合の日から三日が過ぎた時だった。
元々落ち込みやすい俺は、試合で負けたことをずるずると引きずって、あの時ああしていれば良かったとか、こうしていれば良かったとか、もうどうしようもない事をずっと考えて後悔していた。
いくら考えてももう試合の日には戻れないと気付き、ようやく気持ちも落ち着いてきたとき、今度は伊織さんの事が脳裏によぎったのだ。
———怒っているだろうか。怒っているだろうな。
はあっと大きなため息をつくと、サバクが「ため息つくと幸せが逃げるぜ」と言った。そんな迷信も、あながち根拠があるのかもしれないなと思った俺は、無言のまま頷いた。
昼休みの教室は暑い。教室はエアコンがかかっているのに、誰かが窓を開けてしまっているからだ。だが、暑かろうが寒かろうが、俺の伊織さんに対する悔恨は消えるわけじゃない。
「なあ、サバク」
俺はある事を思いついて、サバクに声をかけてみた。いまなら大塚達もいない。揶揄われることもなく話ができる絶好のチャンスだ。
「なんだ?」
「サバクって裁判官目指してるんだよな。ってことは、やっぱり裁判の判例とかもいろいろ勉強してるのか?」
「……まあな」
一息置いて、サバクが答えた。いじっていたスマホを机に置いて、俺の顔を見る。
「じゃあ、俺がクイズ出してあげよう。あくまでもこの話はフィクションだから、気にすんなよ」
「はあ?」
訳が分からないと言いたげなサバクを無視して、俺は話を続けた。
「あるところに、とても仲の良いカップルがいました。ある日、そのカップルの男が、彼女に冷たい態度を取りました。彼女は怒って、男に別れ話を切り出しました。だけど男は別れたくありません。素直に謝る勇気もありません。裁判をしてでも、二人の仲を保ちたいと思っています。男は、どうすればいいでしょうか」
「それさ、裁判と何の関係があるの?」
話し終えた俺に、サバクが言い放った。
「い、いや、だってさ、裁判をしてでも仲を保ちたいって男が言ってるから」
「お前、馬鹿だな」
うろたえを必死で隠す俺を、サバクはフンと鼻で笑った。
「そんなもん、裁判を起こす必要ねえじゃん。男が素直に謝れば済むことだろ?裁判には金がいるけど、謝るのはタダだし、その方が随分楽だって事、考えなくても分かるぞ。大体、素直に自分の過ちを認めない男は、嫌われるぜ」
サバクの言葉にドキリとした。何でもないはずのサバクの視線が痛い。
「そっか。そうだよな。さすがサバク」
俺が即席で作った作り話だと、サバクは気付いているのだろうか。素直になれない男が俺で、相手の女は伊織さんだって、分かったうえで彼はそう言ったのだろうか。笑顔を取り繕う水面下で、俺はビクビクしていた。
これじゃあ、自分で墓穴を掘ったみたいだ。
素直に自分の過ちを認めない男は嫌われるぜ。
サバクに言われた言葉を、心の中で反芻する。サバクはもう何も聞いてこなかったし、言ってこなかった。
彼はそんな奴だ。もし今の質問で、俺と伊織さんの関係に気付いたとしても、俺がそれを喋るのが嫌だと思っているのを知っているから、むやみやたらと追求してこない。
俺がサバクにどう思われているのかは知らないけど、お互いにあまり干渉し合わない関係だから、上手く付き合えるのかもしれないなと思った。
「まあ、お前が誰と付き合ってようと俺にはカンケー無いけどさ、素直になれよ」
チャイムの音に重なって、サバクの声が聞こえた。追求はしてこないけど、やっぱりサバクにはばれたんだと思った。
「……うん」
無理に隠そうとすれば、みなまでばれてしまうかもしれないので、俺は言い訳をすることなく頷いたのだった。
人に隠すほど、大層な恋愛をしているわけじゃない。別に母や姉と付き合っているのではないし、年上の人と付き合ってはいけないという法律など無い。世の中には歳の差がある夫婦やカップルなんていくらでもいるだろうし、たまに芸能人がそんな恋愛をしていると騒がれる事もある。だから俺と伊織さんの関係だって、数多あるそんな事例のうちのひとつでしかないし、ビクビクしている方がおかしいのかなと思ったりする。
「俺は伊織さんが好きなんだ!文句あるならかかってこいよ!」というふうに俺が堂々としていたら、もしかすると案外、誰も何も思わないのかもしれない。
俺が生まれてから、まだ十七年しか経っていない青臭い人間だから、そんな事を思えるのかな。結局、物事の価値観なんて人によって違うのは何となく分かっているけれど。
その後、俺は一大決心をして、放課後にサバクを呼び出した。といっても、部活を終えて帰ろうとしていたサバクを呼び止めただけだから、そんな大袈裟なものじゃないけれど。
サバクは、黙って俺について来てくれた。学食の横の自販機でジュースを買って、近くのベンチに二人して腰を下ろす。
遠くから、帰路につく生徒達のざわめきが聞こえてくる。大声で笑いながらファミレスに行く約束をしている女子達の声がはっきりと聞こえるほど、俺達の周りは静まりかえっていた。
「……俺、サバクに伝えなきゃいけないことがあって」
「うん」
「……大体予想ついてるかもしれないけどさ。それに、伝えなきゃいけないことだって俺が勝手に思っているだけで、サバクにとってはどうでもいいかもしれないけど」
「……早く言えよ」
サバクが苦笑する。妙な言い訳をしている事に、自分でも気付いた。
「お、俺、付き合ってる人がいるんだ。……あの、この間の書店員の……」
「ふうん。良かったじゃん」
そう言ってソーダを飲むサバクのリアクションの薄さに、俺は拍子抜けをした。
「うん。サバクとは長い付き合いだし、隠しているのもだんだん疲れてきたし、もう言っちゃおうかなって思ったんだ」
「ふうん。で、もし俺が大塚や須藤さんにベラベラ話したとしたら、どうするんだ?」
「大丈夫。サバクはそんなことしないから」
俺がそう言ったのは、願望ではなく、確信からだった。サバクは中身が熱いまま閉めてしまった弁当箱の蓋よりも口が固い。それに、裁判官を目指すような奴が、人から聞いた事を他人にベラベラと喋るはずがない。だから俺はサバクを信頼している。だから、打ち明けたのだ。
「それにしてもお前が彼女持ちかぁ。……なんか複雑な気分だぜ」
サバクが大きなため息をつく。俺よりカッコイイと自負しているらしいサバクには、彼女はまだいないのだ。
「梓は?」
「須藤さんは大塚が狙ってるらしいからな。ぶっちゃけ俺はあんまり好みじゃないし、彼女にはいらないかな」
「へえ。梓はやめといたほうが良いと俺は思うよ」
「ハハッ、須藤さんを『梓』って呼ぶもんだから、てっきり両想いだと思ってたけどな」
サバクがソーダを飲み干して、缶を地面に置いた。俺も慌ててリンゴジュースを飲む。
「ラインしてた時からの名残で、そう呼んでるだけだよ」
俺はそう言って苦笑する。関係が薄れたとはいえ、俺がいきなり「須藤さん」なんて呼んだら、不自然な気がするのだ。
「で、あの人とはどこまでいったんだ? まさか、ヤッたのか?」
「……う、うん、一回だけ……」
言いながら、顔が真っ赤になるのを感じた。俯き、サバクが置いた空き缶のプルタブの辺りを見つめる。
「うっひゃあ!すっげえ!!」
サバクが大袈裟に驚いたので、俺は耳まで熱くなった。
「お前がもうドーテーじゃないって、なんか信じられないなぁ、なんか……うーん、うわぁ……へぇ」
サバクは一体何が言いたいのだろうか。きっと想像以上の俺の「進歩」に対しての気持ちを表す言葉が見つからないのだろう。
「お前って、案外年上好きなんだな」
「違うよ。たまたま好きになったのが伊織さんなだけだよ」
それは事実だった。
一目惚れ。その相手が伊織さんだっただけであって、あの日俺の問い合わせに応じたのが伊織さん以外の店員、例えば、仁田さんとかだったりしたら、俺と伊織さんが付き合う事はなかったのかもしれないのだ。あの日、たまたま伊織さんが応対してくれて、たまたま彼女が俺の理想の女性に近かった。実年齢を聞いた時は驚いたけれど、その時も俺と伊織さんとの恋仲には年齢など関係ないと思ったんだ。
「ちょっと……」
そう言ってサバクは突然、俺のズボンに手をかけてきた。
「うわっ、サバクやめろよ!」
俺は慌ててその手を振り払う。
「お前、上は俺達の前でも平気で脱ぐくせに、下は躊躇うんだな」
「そりゃそうだよ。サバクだってそうだろ? しかも場所が場所だしさ。一応ここも、公共の場所だよ」
「あの女の人の前では全裸になれるくせに、俺達には見せられねえってわけか」
サバクがケラケラと笑う。低俗な会話だ。他の誰かが聞いていたら、ドン引きされそうな内容だ。だけど嫌なわけじゃない。むしろ、面白い。恥ずかしいけれど、とても面白い。矛盾しているなと、自分でも思う。
こんなあからさまではないかもしれないけれど、俺達の年頃の奴らはみんな、恋だの愛だの、ああだこうだと、話しながら笑ったりするのだろう。くだらないのに、そして、端から見れば低俗でしかないのに、面白い。
人生には、こんな矛盾がどれだけありふれているのだろうか。伊織さんとの関係は何も悪いと思っていないけど、やはりどこか後ろめたい。
その気持ちもまた、「矛盾」している。
「お前のカノジョ、イオリさんっていうんだ。珍しい名前だな」
「ぴったりな名前じゃんか」
「ノロケてんじゃねーよ、バーカ」
サバクがそう言って、額を小突いてきた。
「ソータにイオリか……珍しい名前同士でお似合いじゃん」
「サバクって名前も珍しいじゃん」
「それ、本気で言ってんのか?」
怪訝そうな顔をして尋ねてきたサバクに向かって俺がうなずくと、「サバクはあだ名だろ」と泣きそうな顔で言われた。
「ああそっか!」
本気で忘れていたわけじゃない。サバクの本名が「佐原」だって事くらい、ちゃんと覚えている。でも、言われた本人からしてみれば、笑えない冗談なのかもしれない。俺は言ってすぐに、まずいことをしたかなと焦ったが、サバクはそれ以上何も言ってこなかった。
「ソータとソーダって似てるよな」
挙げ句、そんな事を言った後に、サバクは立ち上がって「帰ろ」と呟いた。俺も鞄を持って、立ち上がる。
「昼に奏太が言ってた素直になれない男って、どうせお前の事なんだろ?」
校門を出て、公道を歩いていると、不意にサバクが聞いてきた。
「……うん」
俺は頷いて、試合があった日、せっかく伊織さんが見に来てくれていたのに、負けた悔しさと惨めさで冷たい態度で接してしまったことをサバクに話した。
「そりゃ、お前が悪いな」
俺が話し終えた後に、サバクが呟いた。
「素直に謝りたいけど、怖いんだ……。伊織さんに嫌われてたらどうしようって思っちゃって……」
「おいおい、相手は大人だぜ。お前が何でそんな態度になったのかくらいお見通しだろ。それにそんなんで奏太を嫌いになるような奴なら、俺だったらこっちから願い下げだよ」
「そんなもんなのかな……」
俺は呟いた。素直に謝れば、伊織さんはちゃんと許してくれるような気がした。
何も怖い事なんてない。目に見えないものを怖がるのがおかしいのだ。
「俺、今から本屋に寄ってみる。伊織さんいるかもしれないし」
「ああ。じゃあ、俺帰るわ。邪魔しちゃ悪いしな」
「うん。ごめんな、今日は」
「気にすんな。お前のウジウジにはもう慣れてるよ」
このまままっすぐに歩くと、伊織さんの書店にたどり着く。サバクと別れた俺は、チラリとスマホで時間を確認した後、そっと歩き出した。
伊織さんはあの書店の社員だし、これまでの勤務状況からすると、閉店まではあそこにいるはずだ。頑なに俺はそう思っていた。
「お客様、今日は香坂さんは休みをいただいておりますよ」
だけど俺が現実を知ったのは、書店に入るなり、やけにふざけた口調で仁田さんに囁かれた時だった。この間までは、私服の上にエプロンをつけていたのに、今日の彼はワイシャツにエプロンという姿だ。
「聞いて驚け奏太! 俺は社員に昇格したんだ!」
もしかすると仁田さんが嘘をついていて、店内のどこかに伊織さんがいるかもしれないと思った俺に、仁田さんは自ら今日の服装の理由を教えてくれた。
「なんならお前もここでバイトするか?」
そうなんですか、と返事をする間もなく、仁田さんは次の話題に移って、笑っている。ある意味でマイペースな人だ。
「勉強と部活で精一杯です」
たとえバイトをする余裕があっても、母がそれを許さないだろう。
「お小遣いが少ないなら、そう言えばいいのよ」と、財布から万札を出してごまかすに違いない。
「こんな広い店なんですから、万引きとか多いんじゃないですか? 俺につきっきりだったら、後で怒られないですか?」
「万引きの話題好きだなお前。それに、お客様の対応をしていましたって言ったらいいし、俺一人が抜けてたって、他の奴らがいるから大丈夫だよ」
仁田さんの絡みから抜け出そうと目論んでいた俺の思惑は失敗に終わった。では、あからさまに「うっとうしい」という雰囲気を出した方がいいのだろうか。そういうのは苦手だから、どうせ俺はしないけど。
「俺、帰ります。伊織さんがいないなら」
俺はそう言って出入口に向かって歩き出した。
「ありがとうございましたぁ!」
叫ぶように言った仁田さんが、こっそりと「ケッ、のろけやがって」と言ったのを、俺は聞き逃さなかったが、冷やかしなんだと気づいた俺は、聞こえなかったふりをしてそのまま店を出た。
店を出た俺は、伊織さんに会えなかったせいで、すっかり打ちのめされていた。苛立ってもいた。伊織さんの都合も知らずに、勝手に押しかけたのは自分だ。それなのに俺は、伊織さんに対して苛立っていた。
なんで俺が訪ねた時に限っていないんだよ。謝る気も失せちゃうじゃねえか。
俺は、伊織さんから連絡がない限り、このまま無視をしようと考えた。面白そうだ。どっちがより相手に依存しているのか、試してやろう。勝負だ、伊織さん。
根本的な原因は俺にあるのに、それを棚に上げた俺は、完全に責任を伊織さんに転嫁して、そんなふうに思っていた。
もうすぐ八時になるというのに、俺は家に帰ろうとは思わなかった。
家の中に居ても、そわそわした気持ちは落ち着かない。それなら動いているほうがマシだ、町を歩こうと考え、俺はひたすら歩道を歩いていった。
車が行き交う音、遠くから聞こえるクラクション、スーツ姿のサラリーマンが鳴らす革靴の足音。風が耳元を吹き抜け、派手な格好をした女子高生のけたたましい笑い声を運んでくる。別にいらない。
俺の目の前を歩くOL風の女性は、スマホをいじっている。町はいろんな音で溢れかえり、ビルの上の三日月は鋭利な刃物のように輝いている。あれで刺されたらひとたまりもないだろうなと、馬鹿げた想像をする。
こうして見ると、日本は平和すぎる国だなと思う。
毎日のように事件が起こって、ニュースキャスター達は忙しそうにそれを報道したりしているけれど、そんなキャスター達も含めて、日本人のほとんどが事件なんて蚊帳の外の出来事のように振る舞っている。
明日は我が身かもしれないというのに、ネットやテレビで報道を目にしては、「へえー」などと呟きながらお菓子をむさぼったりしているのだ。
俺は、この時代のこの場所に生まれてきて良かったなと思った。ここにいるからこそ、戦争や飢餓に悩んだりする事なく、伊織さんが好きだの、サバクはいい奴だのと、他人から見ればどうでもいいような事を考えたり出来るのだ。
恵まれているな、と思う。偽善者みたいだけど、本音だ。
だけどその「恵まれている」という気持ちは、ご飯を食べて、学校に行って、友人達と談笑をして、部活や勉強に励み、どうでもいいことばかり考えては一喜一憂するような生活が出来るというより、どちらかと言えば、恋愛が出来るほどの余裕が俺にあるから抱けるのかもしれない。
「なんか、哲学的」
俺はふと、独り言をこぼしてみた。聞いてくれる人はいない。俺の呟きは、喧騒に揉み消されていくだけだった。
大都市に比べたら田舎町とはいえ、たくさんの人達が行き交っている。それなのに、みんな他人には興味が無いというように、自分達の世界を過ごしている。
よくよく考えてみれば、それもまた奇妙なことのような気がした。
夜は不思議だ。昼間とは違って、俺にしてはいろいろなことを考えられる気がする。夜は自分の心と向き合える時間が多くなる。何が言いたいのか分からなくなってきたけれど、なんというか、つまりは最も自分を見つめられる時間だって事。
俺は夜になると、客観的な考えをする人間になるのかもしれない。だけどその分、自分の小ささに気付いたりもする。気づいてしまっても、知らんぷりを決め込んでしまうこともある。他人との関わりだと、そういうわけにもいかないけど、自分の事なんだから、別にいいじゃないか。そんな事を悶々と考えているうちに、気が付けば家の方向に向かって歩いていた。
高校生の俺の行動範囲なんて、たかが知れている。家に帰りたくないと思っても、どこにも行く当てはないし、明日も学校があるし、遠くまで歩いていく気力もない。
結局最後は家に帰らないといけないのだから、それならば早めに家に帰ったほうが良かったのかもしれない。でもまあ、気分転換になったのだから、いいか。
伊織さんの書店からは、もう随分と離れている。大通りをそれたからなのか、人通りも少なくなった。
今まで町の光に圧され気味だった月が、先程見た時より輝いて見える。手を伸ばせば触れそうだけど、触った途端に手の平がざっくりと切れて血まみれになりそうだ。
細い月は、伊織さんのように神秘的だった。
ダメだ、ダメだ。伊織さんの事ばかり考えたら、会いたくなっちゃうじゃないか。今は、極力彼女のことを考えないようにするんだ。
伊織さんを焦らさせて、「私は奏太くんの事が大好きです。だから、離れないで」とでも言わせるんだ。
俺は伊織さんの事を頭から振り払うべく、歩く速度を速めた。
二十分も歩くと、自宅が見えてきた。そして家の門をくぐる頃には、俺はもう伊織さんの事など忘れて、今日の夕食は何かななどと考えていた。
「ただいま」
俺は玄関に入ると、たまたま廊下にいた母に向かって言った。
「おかえり、すぐご飯温めるわね」
「……うん」
俺の返事も聞かずに、母は台所へ引っ込んだので、そのまま二階へと上がった。
俺は、食べる事が好きだ。いや、大好きだ。食欲のままにものを食べられるという事は、すごく幸せな事なんだと思う。
食べられる時に思う存分食べればいいと思うし、俺はいつもそうしている。たとえ食事を終えた数分後に、突然俺の命が絶たれたとしても、空腹で死ぬのと満腹で死ぬのとでは、その気分もまた違うんだろうなと思う。それはちょっと極論かもしれないけど、せっかく自分のために作ってくれた料理があるのだから、全部食べないと失礼だし、食材が勿体ない。
恋愛を表現する時、たまに人は「相手を食べる」などと表す事がある。俺は食べ物を食べるのは大好きだけど、人を「食べる」のは苦手だ。
サバクのように、性欲がむんむんとわいているわけじゃないし、何よりも恥ずかしいという気持ちがあるからだ。だけど、食べ物と同様、ためらっていては、相手に失礼なのかもしれない。
俺がどれだけ相手を好きでいようとも、行動を起こさなければその気持ちも伝わらないかもしれない。
だけど、やり過ぎもよくないと思う。食べ物風に言えば、「腹八分目」といったところだろうか。ほどほどに控えておかないと、自分は性欲を満たす事しか頭に無い軽い男なんだと思われるかもしれないからだ。
難しい。やり過ぎも、やらなさ過ぎもよくないのだし、人によってその基準も様々だから、難しい。
伊織さんは、たった一度のセックスで充分なのだろうか。大人の女性は、そんなもので性欲が満たされるのだろうか。惑う前から答えは出ている。否だ。
俺だって、もしかしたら少ないんじゃないかと思っているのだから、伊織さんはもっと俺を求めているんじゃないだろうか。
暗い部屋で、そんな事を考えていた俺は急に恥ずかしくなった。
何言ってんだよ、伊織さんの気持ちも聞かないで「俺を求めている」だなんて、図々しいにもほどがあるじゃないか。そんなふうに自分を叱責する。俺は伊織さんに自分の体を見て欲しいんじゃない。
俺だってバスケをやっているから、それなりに引き締まった体をしているけれど、だからといって自分の体に自信があるわけではない。だから、体も、内面も含めて、俺の全てを見てほしい。
俺の全てを見た上で、好きでいてほしい。俺もそうするから。それが、俺の考えだった。
相手に無理強いはしない。伊織さんならいちいち言わなくても分かってくれそうだから、大丈夫だろうと信じている。
ダメだ、もう、考えるな。ハッと我に帰り、俺は伊織さんの事を必死で頭から振り払った。つい先程、同じ事をしたのを思い出す。
無意識のうちに、思考はすぐに彼女の事を考えてしまう。それは、俺がよほど伊織さんに依存している証拠で、どれだけ意地を張ろうともこの想いは偽れないものだということだ。
だけど、俺からは連絡しない。多分。俺が謝ろうとした時に、伊織さんはいなかったのが悪いんだ。自分が悪いのは分かっている。分かっているからこそ、意地になってしまうのだ。
「奏太、ご飯出来たわよ!」
階下から母の声が聞こえた。同時に、コンソメの匂いがただよってくる。
今夜のおかずは、キャベツとジャガイモ、そしてベーコンがたっぷり入ったポトフだろうか。食べ物に関する空腹は我慢しない主義の俺は、慌てて下に降りていったのだった。
俺が伊織さんに対してとんでもない事をしてしまったと気付いたのは、試合の日から三日が過ぎた時だった。
元々落ち込みやすい俺は、試合で負けたことをずるずると引きずって、あの時ああしていれば良かったとか、こうしていれば良かったとか、もうどうしようもない事をずっと考えて後悔していた。
いくら考えてももう試合の日には戻れないと気付き、ようやく気持ちも落ち着いてきたとき、今度は伊織さんの事が脳裏によぎったのだ。
———怒っているだろうか。怒っているだろうな。
はあっと大きなため息をつくと、サバクが「ため息つくと幸せが逃げるぜ」と言った。そんな迷信も、あながち根拠があるのかもしれないなと思った俺は、無言のまま頷いた。
昼休みの教室は暑い。教室はエアコンがかかっているのに、誰かが窓を開けてしまっているからだ。だが、暑かろうが寒かろうが、俺の伊織さんに対する悔恨は消えるわけじゃない。
「なあ、サバク」
俺はある事を思いついて、サバクに声をかけてみた。いまなら大塚達もいない。揶揄われることもなく話ができる絶好のチャンスだ。
「なんだ?」
「サバクって裁判官目指してるんだよな。ってことは、やっぱり裁判の判例とかもいろいろ勉強してるのか?」
「……まあな」
一息置いて、サバクが答えた。いじっていたスマホを机に置いて、俺の顔を見る。
「じゃあ、俺がクイズ出してあげよう。あくまでもこの話はフィクションだから、気にすんなよ」
「はあ?」
訳が分からないと言いたげなサバクを無視して、俺は話を続けた。
「あるところに、とても仲の良いカップルがいました。ある日、そのカップルの男が、彼女に冷たい態度を取りました。彼女は怒って、男に別れ話を切り出しました。だけど男は別れたくありません。素直に謝る勇気もありません。裁判をしてでも、二人の仲を保ちたいと思っています。男は、どうすればいいでしょうか」
「それさ、裁判と何の関係があるの?」
話し終えた俺に、サバクが言い放った。
「い、いや、だってさ、裁判をしてでも仲を保ちたいって男が言ってるから」
「お前、馬鹿だな」
うろたえを必死で隠す俺を、サバクはフンと鼻で笑った。
「そんなもん、裁判を起こす必要ねえじゃん。男が素直に謝れば済むことだろ?裁判には金がいるけど、謝るのはタダだし、その方が随分楽だって事、考えなくても分かるぞ。大体、素直に自分の過ちを認めない男は、嫌われるぜ」
サバクの言葉にドキリとした。何でもないはずのサバクの視線が痛い。
「そっか。そうだよな。さすがサバク」
俺が即席で作った作り話だと、サバクは気付いているのだろうか。素直になれない男が俺で、相手の女は伊織さんだって、分かったうえで彼はそう言ったのだろうか。笑顔を取り繕う水面下で、俺はビクビクしていた。
これじゃあ、自分で墓穴を掘ったみたいだ。
素直に自分の過ちを認めない男は嫌われるぜ。
サバクに言われた言葉を、心の中で反芻する。サバクはもう何も聞いてこなかったし、言ってこなかった。
彼はそんな奴だ。もし今の質問で、俺と伊織さんの関係に気付いたとしても、俺がそれを喋るのが嫌だと思っているのを知っているから、むやみやたらと追求してこない。
俺がサバクにどう思われているのかは知らないけど、お互いにあまり干渉し合わない関係だから、上手く付き合えるのかもしれないなと思った。
「まあ、お前が誰と付き合ってようと俺にはカンケー無いけどさ、素直になれよ」
チャイムの音に重なって、サバクの声が聞こえた。追求はしてこないけど、やっぱりサバクにはばれたんだと思った。
「……うん」
無理に隠そうとすれば、みなまでばれてしまうかもしれないので、俺は言い訳をすることなく頷いたのだった。
人に隠すほど、大層な恋愛をしているわけじゃない。別に母や姉と付き合っているのではないし、年上の人と付き合ってはいけないという法律など無い。世の中には歳の差がある夫婦やカップルなんていくらでもいるだろうし、たまに芸能人がそんな恋愛をしていると騒がれる事もある。だから俺と伊織さんの関係だって、数多あるそんな事例のうちのひとつでしかないし、ビクビクしている方がおかしいのかなと思ったりする。
「俺は伊織さんが好きなんだ!文句あるならかかってこいよ!」というふうに俺が堂々としていたら、もしかすると案外、誰も何も思わないのかもしれない。
俺が生まれてから、まだ十七年しか経っていない青臭い人間だから、そんな事を思えるのかな。結局、物事の価値観なんて人によって違うのは何となく分かっているけれど。
その後、俺は一大決心をして、放課後にサバクを呼び出した。といっても、部活を終えて帰ろうとしていたサバクを呼び止めただけだから、そんな大袈裟なものじゃないけれど。
サバクは、黙って俺について来てくれた。学食の横の自販機でジュースを買って、近くのベンチに二人して腰を下ろす。
遠くから、帰路につく生徒達のざわめきが聞こえてくる。大声で笑いながらファミレスに行く約束をしている女子達の声がはっきりと聞こえるほど、俺達の周りは静まりかえっていた。
「……俺、サバクに伝えなきゃいけないことがあって」
「うん」
「……大体予想ついてるかもしれないけどさ。それに、伝えなきゃいけないことだって俺が勝手に思っているだけで、サバクにとってはどうでもいいかもしれないけど」
「……早く言えよ」
サバクが苦笑する。妙な言い訳をしている事に、自分でも気付いた。
「お、俺、付き合ってる人がいるんだ。……あの、この間の書店員の……」
「ふうん。良かったじゃん」
そう言ってソーダを飲むサバクのリアクションの薄さに、俺は拍子抜けをした。
「うん。サバクとは長い付き合いだし、隠しているのもだんだん疲れてきたし、もう言っちゃおうかなって思ったんだ」
「ふうん。で、もし俺が大塚や須藤さんにベラベラ話したとしたら、どうするんだ?」
「大丈夫。サバクはそんなことしないから」
俺がそう言ったのは、願望ではなく、確信からだった。サバクは中身が熱いまま閉めてしまった弁当箱の蓋よりも口が固い。それに、裁判官を目指すような奴が、人から聞いた事を他人にベラベラと喋るはずがない。だから俺はサバクを信頼している。だから、打ち明けたのだ。
「それにしてもお前が彼女持ちかぁ。……なんか複雑な気分だぜ」
サバクが大きなため息をつく。俺よりカッコイイと自負しているらしいサバクには、彼女はまだいないのだ。
「梓は?」
「須藤さんは大塚が狙ってるらしいからな。ぶっちゃけ俺はあんまり好みじゃないし、彼女にはいらないかな」
「へえ。梓はやめといたほうが良いと俺は思うよ」
「ハハッ、須藤さんを『梓』って呼ぶもんだから、てっきり両想いだと思ってたけどな」
サバクがソーダを飲み干して、缶を地面に置いた。俺も慌ててリンゴジュースを飲む。
「ラインしてた時からの名残で、そう呼んでるだけだよ」
俺はそう言って苦笑する。関係が薄れたとはいえ、俺がいきなり「須藤さん」なんて呼んだら、不自然な気がするのだ。
「で、あの人とはどこまでいったんだ? まさか、ヤッたのか?」
「……う、うん、一回だけ……」
言いながら、顔が真っ赤になるのを感じた。俯き、サバクが置いた空き缶のプルタブの辺りを見つめる。
「うっひゃあ!すっげえ!!」
サバクが大袈裟に驚いたので、俺は耳まで熱くなった。
「お前がもうドーテーじゃないって、なんか信じられないなぁ、なんか……うーん、うわぁ……へぇ」
サバクは一体何が言いたいのだろうか。きっと想像以上の俺の「進歩」に対しての気持ちを表す言葉が見つからないのだろう。
「お前って、案外年上好きなんだな」
「違うよ。たまたま好きになったのが伊織さんなだけだよ」
それは事実だった。
一目惚れ。その相手が伊織さんだっただけであって、あの日俺の問い合わせに応じたのが伊織さん以外の店員、例えば、仁田さんとかだったりしたら、俺と伊織さんが付き合う事はなかったのかもしれないのだ。あの日、たまたま伊織さんが応対してくれて、たまたま彼女が俺の理想の女性に近かった。実年齢を聞いた時は驚いたけれど、その時も俺と伊織さんとの恋仲には年齢など関係ないと思ったんだ。
「ちょっと……」
そう言ってサバクは突然、俺のズボンに手をかけてきた。
「うわっ、サバクやめろよ!」
俺は慌ててその手を振り払う。
「お前、上は俺達の前でも平気で脱ぐくせに、下は躊躇うんだな」
「そりゃそうだよ。サバクだってそうだろ? しかも場所が場所だしさ。一応ここも、公共の場所だよ」
「あの女の人の前では全裸になれるくせに、俺達には見せられねえってわけか」
サバクがケラケラと笑う。低俗な会話だ。他の誰かが聞いていたら、ドン引きされそうな内容だ。だけど嫌なわけじゃない。むしろ、面白い。恥ずかしいけれど、とても面白い。矛盾しているなと、自分でも思う。
こんなあからさまではないかもしれないけれど、俺達の年頃の奴らはみんな、恋だの愛だの、ああだこうだと、話しながら笑ったりするのだろう。くだらないのに、そして、端から見れば低俗でしかないのに、面白い。
人生には、こんな矛盾がどれだけありふれているのだろうか。伊織さんとの関係は何も悪いと思っていないけど、やはりどこか後ろめたい。
その気持ちもまた、「矛盾」している。
「お前のカノジョ、イオリさんっていうんだ。珍しい名前だな」
「ぴったりな名前じゃんか」
「ノロケてんじゃねーよ、バーカ」
サバクがそう言って、額を小突いてきた。
「ソータにイオリか……珍しい名前同士でお似合いじゃん」
「サバクって名前も珍しいじゃん」
「それ、本気で言ってんのか?」
怪訝そうな顔をして尋ねてきたサバクに向かって俺がうなずくと、「サバクはあだ名だろ」と泣きそうな顔で言われた。
「ああそっか!」
本気で忘れていたわけじゃない。サバクの本名が「佐原」だって事くらい、ちゃんと覚えている。でも、言われた本人からしてみれば、笑えない冗談なのかもしれない。俺は言ってすぐに、まずいことをしたかなと焦ったが、サバクはそれ以上何も言ってこなかった。
「ソータとソーダって似てるよな」
挙げ句、そんな事を言った後に、サバクは立ち上がって「帰ろ」と呟いた。俺も鞄を持って、立ち上がる。
「昼に奏太が言ってた素直になれない男って、どうせお前の事なんだろ?」
校門を出て、公道を歩いていると、不意にサバクが聞いてきた。
「……うん」
俺は頷いて、試合があった日、せっかく伊織さんが見に来てくれていたのに、負けた悔しさと惨めさで冷たい態度で接してしまったことをサバクに話した。
「そりゃ、お前が悪いな」
俺が話し終えた後に、サバクが呟いた。
「素直に謝りたいけど、怖いんだ……。伊織さんに嫌われてたらどうしようって思っちゃって……」
「おいおい、相手は大人だぜ。お前が何でそんな態度になったのかくらいお見通しだろ。それにそんなんで奏太を嫌いになるような奴なら、俺だったらこっちから願い下げだよ」
「そんなもんなのかな……」
俺は呟いた。素直に謝れば、伊織さんはちゃんと許してくれるような気がした。
何も怖い事なんてない。目に見えないものを怖がるのがおかしいのだ。
「俺、今から本屋に寄ってみる。伊織さんいるかもしれないし」
「ああ。じゃあ、俺帰るわ。邪魔しちゃ悪いしな」
「うん。ごめんな、今日は」
「気にすんな。お前のウジウジにはもう慣れてるよ」
このまままっすぐに歩くと、伊織さんの書店にたどり着く。サバクと別れた俺は、チラリとスマホで時間を確認した後、そっと歩き出した。
伊織さんはあの書店の社員だし、これまでの勤務状況からすると、閉店まではあそこにいるはずだ。頑なに俺はそう思っていた。
「お客様、今日は香坂さんは休みをいただいておりますよ」
だけど俺が現実を知ったのは、書店に入るなり、やけにふざけた口調で仁田さんに囁かれた時だった。この間までは、私服の上にエプロンをつけていたのに、今日の彼はワイシャツにエプロンという姿だ。
「聞いて驚け奏太! 俺は社員に昇格したんだ!」
もしかすると仁田さんが嘘をついていて、店内のどこかに伊織さんがいるかもしれないと思った俺に、仁田さんは自ら今日の服装の理由を教えてくれた。
「なんならお前もここでバイトするか?」
そうなんですか、と返事をする間もなく、仁田さんは次の話題に移って、笑っている。ある意味でマイペースな人だ。
「勉強と部活で精一杯です」
たとえバイトをする余裕があっても、母がそれを許さないだろう。
「お小遣いが少ないなら、そう言えばいいのよ」と、財布から万札を出してごまかすに違いない。
「こんな広い店なんですから、万引きとか多いんじゃないですか? 俺につきっきりだったら、後で怒られないですか?」
「万引きの話題好きだなお前。それに、お客様の対応をしていましたって言ったらいいし、俺一人が抜けてたって、他の奴らがいるから大丈夫だよ」
仁田さんの絡みから抜け出そうと目論んでいた俺の思惑は失敗に終わった。では、あからさまに「うっとうしい」という雰囲気を出した方がいいのだろうか。そういうのは苦手だから、どうせ俺はしないけど。
「俺、帰ります。伊織さんがいないなら」
俺はそう言って出入口に向かって歩き出した。
「ありがとうございましたぁ!」
叫ぶように言った仁田さんが、こっそりと「ケッ、のろけやがって」と言ったのを、俺は聞き逃さなかったが、冷やかしなんだと気づいた俺は、聞こえなかったふりをしてそのまま店を出た。
店を出た俺は、伊織さんに会えなかったせいで、すっかり打ちのめされていた。苛立ってもいた。伊織さんの都合も知らずに、勝手に押しかけたのは自分だ。それなのに俺は、伊織さんに対して苛立っていた。
なんで俺が訪ねた時に限っていないんだよ。謝る気も失せちゃうじゃねえか。
俺は、伊織さんから連絡がない限り、このまま無視をしようと考えた。面白そうだ。どっちがより相手に依存しているのか、試してやろう。勝負だ、伊織さん。
根本的な原因は俺にあるのに、それを棚に上げた俺は、完全に責任を伊織さんに転嫁して、そんなふうに思っていた。
もうすぐ八時になるというのに、俺は家に帰ろうとは思わなかった。
家の中に居ても、そわそわした気持ちは落ち着かない。それなら動いているほうがマシだ、町を歩こうと考え、俺はひたすら歩道を歩いていった。
車が行き交う音、遠くから聞こえるクラクション、スーツ姿のサラリーマンが鳴らす革靴の足音。風が耳元を吹き抜け、派手な格好をした女子高生のけたたましい笑い声を運んでくる。別にいらない。
俺の目の前を歩くOL風の女性は、スマホをいじっている。町はいろんな音で溢れかえり、ビルの上の三日月は鋭利な刃物のように輝いている。あれで刺されたらひとたまりもないだろうなと、馬鹿げた想像をする。
こうして見ると、日本は平和すぎる国だなと思う。
毎日のように事件が起こって、ニュースキャスター達は忙しそうにそれを報道したりしているけれど、そんなキャスター達も含めて、日本人のほとんどが事件なんて蚊帳の外の出来事のように振る舞っている。
明日は我が身かもしれないというのに、ネットやテレビで報道を目にしては、「へえー」などと呟きながらお菓子をむさぼったりしているのだ。
俺は、この時代のこの場所に生まれてきて良かったなと思った。ここにいるからこそ、戦争や飢餓に悩んだりする事なく、伊織さんが好きだの、サバクはいい奴だのと、他人から見ればどうでもいいような事を考えたり出来るのだ。
恵まれているな、と思う。偽善者みたいだけど、本音だ。
だけどその「恵まれている」という気持ちは、ご飯を食べて、学校に行って、友人達と談笑をして、部活や勉強に励み、どうでもいいことばかり考えては一喜一憂するような生活が出来るというより、どちらかと言えば、恋愛が出来るほどの余裕が俺にあるから抱けるのかもしれない。
「なんか、哲学的」
俺はふと、独り言をこぼしてみた。聞いてくれる人はいない。俺の呟きは、喧騒に揉み消されていくだけだった。
大都市に比べたら田舎町とはいえ、たくさんの人達が行き交っている。それなのに、みんな他人には興味が無いというように、自分達の世界を過ごしている。
よくよく考えてみれば、それもまた奇妙なことのような気がした。
夜は不思議だ。昼間とは違って、俺にしてはいろいろなことを考えられる気がする。夜は自分の心と向き合える時間が多くなる。何が言いたいのか分からなくなってきたけれど、なんというか、つまりは最も自分を見つめられる時間だって事。
俺は夜になると、客観的な考えをする人間になるのかもしれない。だけどその分、自分の小ささに気付いたりもする。気づいてしまっても、知らんぷりを決め込んでしまうこともある。他人との関わりだと、そういうわけにもいかないけど、自分の事なんだから、別にいいじゃないか。そんな事を悶々と考えているうちに、気が付けば家の方向に向かって歩いていた。
高校生の俺の行動範囲なんて、たかが知れている。家に帰りたくないと思っても、どこにも行く当てはないし、明日も学校があるし、遠くまで歩いていく気力もない。
結局最後は家に帰らないといけないのだから、それならば早めに家に帰ったほうが良かったのかもしれない。でもまあ、気分転換になったのだから、いいか。
伊織さんの書店からは、もう随分と離れている。大通りをそれたからなのか、人通りも少なくなった。
今まで町の光に圧され気味だった月が、先程見た時より輝いて見える。手を伸ばせば触れそうだけど、触った途端に手の平がざっくりと切れて血まみれになりそうだ。
細い月は、伊織さんのように神秘的だった。
ダメだ、ダメだ。伊織さんの事ばかり考えたら、会いたくなっちゃうじゃないか。今は、極力彼女のことを考えないようにするんだ。
伊織さんを焦らさせて、「私は奏太くんの事が大好きです。だから、離れないで」とでも言わせるんだ。
俺は伊織さんの事を頭から振り払うべく、歩く速度を速めた。
二十分も歩くと、自宅が見えてきた。そして家の門をくぐる頃には、俺はもう伊織さんの事など忘れて、今日の夕食は何かななどと考えていた。
「ただいま」
俺は玄関に入ると、たまたま廊下にいた母に向かって言った。
「おかえり、すぐご飯温めるわね」
「……うん」
俺の返事も聞かずに、母は台所へ引っ込んだので、そのまま二階へと上がった。
俺は、食べる事が好きだ。いや、大好きだ。食欲のままにものを食べられるという事は、すごく幸せな事なんだと思う。
食べられる時に思う存分食べればいいと思うし、俺はいつもそうしている。たとえ食事を終えた数分後に、突然俺の命が絶たれたとしても、空腹で死ぬのと満腹で死ぬのとでは、その気分もまた違うんだろうなと思う。それはちょっと極論かもしれないけど、せっかく自分のために作ってくれた料理があるのだから、全部食べないと失礼だし、食材が勿体ない。
恋愛を表現する時、たまに人は「相手を食べる」などと表す事がある。俺は食べ物を食べるのは大好きだけど、人を「食べる」のは苦手だ。
サバクのように、性欲がむんむんとわいているわけじゃないし、何よりも恥ずかしいという気持ちがあるからだ。だけど、食べ物と同様、ためらっていては、相手に失礼なのかもしれない。
俺がどれだけ相手を好きでいようとも、行動を起こさなければその気持ちも伝わらないかもしれない。
だけど、やり過ぎもよくないと思う。食べ物風に言えば、「腹八分目」といったところだろうか。ほどほどに控えておかないと、自分は性欲を満たす事しか頭に無い軽い男なんだと思われるかもしれないからだ。
難しい。やり過ぎも、やらなさ過ぎもよくないのだし、人によってその基準も様々だから、難しい。
伊織さんは、たった一度のセックスで充分なのだろうか。大人の女性は、そんなもので性欲が満たされるのだろうか。惑う前から答えは出ている。否だ。
俺だって、もしかしたら少ないんじゃないかと思っているのだから、伊織さんはもっと俺を求めているんじゃないだろうか。
暗い部屋で、そんな事を考えていた俺は急に恥ずかしくなった。
何言ってんだよ、伊織さんの気持ちも聞かないで「俺を求めている」だなんて、図々しいにもほどがあるじゃないか。そんなふうに自分を叱責する。俺は伊織さんに自分の体を見て欲しいんじゃない。
俺だってバスケをやっているから、それなりに引き締まった体をしているけれど、だからといって自分の体に自信があるわけではない。だから、体も、内面も含めて、俺の全てを見てほしい。
俺の全てを見た上で、好きでいてほしい。俺もそうするから。それが、俺の考えだった。
相手に無理強いはしない。伊織さんならいちいち言わなくても分かってくれそうだから、大丈夫だろうと信じている。
ダメだ、もう、考えるな。ハッと我に帰り、俺は伊織さんの事を必死で頭から振り払った。つい先程、同じ事をしたのを思い出す。
無意識のうちに、思考はすぐに彼女の事を考えてしまう。それは、俺がよほど伊織さんに依存している証拠で、どれだけ意地を張ろうともこの想いは偽れないものだということだ。
だけど、俺からは連絡しない。多分。俺が謝ろうとした時に、伊織さんはいなかったのが悪いんだ。自分が悪いのは分かっている。分かっているからこそ、意地になってしまうのだ。
「奏太、ご飯出来たわよ!」
階下から母の声が聞こえた。同時に、コンソメの匂いがただよってくる。
今夜のおかずは、キャベツとジャガイモ、そしてベーコンがたっぷり入ったポトフだろうか。食べ物に関する空腹は我慢しない主義の俺は、慌てて下に降りていったのだった。
